完璧すぎる令嬢は婚約破棄されましたが、白い結婚のはずが溺愛対象になっていました

鷹 綾

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第36話 穏やかな日常

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第36話 穏やかな日常

 朝の光が、カーテン越しに静かに差し込んでいた。

 ヴェルティア・フォン・グラナートは、目を覚ましてもしばらく動かず、その柔らかな明るさを眺めていた。
 鳥の声。
 遠くで聞こえる、使用人たちの控えめな足音。

(……何も起きない朝)

 それが、今の彼女にとっては、何よりも贅沢だった。

 少し前まで、朝は常に緊張と共に始まっていた。
 今日は何を言われるのか。
 何を求められるのか。
 失敗は許されない。

 だが今は違う。

(……今日、何をしよう)

 その問いに、焦りがない。

 身支度を整え、回廊を歩く。
 使用人たちは、過剰に畏まることも、距離を取りすぎることもない。

「おはようございます、公爵夫人」

「おはようございます」

 それだけで、十分だった。

 朝食室では、すでにセーブル・フォン・グラナートが席についていた。
 書類はあるが、山のようではない。

「……今日は早いな」

「少し、目が覚めまして」

 自然な会話。
 必要以上の意味はない。

 食卓に並ぶのは、いつも通りの朝食。
 特別な料理でも、祝いの席でもない。

 だが、静かな満足感があった。

「……午後は」

 セーブルが言う。

「視察の予定を入れている」

「同行します」

 即答だった。

 以前なら、“役に立てるか”を考えていた。
 今は、ただ一緒に行きたいと思った。

 馬車での移動は、穏やかだ。

 話題は、天候や作物の状況、
 それから――些細なこと。

「……この前の庭の件ですが」

「剪定の話か」

「はい。あの角度ですと、日当たりが」

 実務的な会話。
 だが、そこに緊張はない。

 視察先でも、特別な事件は起きなかった。

 農村の様子を見て、
 職人と少し言葉を交わし、
 必要な修正点を確認する。

「……これで十分です」

 現地の責任者が、安堵したように頭を下げる。

「無理は、長続きしませんから」

 ヴェルティアの言葉は、
 説得でも命令でもない。

 ただの、実感だった。

 帰路の馬車。

 疲労はあるが、不快ではない。

「……こういう日が」

 ヴェルティアが、ぽつりと言う。

「ずっと続けばいいですね」

 セーブルは、少し考えてから答えた。

「続けるかどうかは、
 選び続けるかどうかだ」

「ええ」

 彼女は、微笑む。

「それなら、大丈夫です」

 屋敷に戻ると、夕暮れが近づいていた。

 庭を歩きながら、
 風に揺れる木々を眺める。

「……静かですね」

「平和だな」

 それ以上の言葉は、必要なかった。

 日常は、派手ではない。
 ざまぁも、劇的な転落もない。

 だが――
 何も起きないこと自体が、幸せなのだと、
 今なら分かる。

 夜。

 書斎で、それぞれが自分の時間を過ごす。

 同じ空間にいながら、
 無理に話さない。

 それが、心地よい。

(……守らなくていい)

(……演じなくていい)

 ただ、ここにいる。

 それだけで、十分だ。

 ふと、ヴェルティアは思う。

(……これが)

(私が、欲しかった日常)

 白い結婚から始まった関係は、
 激情ではなく、
 穏やかさへと辿り着いた。

 そして、それは――
 物語の終わりではない。

 むしろ、
 本当の始まりだった。

 夜は、静かに更けていく。

 何も起きない一日を、
 二人は、確かに生きていた。
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