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第28話 越えない夜
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第28話 越えない夜
夜は、思考を過剰に鮮明にする。
昼間なら流せる感情も、
静寂の中では、はっきりと輪郭を持って浮かび上がる。
領地での会合を終えた夜。
簡素な宿舎に用意された二つの部屋は、隣り合っていた。
壁一枚隔てただけの距離。
それが、今夜はやけに近く感じられる。
ヴェルティア・フォン・グラナートは、窓を少し開け、夜風を取り込んだ。
(……眠れない)
身体が疲れているのは、確かだ。
だが、頭が冴えすぎている。
昼間のやり取り。
商人たちの表情。
そして――セーブルの、理性が揺らいだ瞬間。
(……怒り)
それは、彼の弱さではない。
責任を引き受け続けた末の、自然な感情だ。
(……支える覚悟)
そう言ったのは、自分だ。
口にした以上、嘘にはしたくない。
ノックの音がしたのは、その時だった。
一瞬、心臓が跳ねる。
「……ヴェルティア」
低く、抑えた声。
セーブルだ。
(……来た)
それだけで、空気が変わる。
「……どうぞ」
そう答えた声が、少しだけ掠れたことに、彼女自身が気づいた。
扉が開く。
廊下の灯りを背に、セーブルが立っていた。
いつもより、近い。
「……眠れていないな」
彼の声は、落ち着いている。
「あなたも、でしょう」
短い応答。
否定は、なかった。
部屋に入ったセーブルは、扉を閉めない。
それが、無言の境界線だった。
「……今日のことだが」
彼は、言葉を探している。
「危なかった」
「ええ」
ヴェルティアは、頷いた。
「でも、対立は避けられました」
「……君のおかげだ」
その言葉は、簡単に言えるものではない。
だからこそ、重い。
「違います」
ヴェルティアは、ゆっくりと首を振った。
「あなたが、踏みとどまったからです」
セーブルは、一瞬、目を伏せた。
「……踏みとどまるのは、慣れている」
低い声。
「だが、今日は……」
言葉が途切れる。
抑制が、限界に近い。
ヴェルティアは、一歩だけ距離を詰めた。
触れない。
だが、近い。
「……無理に、抑えなくていいのです」
静かな声。
「ここでは、評価も、命令もありません」
セーブルの喉が、小さく鳴る。
「……それが、危険だ」
彼は、低く言った。
「君は、あまりにも無防備だ」
「いいえ」
即答。
「私は、選んでいます」
その言葉に、彼の視線が鋭くなる。
「……何を」
「今夜、ここに立つことを」
ヴェルティアは、逃げなかった。
「でも」
一拍置いて、続ける。
「越えることは、選びません」
その瞬間、部屋の空気が張り詰めた。
近い。
近すぎる。
セーブルは、拳を強く握った。
(……触れれば)
すべてが変わる。
戻れない。
だが――。
「……越えない、のか」
絞り出すような声。
「はい」
ヴェルティアは、はっきりと答えた。
「今夜は」
その“今夜”という言葉が、重い。
「理由を、聞いても?」
彼女は、少し考えた。
「越えれば、
この関係は、簡単になります」
意外な答え。
「でも……」
視線を上げる。
「私たちは、簡単な関係を選んできませんでした」
セーブルの胸に、熱が広がる。
(……そうだ)
白い結婚。
再定義。
触れない約束。
すべては、“選び続ける”ための形だった。
「……今夜、越えないことで」
ヴェルティアは、静かに続ける。
「明日も、隣に立てます」
セーブルは、深く息を吸った。
そして――一歩、下がる。
距離が、戻る。
それだけで、緊張が解けたわけではない。
だが、均衡は保たれた。
「……ありがとう」
その言葉に、感情が滲む。
ヴェルティアは、微かに微笑んだ。
「こちらこそ」
扉の前で、セーブルは振り返る。
「……越えない夜、か」
「はい」
「……だが」
彼の声が、低くなる。
「越えないことは、
諦めることではない」
ヴェルティアは、頷いた。
「ええ。
“先送り”です」
その言葉に、ほんの一瞬、彼の口元が緩んだ。
扉が閉まる。
足音が遠ざかる。
ヴェルティアは、深く息を吐いた。
(……越えなかった)
それは、弱さではない。
欲望を否定したわけでもない。
ただ――
より長い時間を選んだだけだ。
隣の部屋では、セーブルが椅子に腰を下ろしていた。
(……危険な夜だった)
だが、同時に。
(……信頼できる夜でもあった)
越えない選択を、互いに尊重できた。
それが、何より大きい。
夜は、静かに更けていく。
越えない夜は、
