働きませんわ。それでも王妃になります

鷹 綾

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5話 忠告する参謀子息

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5話 忠告する参謀子息

 王宮の回廊は、午後の陽光を受けて静かに輝いていた。

 高い天井に反射する光が白い大理石の床を淡く照らし、足音は規則正しく反響する。その中を、レオン・グレイフォードは一定の歩調で進んでいた。

 宰相の息子であり、王太子アレクシスの側近。

 幼少期から同じ教師に学び、同じ書物を読み、同じ未来を見据えてきた間柄だ。だからこそ、彼は今日の面会を軽く済ませるつもりはなかった。

 王太子の執務室の扉を叩く。

「入れ」

 短い返答。

 室内に足を踏み入れると、アレクシスは机に肘をつき、苛立たしげに書類を睨んでいた。

「またか」

 レオンの姿を見るなり、王太子は吐き捨てる。

「公爵家が条件を出してきた。保証料率の見直しだと」

「はい。想定内でございます」

「想定内だと?」

 鋭い視線が向けられる。

 レオンは落ち着いた声で続けた。

「婚約関係が不安定であれば、契約も再評価されます。自然な流れです」

「自然だと? これまでそんなことはなかった」

「これまでは、関係が安定していたからです」

 沈黙が落ちる。

 アレクシスは椅子から立ち上がり、窓辺へ歩いた。王都を見下ろすその背中には、焦燥が滲んでいる。

「私は国のためを思っている。民のために動く王妃が必要だ。エルフィーナは動かない」

「殿下は、動くことを評価なさる」

「当然だろう」

「ですが、動かないことで成り立つものもございます」

 その言葉に、アレクシスは振り向く。

「何が言いたい」

「ルヴァリエ公爵家は、王国財政の基盤の一部です。殿下が思う以上に」

 レオンは机の上の書類を一枚取り、広げる。

「港湾事業、穀物価格安定基金、都市再開発融資。いずれも公爵家の保証が前提条件です」

「分かっている」

「いえ、殿下は数字としては理解しておられる。しかし、重みとしては理解されていない」

 アレクシスの眉がひそむ。

「彼女は何もしていない」

「表に出ていないだけです」

 その一言が、空気をわずかに変えた。

「エルフィーナ嬢は、王宮で声を上げることはありません。ですが彼女の署名は、王国の信用を支えている」

「ならばなぜ、私に協力しようとしない」

 アレクシスの声には、苛立ちと同時にわずかな困惑が混じっていた。

「彼女は王太子妃になるのだぞ。共に立つべきだ」

「殿下」

 レオンは一歩踏み出す。

「婚約とは、感情ではなく契約です」

「またそれか」

「契約は、信頼の上に成り立ちます。もし殿下が婚約を軽んじる姿勢を見せれば、公爵家も契約を再考するでしょう」

「軽んじてなどいない」

 だが言葉の端には、揺らぎがあった。

 ここ数か月、アレクシスは公然と聖女リリアと行動を共にしている。慈善訪問、祈祷式、民衆集会。彼女の隣に立つ時間は、確実に増えていた。

 王都の噂は早い。

 未来の王妃は誰か。

 その問いが、静かに広がっている。

「殿下が選ぶのは自由です」

 レオンは淡々と言う。

「しかし選択には代償が伴います」

「代償だと?」

「はい。公爵家は怒っていない。報復もしていない。ただ、条件を見直しているだけです」

 それが一番厄介だった。

 感情的な対立ならば対処できる。だが冷静な再評価は、正論であり、正当だ。

「彼女は何も言わない」

 アレクシスは低く呟く。

「抗議もしない。泣きも怒りもしない。ただ、距離を置くだけだ」

「それが彼女のやり方でしょう」

 レオンは静かに答えた。

「殿下は動く者を好まれる。彼女は動かない。だが動かないからこそ、土台になれる」

「土台だと?」

「はい。土台は目立ちません。しかし崩れれば、上に立つ者は立っていられない」

 その言葉が、胸に重く落ちる。

 アレクシスはしばらく黙り込んだ。

「私は間違っているのか」

 それは王太子としてではなく、一人の男としての問いだった。

「間違いではございません」

 レオンは即答する。

「ただ、全体を見ていない可能性はあります」

「全体」

「聖女リリアは光です。民衆に希望を与える存在。ですが光を支える燃料がなければ、やがて消えます」

「燃料が公爵家だと?」

「少なくとも一部は」

 室内に沈黙が落ちる。

 アレクシスは再び机に戻り、書類を見下ろす。数字が並び、条件が並び、保証の文言が並ぶ。

 その多くに、ルヴァリエの名が記されている。

「……彼女は、これを武器にするのか」

「武器ではありません」

 レオンは首を振る。

「契約です」

「同じことだ」

「いいえ。武器は攻撃のために使われます。契約は秩序のために存在します」

 エルフィーナは攻撃していない。

 ただ、秩序を守っているだけ。

 その秩序に、王太子自身が揺らぎを与えている。

「殿下」

 レオンは最後に言う。

「婚約を見直すにせよ、維持するにせよ、軽率な宣言はお控えください。公の場での断罪は、取り返しがつきません」

 アレクシスの視線が鋭くなる。

「私はまだ何も決めていない」

「ですが、決断は近いとお見受けします」

 その読みは、正確だった。

 王太子の胸には、すでに理想の未来が描かれている。民衆に寄り添う王妃。光の隣に立つ王。

 そこに、静かな令嬢の姿は重ならない。

「私は国のためを思っている」

 アレクシスは低く言う。

「ならばこそ、慎重に」

 レオンは深く一礼した。

「殿下の選択が、王国全体を揺らすことをお忘れなきよう」

 扉が閉じる。

 執務室に一人残されたアレクシスは、長く息を吐いた。

 国のため。

 民のため。

 理想の王妃。

 だがその足元に広がる契約の網を、彼はまだ完全には見渡せていなかった。

 静かな屋敷で紅茶を飲む令嬢が、どれほどの重みを持つのか。

 その実感は、まだ薄い。

 だが確実に、時間は残り少なくなっていた。
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