完璧すぎる令嬢は婚約破棄されましたが、白い結婚のはずが溺愛対象になっていました

鷹 綾

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第29話 帰路の変化

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第29話 帰路の変化

 帰路は、行きとは違う沈黙に包まれていた。

 領地での騒動がひと段落し、
 グラナート公爵家の馬車は、王都へと続く街道を進んでいる。

 車輪の音は一定で、揺れも少ない。
 だが、馬車の中の空気は、わずかに張り詰めていた。

 向かい合って座る二人の距離は、これまでと同じ。
 それなのに――。

(……近い)

 ヴェルティア・フォン・グラナートは、視線を窓の外に向けたまま、そう感じていた。

 越えなかった夜。
 触れなかった距離。

 それが、なぜか余計に意識を呼び起こしている。

 セーブルもまた、同じ沈黙の中にいた。

(……変わった)

 理屈では説明できない。
 だが、確実に何かが違う。

 領地へ向かうとき、彼女は“同行者”だった。
 今は――。

(……隣に立つ者)

 その感覚が、はっきりと根を下ろし始めている。

「……無事に終わったな」

 セーブルが、ようやく口を開いた。

「はい」

 短い返答。

 だが、そこに安堵が滲んでいる。

「商会側も、しばらくは大人しくなるでしょう」

「対話が成立した以上、急な反発はない」

 淡々とした会話。
 いつも通りのはずなのに。

 言葉を交わすたび、互いの存在が強く意識される。

(……越えなかった、という事実)

 それは、距離を保った証拠であり、
 同時に、踏み込めると確認した証拠でもある。

 だからこそ、今は慎重になる。

 馬車が、休憩地点に差しかかった。

 御者が声をかける。

「公爵様、少し休まれますか」

「ああ」

 馬車を降りると、冷たい風が頬を撫でた。

 外気に触れたことで、少しだけ緊張が緩む。

 使用人たちは、離れた位置で待機している。
 二人きりではないが、近くもない。

「……寒くないか」

 セーブルが、自然に問いかける。

「大丈夫です」

 ヴェルティアは、そう答えながら、少しだけ間を置いた。

(……気遣いが、自然すぎる)

 以前なら、“配慮”として受け取っていた言葉。
 今は、“当たり前”として受け取ってしまう。

 それが、変化だった。

「……昨夜のことだが」

 セーブルが、低く切り出す。

 ヴェルティアの心臓が、わずかに跳ねる。

「……はい」

「後悔は、していないか」

 問いは、真剣だった。

 彼女は、少しだけ考えた。

「いいえ」

 はっきりと答える。

「むしろ……安心しました」

「安心?」

「あの距離でも、壊れないと分かったからです」

 セーブルは、静かに彼女を見つめた。

(……強い)

 彼女は、無理に進もうとしない。
 だが、決して退かない。

「……私は」

 彼は、珍しく言葉を選ぶ。

「越えない夜が、
 これほど……」

 一瞬、言葉が詰まる。

「重いとは、思わなかった」

 正直な告白だった。

 ヴェルティアは、少しだけ微笑んだ。

「軽く越えてしまえば、
 その後の重さは、もっと大きくなります」

「……ああ」

 納得したように、彼は頷いた。

 再び、馬車に戻る。

 今度は、座る位置がわずかに変わった。

 向かい合うのではなく、
 隣同士――だが、間を空けて。

 それは、誰の指示でもない。

 自然な選択だった。

 馬車が走り出す。

 肩が触れるほど近いが、触れない。

(……この距離)

 越えなかった夜の、続きの距離。

 言葉はない。
 だが、沈黙が苦しくない。

 むしろ、落ち着く。

(……察している)

 使用人たちも、その変化に気づいていた。

 視線が、以前より柔らかい。

「……雰囲気が」 「ええ、何か……」

 言葉にできない変化。
 だが、確実にある。

 王都が近づくにつれ、景色が変わる。

 石畳。
 高い建物。
 見慣れた街並み。

「……戻ってきましたね」

「そうだな」

 だが、戻ったのは場所だけだ。

 二人の関係は、
 出発前とは、もう同じではない。

 屋敷に到着すると、使用人たちが整列して出迎えた。

「お帰りなさいませ」

 形式的な挨拶。
 だが、どこか温かい。

 部屋へ向かう途中、
 セーブルが足を止めた。

「……今夜は」

 一瞬、間を置く。

「無理をするな」

 それは、距離を置けという意味ではない。
 気遣いだ。

「はい」

 ヴェルティアは、静かに頷いた。

 別れ際。

 二人は、ほんの一瞬だけ視線を交わした。

 触れない。
 だが、確かに――近い。

(……帰路の変化)

 それは、劇的な進展ではない。

 だが、
 “越えなかった夜”を経た二人は、
 確実に、同じ歩幅で歩き始めていた。

 距離は、まだある。
 境界線も、残っている。

 それでも。

 次に越えるときは、
 迷いではなく、選択になる。

 そう確信できるほどに――
 帰路は、静かな変化に満ちていた。


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