引きこもり聖女は祈らない

鷹 綾

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第34話 濁流の先で

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第34話 濁流の先で

 城前の橋に差しかかった瞬間、
 王太子リチャードは、初めてはっきりとした不安を覚えた。

 馬の足取りが、わずかに鈍る。

 橋の上を渡る風が、生ぬるく、重たい。
 川の音が、耳に痛いほど大きい。

 ごう、ごう、と。
 まるで、何かが唸っているような音だった。

 「……」

 リチャードは、唇を引き結んだ。

 視界の端で、濁流が橋脚にぶつかり、白く砕けているのが見える。
 水位は、明らかに高い。

 昨夜より、
 いや、
 今朝よりも。

 側近の一人が、ついに声を張り上げた。

 「殿下! やはり危険です!
  一度、引き返されては――」

 その言葉に、リチャードの中で、何かが弾けた。

 「黙れ」

 低く、鋭い声。

 「嵐は去った。
  ここで引き返す理由などない」

 それは、命令というより、
 自分自身を押し通すための言葉だった。

 彼は、馬腹を蹴った。

 馬は、嫌がるように鼻を鳴らしながらも、前へ進む。

 一歩。
 また一歩。

 橋の中央に近づくにつれ、
 足元から、かすかな振動が伝わってきた。

 石橋のはずなのに、
 どこか、不自然な揺れ。

 「……?」

 リチャードは、周囲を見回す。

 橋の下流側で、
 流木が、橋脚に引っかかっている。

 いや――
 引っかかっているのではない。

 次々と流れてきた木々や瓦礫が絡まり、
 即席の“壁”のようになっている。

 それが、水の流れをせき止め、
 圧力を一点に集中させていた。

 「まさか……」

 言葉にした瞬間だった。

 どん、と。
 鈍く、重たい衝撃。

 橋の下から、
 嫌な音が響いた。

 きしむ。
 軋む。
 耐えていた何かが、限界に近づいている音。

 「殿下!」

 側近たちが、悲鳴に近い声を上げる。

 次の瞬間――
 濁流が、一気に暴れた。

 流木の塊が外れ、
 溜め込まれていた水が、解き放たれる。

 橋脚に、
 信じられないほどの水圧が叩きつけられた。

 がくん、と。

 足元が、沈んだ。

 「なっ……!」

 叫ぶ間もなかった。

 石が、崩れる。
 橋の一部が、音を立てて割れた。

 馬が、悲鳴を上げる。

 バランスを失い、
 前脚が空を切った。

 「――――!」

 リチャードは、手綱を引いた。

 だが、遅い。

 橋の中央が、
 まるで口を開けるように、崩れ落ちる。

 世界が、反転した。

 空が、足元に。
 濁流が、視界いっぱいに迫る。

 冷たい水が、全身を包み込んだ。

 重い。
 息ができない。

 鎧が、水を吸って沈む。

 必死に手を伸ばすが、
 掴めるものは、何もない。

 頭の中に、
 断片的な思考が浮かぶ。

 ――なぜだ。
 ――嵐は、弱まったはずだ。
 ――ポーラは、祈ったはずだ。

 その考えに、
 初めて、疑問が差し込む。

 ――本当に、そうだったのか?

 水の中で、
 視界が、暗くなる。

 そのとき、
 なぜか、扉の前の光景が脳裏をよぎった。

 返事のない扉。
 沈黙。
 そして、紙に書かれた、淡々とした文字。

 『城前の橋が、増水で流されます』

 「……っ」

 気泡が、口から漏れる。

 あれは、
 拒絶でも、意地でもなかった。

 ただの、警告。

 それを、
 自分は――

 濁流が、リチャードの体を引きずっていく。

 視界の端で、
 崩れ落ちた橋の欠片が、遠ざかる。

 側近たちの叫び声が、
 水の向こうで歪んで聞こえる。

 やがて、
 それさえも、消えた。

 城前の橋は、
 その日、完全に崩落した。

 王太子リチャードは、
 濁流に呑まれ、
 行方不明となる。

 それは、
 王国にとっての大事件であり、
 同時に、
 誰にも聞き入れられなかった警告の、
 静かな結末だった。

 一方、スター公爵家の一室。

 ポーラ・スターは、
 遠くで何かが崩れるような音を感じ取り、
 そっと、目を閉じた。

 祈りは、捧げない。

 もう、
 誰かのために、
 無理に祈ることはしないと、
 決めていた。

 ただ、
 濁流の先にある結果を、
 静かに、受け止めるだけだった。
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