二人の関係を、停滞させるどころか――
より深い場所へと、確かに導いていた。
夜は、思考を過剰に鮮明にする。
昼間なら流せる感情も、
静寂の中では、はっきりと輪郭を持って浮かび上がる。
領地での会合を終えた夜。
簡素な宿舎に用意された二つの部屋は、隣り合っていた。
壁一枚隔てただけの距離。
それが、今夜はやけに近く感じられる。
ヴェルティア・フォン・グラナートは、窓を少し開け、夜風を取り込んだ。
(……眠れない)
身体が疲れているのは、確かだ。
だが、頭が冴えすぎている。
昼間のやり取り。
商人たちの表情。
そして――セーブルの、理性が揺らいだ瞬間。
(……怒り)
それは、彼の弱さではない。
責任を引き受け続けた末の、自然な感情だ。
(……支える覚悟)
そう言ったのは、自分だ。
口にした以上、嘘にはしたくない。
ノックの音がしたのは、その時だった。
一瞬、心臓が跳ねる。
「……ヴェルティア」
低く、抑えた声。
セーブルだ。
(……来た)
それだけで、空気が変わる。
「……どうぞ」
そう答えた声が、少しだけ掠れたことに、彼女自身が気づいた。
扉が開く。
廊下の灯りを背に、セーブルが立っていた。
いつもより、近い。
「……眠れていないな」
彼の声は、落ち着いている。
「あなたも、でしょう」
短い応答。
否定は、なかった。
部屋に入ったセーブルは、扉を閉めない。
それが、無言の境界線だった。
「……今日のことだが」
彼は、言葉を探している。
「危なかった」
「ええ」
ヴェルティアは、頷いた。
「でも、対立は避けられました」
「……君のおかげだ」
その言葉は、簡単に言えるものではない。
だからこそ、重い。
「違います」
ヴェルティアは、ゆっくりと首を振った。
「あなたが、踏みとどまったからです」
セーブルは、一瞬、目を伏せた。
「……踏みとどまるのは、慣れている」
低い声。
「だが、今日は……」
言葉が途切れる。
抑制が、限界に近い。
ヴェルティアは、一歩だけ距離を詰めた。
触れない。
だが、近い。
「……無理に、抑えなくていいのです」
静かな声。
「ここでは、評価も、命令もありません」
セーブルの喉が、小さく鳴る。
「……それが、危険だ」
彼は、低く言った。
「君は、あまりにも無防備だ」
「いいえ」
即答。
「私は、選んでいます」
その言葉に、彼の視線が鋭くなる。
「……何を」
「今夜、ここに立つことを」
ヴェルティアは、逃げなかった。
「でも」
一拍置いて、続ける。
「越えることは、選びません」
その瞬間、部屋の空気が張り詰めた。
近い。
近すぎる。
セーブルは、拳を強く握った。
(……触れれば)
すべてが変わる。
戻れない。
だが――。
「……越えない、のか」
絞り出すような声。
「はい」
ヴェルティアは、はっきりと答えた。
「今夜は」
その“今夜”という言葉が、重い。
「理由を、聞いても?」
彼女は、少し考えた。
「越えれば、
この関係は、簡単になります」
意外な答え。
「でも……」
視線を上げる。
「私たちは、簡単な関係を選んできませんでした」
セーブルの胸に、熱が広がる。
(……そうだ)
白い結婚。
再定義。
触れない約束。
すべては、“選び続ける”ための形だった。
「……今夜、越えないことで」
ヴェルティアは、静かに続ける。
「明日も、隣に立てます」
セーブルは、深く息を吸った。
そして――一歩、下がる。
距離が、戻る。
それだけで、緊張が解けたわけではない。
だが、均衡は保たれた。
「……ありがとう」
その言葉に、感情が滲む。
ヴェルティアは、微かに微笑んだ。
「こちらこそ」
扉の前で、セーブルは振り返る。
「……越えない夜、か」
「はい」
「……だが」
彼の声が、低くなる。
「越えないことは、
諦めることではない」
ヴェルティアは、頷いた。
「ええ。
“先送り”です」
その言葉に、ほんの一瞬、彼の口元が緩んだ。
扉が閉まる。
足音が遠ざかる。
ヴェルティアは、深く息を吐いた。
(……越えなかった)
それは、弱さではない。
欲望を否定したわけでもない。
ただ――
より長い時間を選んだだけだ。
隣の部屋では、セーブルが椅子に腰を下ろしていた。
(……危険な夜だった)
だが、同時に。
(……信頼できる夜でもあった)
越えない選択を、互いに尊重できた。
それが、何より大きい。
夜は、静かに更けていく。
越えない夜は、
二人の関係を、停滞させるどころか――
より深い場所へと、確かに導いていた。
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