14 / 39
第十四話 効率が落ちた日
しおりを挟む
第十四話 効率が落ちた日
その日は、朝から分かりやすく“遅かった”。
王宮の執務棟では、鐘が鳴っても人の動きが鈍い。
書類は運ばれてくるが、決裁印はなかなか押されない。
誰も怠けてはいない。むしろ全員、真剣すぎるほど真剣だった。
副官は、廊下を歩きながら、その空気を肌で感じていた。
(……効率は、確実に落ちている)
以前なら、朝のうちに片付いていた案件が、まだ机の上に残っている。
確認が入り、再検討が入り、現場への照会が入る。
一つ一つは正しい。だが、速くはない。
執務室に入ると、若い官僚が待っていた。
「副官殿、この件ですが……」
「判断を保留にしました」
「理由は?」
「現場で、別の影響が出る可能性がありまして」
「確認を取りに行っています」
副官は、書類に目を落とした。
確かに、想定外の波及があり得る。
(……判断としては、妥当だ)
だが同時に、胸の奥がざわつく。
(以前なら、
レイズィネス様は――)
脳裏に浮かんだ名前を、意識的に打ち消す。
「分かった」
「戻り次第、もう一度集まろう」
官僚は、ほっとしたように頭を下げた。
その姿を見送りながら、副官は思う。
(彼は、逃げなかった)
(“決めない”ことを、
自分で決めたんだ)
それは、成長だ。
だが、時間がかかる。
昼前、王太子が執務棟に姿を現した。
不機嫌そうな足取りは、隠しようがない。
「……遅いな」
それが、第一声だった。
「進捗が、全体的に遅れている」
副官は、否定しなかった。
「事実です」
王太子は、苛立ちを露わにする。
「なぜだ」
「無駄な確認が多すぎる」
「結論を先延ばしにして、何になる」
副官は、静かに答えた。
「無駄ではありません」
「“決めた後に戻れる余地”を、
意識的に残しているだけです」
「回りくどい!」
王太子の声が、執務室に響いた。
「効率が悪い」
「以前は、こんなことはなかった」
――以前は。
その言葉に、誰もが黙る。
副官は、ゆっくりと口を開いた。
「以前は、
効率が良かったのではありません」
王太子の視線が、鋭く向けられる。
「“効率が良く見えていた”だけです」
副官は、はっきり言った。
「判断の負荷も、失敗の痛みも、
すべて一人に集約されていました」
「だから、私たちは速かった」
王太子は、言葉を失った。
「……今は」
副官は続ける。
「負荷が分散しています」
「痛みも、迷いも、
各所に発生しています」
「それが、良いと言うのか」
「“健全”だと言えます」
即答だった。
「効率は落ちました」
「ですが、
壊れにくくなっています」
王太子は、机に手をつき、俯いた。
「……国は、急ぎを待ってはくれない」
「ええ」
副官は頷く。
「だからこそ、
急ぎすぎて折れない仕組みが必要です」
その日の午後、いくつかの案件は翌日に持ち越された。
苦情も入った。
遅れを指摘する声もあった。
だが同時に、
現場から、こんな報告も上がる。
「判断の理由が共有されている」
「修正がしやすい」
「次に何をすべきか、見えている」
副官は、その文を読み、静かに息を吐いた。
(……効率は、落ちた)
(でも)
(立ち止まっていない)
夜。
副官は、執務室で一人、今日の流れを振り返っていた。
遅い。
確かに遅い。
だが、恐怖はない。
誰か一人が倒れたら終わる、という不安がない。
(……あの人は)
自然と、レイズィネスの姿が浮かぶ。
(この日を、
想定していたんだ)
彼女は、効率を捨てろと言ったわけではない。
効率“だけ”を信じるな、と言っていたのだ。
一方、海辺の宿。
レイズィネス・アルタリアは、夕暮れのテラスで、アイスティーを口にしていた。
届いた報告には、はっきりと書かれている。
――進行は遅延。
――苦情増加。
――ただし、判断理由の共有が進行。
「……来たわね」
小さく呟く。
(ここで、
必ず“効率が落ちた”と騒ぐ人が出る)
それでも――
「……いい兆候よ」
氷が溶ける音が、静かに響く。
効率が落ちた日。
それは、
一人に頼らない仕組みが、
本当に動き始めた日でもあった。
レイズィネス・アルタリアは、
その事実を、誰よりもよく理解していた。
だからこそ、
彼女は今日も、
何もせず、
静かに海を眺めていた。
その日は、朝から分かりやすく“遅かった”。
王宮の執務棟では、鐘が鳴っても人の動きが鈍い。
書類は運ばれてくるが、決裁印はなかなか押されない。
誰も怠けてはいない。むしろ全員、真剣すぎるほど真剣だった。
副官は、廊下を歩きながら、その空気を肌で感じていた。
(……効率は、確実に落ちている)
以前なら、朝のうちに片付いていた案件が、まだ机の上に残っている。
確認が入り、再検討が入り、現場への照会が入る。
一つ一つは正しい。だが、速くはない。
執務室に入ると、若い官僚が待っていた。
