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第35話 最後の返答
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第35話 最後の返答
城前の橋が崩落したという報せは、
その日のうちに王都を駆け巡った。
最初は、誰も信じなかった。
王国の象徴ともいえる石橋が、
そう簡単に落ちるはずがない。
しかも、嵐はすでに弱まっている。
だが、現実は否応なく突きつけられる。
増水した川。
崩れ落ちた橋脚。
濁流に飲み込まれた馬の残骸。
そして――
王太子リチャードの行方不明。
事実が積み重なるにつれ、
王都は静かな混乱に包まれていった。
誰も、大声で騒ぎ立てることはしない。
代わりに、
ひそひそとした囁きが、
街のあちこちで生まれる。
「本当に……殿下が?」
「橋は危険だと、誰かが言っていたらしい」
「聖女の……あの、引きこもりの……」
だが、その囁きは、
どれも確証を持たないまま、
やがて消えていく。
王太子がいなくなった理由を、
正確に語れる者はいなかった。
少なくとも、
公式には。
スター公爵家の屋敷は、
いつもと変わらず、静かだった。
騒ぎを知らせる使者が来ることもなく、
誰かが責めに来ることもない。
まるで、
この場所だけが、
王国の混乱から切り離されているかのようだった。
ポーラ・スターは、
いつもの椅子に腰掛け、
静かに窓の外を見ていた。
空は、灰色だが、荒れてはいない。
雨は降っていない。
風も、穏やかだ。
天候だけを見れば、
王国は回復しつつあるように見えた。
扉の外で、
微かな足音が止まる。
やがて、
ノック。
控えめで、遠慮がちな音。
「……ポーラ様」
使用人の声だ。
彼女は、返事をしなかった。
代わりに、
ゆっくりと立ち上がり、
机へ向かう。
紙と、ペン。
もう何度も繰り返した動作。
けれど、
今日書く内容は、
これまでとは少し違っていた。
ポーラは、紙の上に、
短い言葉を書き連ねる。
迷いはない。
手も、震えていない。
『聖女復帰』
『再婚約』
一行ずつ、
丁寧に。
書き終えたところで、
一瞬だけ、ペン先が止まる。
これを見た人は、
どう受け取るだろうか。
希望か。
許しの兆しか。
あるいは、
当然の帰結だと、
思う者もいるかもしれない。
だが――
それは、彼女の知ったことではない。
ポーラは、
大きく、はっきりと、
その下に一文字を書いた。
「嫌」
それだけ。
理由も、説明もない。
感情を並べる必要もない。
その一文字で、
すべては足りていた。
紙を手に、
扉の前へ向かう。
分厚い扉は、
相変わらず、彼女と世界を隔てている。
だが今の彼女は、
それを「壁」だとは感じていなかった。
紙を、
いつもの位置に貼る。
使用人は、
その文字を見て、
一瞬、息を呑んだ。
何かを言おうとして、
結局、何も言えず、
静かにその場を離れる。
その背中を、
ポーラは見送らなかった。
椅子に戻り、
静かに腰を下ろす。
胸の奥には、
奇妙なほど、何もない。
怒りも、
悲しみも、
達成感すらない。
ただ、
終わった、
という感覚だけがあった。
聖女としての役目。
婚約者としての立場。
王国に縛られた未来。
それらすべてに、
はっきりとした線が引かれた。
外では、
誰かの運命が流され、
誰かの地位が空白になり、
王国は新たな局面へ進もうとしている。
だが、
この部屋の中で、
ポーラ・スターは、
ただ一つの選択を終えただけだった。
それは、
逃げでも、復讐でもない。
ただの、
拒否。
そして、
初めて、自分の意思で書いた返答だった。
扉に貼られた大きな一文字は、
その日、
誰よりも明確に、
彼女の立場を示していた。
もう、
戻るつもりはない。
それだけで、
十分だった。
城前の橋が崩落したという報せは、
その日のうちに王都を駆け巡った。
最初は、誰も信じなかった。
王国の象徴ともいえる石橋が、
そう簡単に落ちるはずがない。
しかも、嵐はすでに弱まっている。
だが、現実は否応なく突きつけられる。
増水した川。
崩れ落ちた橋脚。
濁流に飲み込まれた馬の残骸。
そして――
王太子リチャードの行方不明。
事実が積み重なるにつれ、
王都は静かな混乱に包まれていった。
誰も、大声で騒ぎ立てることはしない。
代わりに、
ひそひそとした囁きが、
街のあちこちで生まれる。
「本当に……殿下が?」
「橋は危険だと、誰かが言っていたらしい」
「聖女の……あの、引きこもりの……」
だが、その囁きは、
どれも確証を持たないまま、
やがて消えていく。
王太子がいなくなった理由を、
正確に語れる者はいなかった。
少なくとも、
公式には。
スター公爵家の屋敷は、
いつもと変わらず、静かだった。
騒ぎを知らせる使者が来ることもなく、
誰かが責めに来ることもない。
まるで、
この場所だけが、
王国の混乱から切り離されているかのようだった。
ポーラ・スターは、
いつもの椅子に腰掛け、
静かに窓の外を見ていた。
空は、灰色だが、荒れてはいない。
雨は降っていない。
風も、穏やかだ。
天候だけを見れば、
王国は回復しつつあるように見えた。
扉の外で、
微かな足音が止まる。
やがて、
ノック。
控えめで、遠慮がちな音。
「……ポーラ様」
使用人の声だ。
彼女は、返事をしなかった。
代わりに、
ゆっくりと立ち上がり、
机へ向かう。
紙と、ペン。
もう何度も繰り返した動作。
けれど、
今日書く内容は、
これまでとは少し違っていた。
ポーラは、紙の上に、
短い言葉を書き連ねる。
迷いはない。
手も、震えていない。
『聖女復帰』
『再婚約』
一行ずつ、
丁寧に。
書き終えたところで、
一瞬だけ、ペン先が止まる。
これを見た人は、
どう受け取るだろうか。
希望か。
許しの兆しか。
あるいは、
当然の帰結だと、
思う者もいるかもしれない。
だが――
それは、彼女の知ったことではない。
ポーラは、
大きく、はっきりと、
その下に一文字を書いた。
「嫌」
それだけ。
理由も、説明もない。
感情を並べる必要もない。
その一文字で、
すべては足りていた。
紙を手に、
扉の前へ向かう。
分厚い扉は、
相変わらず、彼女と世界を隔てている。
だが今の彼女は、
それを「壁」だとは感じていなかった。
紙を、
いつもの位置に貼る。
使用人は、
その文字を見て、
一瞬、息を呑んだ。
何かを言おうとして、
結局、何も言えず、
静かにその場を離れる。
その背中を、
ポーラは見送らなかった。
椅子に戻り、
静かに腰を下ろす。
胸の奥には、
奇妙なほど、何もない。
怒りも、
悲しみも、
達成感すらない。
ただ、
終わった、
という感覚だけがあった。
聖女としての役目。
婚約者としての立場。
王国に縛られた未来。
それらすべてに、
はっきりとした線が引かれた。
外では、
誰かの運命が流され、
誰かの地位が空白になり、
王国は新たな局面へ進もうとしている。
だが、
この部屋の中で、
ポーラ・スターは、
ただ一つの選択を終えただけだった。
それは、
逃げでも、復讐でもない。
ただの、
拒否。
そして、
初めて、自分の意思で書いた返答だった。
扉に貼られた大きな一文字は、
その日、
誰よりも明確に、
彼女の立場を示していた。
もう、
戻るつもりはない。
それだけで、
十分だった。
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