完璧すぎる令嬢は婚約破棄されましたが、白い結婚のはずが溺愛対象になっていました

鷹 綾

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第37話 約束の形

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第37話 約束の形

 夜は、穏やかに更けていった。

 窓の外では、庭の木々が風に揺れ、月明かりが淡く地面を照らしている。
 屋敷全体が眠りにつく時間帯――それでも、グラナート公爵邸の書斎には、静かな灯りが残っていた。

 ヴェルティア・フォン・グラナートは、書類を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。

(……今日は、よく動いた)

 視察、調整、打ち合わせ。
 特別な事件はなかったが、決して“何もしなかった日”ではない。

 そして――
 心のどこかに、言葉にならない違和感が残っていた。

(……このままで、いいのだろうか)

 不満ではない。
 不安でもない。

 ただ、
 そろそろ言葉にしなければならないものが、ある気がしていた。

 扉が、軽くノックされる。

「……ヴェルティア」

 セーブルの声だった。

「どうぞ」

 彼は、書斎に入ると、いつものように椅子に腰を下ろした。
 だが、その表情は、どこか真剣だ。

「……少し、話をしたい」

「奇遇ですね」

 ヴェルティアは、微かに笑う。

「私も、同じことを考えていました」

 一瞬、沈黙が落ちる。

 だが、それは重くない。
 むしろ、自然な間だった。

「……最近」

 セーブルが、ゆっくりと口を開く。

「日常が、当たり前になってきた」

「はい」

「それが、悪いわけではない」

 彼は、言葉を選ぶ。

「だが……
 曖昧なままにしておくには、
 私たちは、少し進みすぎた」

 ヴェルティアは、頷いた。

「同感です」

 彼女は、視線を逸らさずに続ける。

「穏やかな日々は、好きです。
 でも――
 言葉にしないまま続けると、
 いつか、すれ違う気がします」

 セーブルは、小さく息を吐いた。

「……君は、本当に」

「面倒ですか?」

「いや」

 即答。

「正確だ」

 その言葉に、彼女は微笑んだ。

「……約束が必要だと?」

 セーブルが、静かに問う。

「はい」

 ヴェルティアは、はっきりと答える。

「形だけの契約ではなく、
 感情だけの曖昧な言葉でもなく」

 一拍、置いて。

「続けるための、
 私たちなりの約束が」

 セーブルは、椅子から立ち上がり、
 彼女の前に立った。

 距離は近い。
 だが、触れない。

「……私は」

 低い声。

「未来を、保証する言葉は持っていない」

 それは、誠実な前置きだった。

「政も、立場も、
 常に変化する」

 ヴェルティアは、静かに聞いている。

「だが」

 彼は、はっきりと言う。

「選び続ける、という意思はある」

 それは、以前にも交わした言葉だ。

 だが、今日は違う。

「……条件は?」

 ヴェルティアが、問い返す。

「条件?」

「約束には、条件が必要です」

 現実的な言葉。

「互いに、
 何を守り、
 何を侵さないのか」

 セーブルは、少し考えた。

「まず一つ」

 指を立てる。

「君の選択を、否定しない」

 即答だった。

「私は、助言はする。
 だが、最終決定は、君自身のものだ」

 ヴェルティアの胸が、静かに温かくなる。

「二つ目」

「私も、言います」

 彼女は、続ける。

「あなたの立場を、軽んじません」

「……」

「公爵であることは、
 あなたの一部です」

 支配でも、庇護でもない。
 尊重だ。

「だから、
 無視もしません」

 セーブルは、ゆっくりと頷いた。

「三つ目」

 彼が、続ける。

「沈黙を、放置しない」

「……はい」

「違和感があれば、
 言葉にする」

 それは、過去の失敗を繰り返さないための約束だった。

 しばらく、互いに黙る。

 だが、沈黙は、もはや敵ではない。

「……それだけで、足りますか」

 ヴェルティアが、静かに問う。

「いや」

 セーブルは、首を振った。

「最後に、一つ」

 彼は、一歩、距離を詰めた。

「選ばなくなったと感じたら、
 必ず、先に伝える」

 残酷だが、誠実な条件。

 ヴェルティアは、迷わなかった。

「……はい」

「それが、私たちの約束だ」

 形は、指輪でも文書でもない。
 だが、これ以上に確かなものはない。

 セーブルは、そっと手を差し出す。

 ヴェルティアは、その手を取った。

 強く握らない。
 だが、離れない。

「……これで」

 彼女が、静かに言う。

「未来が、怖くなくなりました」

「私もだ」

 月明かりが、二人を照らす。

 白い結婚から始まり、
 距離を越え、
 日常を重ね――
 ようやく辿り着いた場所。

 それは、
 約束の形。

 永遠を誓う言葉ではない。
 だが、
 今を共に選ぶための、確かな指針。

 夜は、静かに更けていく。

 物語は、
 終わりへ向かっている。

 だがそれは、
 “幸せの完成”ではない。

 幸せを、続けるための始まりだった。


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