完璧すぎる令嬢は婚約破棄されましたが、白い結婚のはずが溺愛対象になっていました

鷹 綾

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第14話 契約外の感情

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第14話 契約外の感情

 セーブル・フォン・グラナートは、自分が“合理的でない判断”を下し始めていることに、すぐには気づかなかった。

 否――正確に言えば、気づいてはいたが、問題として認識していなかった。

 朝。
 執務室の窓から差し込む光の角度を確認しながら、彼は書類に目を通していた。

(……効率がいい)

 それが、率直な感想だった。

 案件の処理速度。
 判断の精度。
 想定外への対応力。

 ヴェルティア・フォン・グラナートが関わるようになってから、公爵領の政務は明らかに“軽く”なっている。

 重荷が消えたわけではない。
 だが、余計な摩擦が消えた。

(信頼できる相手と組む方が、無駄がない)

 それは、合理性に基づいた結論だ。

 だから、今日の外出にも彼女を同席させることに、疑問はなかった。

 馬車の中。

 向かい合って座る二人の間に、会話はほとんどない。
 それでも、沈黙は自然だった。

(……問題は、ない)

 そう判断した瞬間、ふとした違和感が胸を掠める。

(なぜ、彼女がいない場合を想定していない)

 以前なら、単独で動くのが当たり前だった。
 むしろ、それが最適解だった。

 だが今は。

「本日の訪問先は、三件ですね」

 ヴェルティアの声が、思考を遮る。

「そうだ」

「二件目は、少し注意が必要です。
 表向きは協力的ですが、内部に不満を抱えています」

「把握している」

 即座に返す。

 そして、次の瞬間、セーブルは気づいてしまった。

(……彼女の分析を、前提にしている)

 確認ではない。
 修正でもない。

 最初から、“信頼できる前提情報”として扱っている。

(いつからだ)

 それは、契約の範囲を、静かに超えている。

 訪問先での交渉は、滞りなく進んだ。

 ヴェルティアは前に出すぎず、だが要所では正確に言葉を差し込む。
 その一言で、場の空気が整う。

(……最適だ)

 それ以外の評価が、見当たらない。

 だが。

 交渉の終盤、相手方の男が、何気なく言った。

「公爵夫人は、随分とお美しいですね」

 社交辞令。
 それ以上でも以下でもない。

 それなのに。

 セーブルの思考が、一瞬、止まった。

(……不要な発言だ)

 理屈としては、そうだ。
 内容は交渉に関係ない。
 効率を下げる。

 だが、胸の奥に生じた感覚は、それだけでは説明できなかった。

 ――不快。

 それも、理由の分からない不快感。

(なぜ、気になる)

 ヴェルティアは、いつも通り微笑み、丁寧に受け流している。
 問題はない。
 何一つ。

 それでも。

「……次に進もう」

 セーブルは、普段よりも早く話を切り上げた。

 馬車に戻ったあとも、違和感は消えなかった。

(……これは、何だ)

 契約外の感情。
 そう表現するしかない。

 夕刻。
 屋敷に戻った二人は、それぞれの仕事に戻るはずだった。

 ――はず、だった。

「……今日は、ここまでにする」

 セーブルは、書類を閉じながら言った。

「明日に回せる」

 ヴェルティアは、一瞬だけ彼を見た。

「……珍しいですね」

「合理的判断だ」

 そう言い切ったものの、内心では分かっている。

(今は……集中できない)

 原因は、一つしかない。

 彼女の存在を、意識している。

 夜。
 書斎で一人、セーブルは考え込んでいた。

(契約は、守っている)

 干渉はしていない。
 束縛もしていない。

 だが――。

(“いない”状況を、想定していない)

 それは、信頼を超えた依存だ。

 いや、依存という言葉も、正確ではない。

(囲い込んでいる……?)

 その考えが浮かんだ瞬間、セーブルは眉をひそめた。

(非合理だ)

 彼女は、自由であるべきだ。
 契約にも、そう明記されている。

 それなのに。

 庭園を歩くヴェルティアの姿が、脳裏に浮かぶ。

 冷えた夜気の中で、上着を差し出したときのこと。
 彼女が、少し驚いた表情を見せたこと。

(……なぜ、覚えている)

 不要な記憶。
 効率とは無関係。

 その時、書斎の扉がノックされた。

「セーブル様」

 使用人の声。

「公爵夫人が、外で……」

「……何だ」

「夜風に当たっておられます」

 一瞬、迷いが生じる。

(放っておいても、問題はない)

 彼女は大人だ。
 自分の判断で行動できる。

 ――それが、合理的な結論。

 だが、次の瞬間。

「……私が行く」

 言葉が、勝手に口をついて出た。

 庭園。

 月明かりの下で、ヴェルティアは静かに立っていた。

「……起こしてしまいましたか」

「いや」

 短く答える。

「冷える」

 以前と同じ言葉。
 以前と同じ行動。

 だが、意味は違っている。

 上着を差し出しながら、セーブルははっきりと理解した。

(これは……合理性ではない)

 彼女を守る必要はない。
 危険もない。

 それでも、ここに来た。

「……契約外ですね」

 ヴェルティアが、ぽつりと呟く。

 セーブルは、否定できなかった。

「……そうだな」

 初めて、認めた。

 沈黙が落ちる。

 だが、気まずさはない。

 むしろ、互いに理解してしまったがゆえの静けさ。

「心配する理由は、ありませんよ」

 ヴェルティアは、穏やかに言う。

「私は、ここにいることを選びました」

 その言葉が、胸に深く刺さる。

(……選ばれた)

 それは、合理的な判断ではない。

 だが。

「……分かっている」

 セーブルは、そう答えた。

 白い結婚。
 感情を排した契約。

 だが、この夜、彼は初めて理解した。

 ――感情は、排除できない。

 そしてそれは、
 彼自身が最も警戒してきた“非合理”そのものだった。

 だが同時に。

(……失いたくない)

 その思考が浮かんだ瞬間、
 彼はもう、後戻りできない場所に立っていることを悟った。


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