「副官殿、この件ですが……」
「判断を保留にしました」
「理由は?」
「現場で、別の影響が出る可能性がありまして」
「確認を取りに行っています」
副官は、書類に目を落とした。
確かに、想定外の波及があり得る。
(……判断としては、妥当だ)
だが同時に、胸の奥がざわつく。
(以前なら、
レイズィネス様は――)
脳裏に浮かんだ名前を、意識的に打ち消す。
「分かった」
「戻り次第、もう一度集まろう」
官僚は、ほっとしたように頭を下げた。
その姿を見送りながら、副官は思う。
(彼は、逃げなかった)
(“決めない”ことを、
自分で決めたんだ)
それは、成長だ。
だが、時間がかかる。
昼前、王太子が執務棟に姿を現した。
不機嫌そうな足取りは、隠しようがない。
「……遅いな」
それが、第一声だった。
「進捗が、全体的に遅れている」
副官は、否定しなかった。
「事実です」
王太子は、苛立ちを露わにする。
「なぜだ」
「無駄な確認が多すぎる」
「結論を先延ばしにして、何になる」
副官は、静かに答えた。
「無駄ではありません」
「“決めた後に戻れる余地”を、
意識的に残しているだけです」
「回りくどい!」
王太子の声が、執務室に響いた。
「効率が悪い」
「以前は、こんなことはなかった」
――以前は。
その言葉に、誰もが黙る。
副官は、ゆっくりと口を開いた。
「以前は、
効率が良かったのではありません」
王太子の視線が、鋭く向けられる。
「“効率が良く見えていた”だけです」
副官は、はっきり言った。
「判断の負荷も、失敗の痛みも、
すべて一人に集約されていました」
「だから、私たちは速かった」
王太子は、言葉を失った。
「……今は」
副官は続ける。
「負荷が分散しています」
「痛みも、迷いも、
各所に発生しています」
「それが、良いと言うのか」
「“健全”だと言えます」
即答だった。
「効率は落ちました」
「ですが、
壊れにくくなっています」
王太子は、机に手をつき、俯いた。
「……国は、急ぎを待ってはくれない」
「ええ」
副官は頷く。
「だからこそ、
急ぎすぎて折れない仕組みが必要です」
その日の午後、いくつかの案件は翌日に持ち越された。
苦情も入った。
遅れを指摘する声もあった。
だが同時に、
現場から、こんな報告も上がる。
「判断の理由が共有されている」
「修正がしやすい」
「次に何をすべきか、見えている」
副官は、その文を読み、静かに息を吐いた。
(……効率は、落ちた)
(でも)
(立ち止まっていない)
夜。
副官は、執務室で一人、今日の流れを振り返っていた。
遅い。
確かに遅い。
だが、恐怖はない。
誰か一人が倒れたら終わる、という不安がない。
(……あの人は)
自然と、レイズィネスの姿が浮かぶ。
(この日を、
想定していたんだ)
彼女は、効率を捨てろと言ったわけではない。
効率“だけ”を信じるな、と言っていたのだ。
一方、海辺の宿。
レイズィネス・アルタリアは、夕暮れのテラスで、アイスティーを口にしていた。
届いた報告には、はっきりと書かれている。
――進行は遅延。
――苦情増加。
――ただし、判断理由の共有が進行。
「……来たわね」
小さく呟く。
(ここで、
必ず“効率が落ちた”と騒ぐ人が出る)
それでも――
「……いい兆候よ」
氷が溶ける音が、静かに響く。
効率が落ちた日。
それは、
一人に頼らない仕組みが、
本当に動き始めた日でもあった。
レイズィネス・アルタリアは、
その事実を、誰よりもよく理解していた。
だからこそ、
彼女は今日も、
何もせず、
静かに海を眺めていた。
0
あなたにおすすめの小説
【完結】忘れてください
仲 奈華 (nakanaka)
恋愛
愛していた。
貴方はそうでないと知りながら、私は貴方だけを愛していた。
夫の恋人に子供ができたと教えられても、私は貴方との未来を信じていたのに。
貴方から離婚届を渡されて、私の心は粉々に砕け散った。
もういいの。
私は貴方を解放する覚悟を決めた。
貴方が気づいていない小さな鼓動を守りながら、ここを離れます。
私の事は忘れてください。
※6月26日初回完結
7月12日2回目完結しました。
お読みいただきありがとうございます。
【完結】捨ててください
仲 奈華 (nakanaka)
恋愛
ずっと貴方の側にいた。
でも、あの人と再会してから貴方は私ではなく、あの人を見つめるようになった。
分かっている。
貴方は私の事を愛していない。
私は貴方の側にいるだけで良かったのに。
貴方が、あの人の側へ行きたいと悩んでいる事が私に伝わってくる。
もういいの。
ありがとう貴方。
もう私の事は、、、
捨ててください。
続編投稿しました。
初回完結6月25日
第2回目完結7月18日
亡き姉を演じ初恋の人の妻となった私は、その日、“私”を捨てた
榛乃
恋愛
伯爵家の令嬢・リシェルは、侯爵家のアルベルトに密かに想いを寄せていた。
けれど彼が選んだのはリシェルではなく、双子の姉・オリヴィアだった。
二人は夫婦となり、誰もが羨むような幸福な日々を過ごしていたが――それは五年ももたず、儚く終わりを迎えてしまう。
オリヴィアが心臓の病でこの世を去ったのだ。
その日を堺にアルベルトの心は壊れ、最愛の妻の幻を追い続けるようになる。
そんな彼を守るために。
そして侯爵家の未来と、両親の願いのために。
リシェルは自分を捨て、“姉のふり”をして生きる道を選ぶ。
けれど、どれほど傍にいても、どれほど尽くしても、彼の瞳に映るのはいつだって“オリヴィア”だった。
その現実が、彼女の心を静かに蝕んでゆく。
遂に限界を越えたリシェルは、自ら命を絶つことに決める。
短剣を手に、過去を振り返るリシェル。
そしていよいよ切っ先を突き刺そうとした、その瞬間――。
根暗令嬢の華麗なる転身
しろねこ。
恋愛
「来なきゃよかったな」
ミューズは茶会が嫌いだった。
茶会デビューを果たしたものの、人から不細工と言われたショックから笑顔になれず、しまいには根暗令嬢と陰で呼ばれるようになった。
公爵家の次女に産まれ、キレイな母と実直な父、優しい姉に囲まれ幸せに暮らしていた。
何不自由なく、暮らしていた。
家族からも愛されて育った。
それを壊したのは悪意ある言葉。
「あんな不細工な令嬢見たことない」
それなのに今回の茶会だけは断れなかった。
父から絶対に参加してほしいという言われた茶会は特別で、第一王子と第二王子が来るものだ。
婚約者選びのものとして。
国王直々の声掛けに娘思いの父も断れず…
応援して頂けると嬉しいです(*´ω`*)
ハピエン大好き、完全自己満、ご都合主義の作者による作品です。
同名主人公にてアナザーワールド的に別な作品も書いています。
立場や環境が違えども、幸せになって欲しいという思いで作品を書いています。
一部リンクしてるところもあり、他作品を見て頂ければよりキャラへの理解が深まって楽しいかと思います。
描写的なものに不安があるため、お気をつけ下さい。
ゆるりとお楽しみください。
こちら小説家になろうさん、カクヨムさんにも投稿させてもらっています。
【完結】探さないでください
仲 奈華 (nakanaka)
恋愛
私は、貴方と共にした一夜を後悔した事はない。
貴方は私に尊いこの子を与えてくれた。
あの一夜を境に、私の環境は正反対に変わってしまった。
冷たく厳しい人々の中から、温かく優しい人々の中へ私は飛び込んだ。
複雑で高級な物に囲まれる暮らしから、質素で簡素な物に囲まれる暮らしへ移ろいだ。
無関心で疎遠な沢山の親族を捨てて、誰よりも私を必要としてくれる尊いこの子だけを選んだ。
風の噂で貴方が私を探しているという話を聞く。
だけど、誰も私が貴方が探している人物とは思わないはず。
今、私は幸せを感じている。
貴方が側にいなくても、私はこの子と生きていける。
だから、、、
もう、、、
私を、、、
探さないでください。
報われない恋の行方〜いつかあなたは私だけを見てくれますか〜
矢野りと
恋愛
『少しだけ私に時間をくれないだろうか……』
彼はいつだって誠実な婚約者だった。
嘘はつかず私に自分の気持ちを打ち明け、学園にいる間だけ想い人のこともその目に映したいと告げた。
『想いを告げることはしない。ただ見ていたいんだ。どうか、許して欲しい』
『……分かりました、ロイド様』
私は彼に恋をしていた。だから、嫌われたくなくて……それを許した。
結婚後、彼は約束通りその瞳に私だけを映してくれ嬉しかった。彼は誠実な夫となり、私は幸せな妻になれた。
なのに、ある日――彼の瞳に映るのはまた二人になっていた……。
※この作品の設定は架空のものです。
※お話の内容があわないは時はそっと閉じてくださいませ。
大好きなあなたが「嫌い」と言うから「私もです」と微笑みました。
桗梛葉 (たなは)
恋愛
私はずっと、貴方のことが好きなのです。
でも貴方は私を嫌っています。
だから、私は命を懸けて今日も嘘を吐くのです。
貴方が心置きなく私を嫌っていられるように。
貴方を「嫌い」なのだと告げるのです。
愛する貴方の心から消えた私は…
矢野りと
恋愛
愛する夫が事故に巻き込まれ隣国で行方不明となったのは一年以上前のこと。
周りが諦めの言葉を口にしても、私は決して諦めなかった。
…彼は絶対に生きている。
そう信じて待ち続けていると、願いが天に通じたのか奇跡的に彼は戻って来た。
だが彼は妻である私のことを忘れてしまっていた。
「すまない、君を愛せない」
そう言った彼の目からは私に対する愛情はなくなっていて…。
*設定はゆるいです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる