引きこもり聖女は祈らない

鷹 綾

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第33話 扉に貼られた警告

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第33話 扉に貼られた警告

 スター公爵家の廊下は、今日も静かだった。

 外ではまだ風が吹き、湿った空気が漂っているはずなのに、この屋敷の中だけは、時間が止まったかのように穏やかだ。
 厚い壁と分厚い扉が、外界とこの場所を切り離している。

 ポーラ・スターは、いつもの椅子に腰掛け、膝の上に両手を重ねていた。

 心は、不思議なほど落ち着いている。

 昨夜、一人の人間として祈ったあとの余韻は、まだ胸の奥に残っていた。
 世界を動かそうとしない祈り。
 結果を求めない願い。

 それは、彼女から何も奪わなかった。

 だからこそ、今の彼女は、冷静だった。

 ふと、胸の奥に、微かなざわめきが生まれる。

 遠く。
 とても遠く。

 けれど、確実に伝わってくる気配。

 水の重さ。
 押し寄せる流れ。
 耐えきれず、きしむ構造物。

 「……」

 ポーラは、ゆっくりと立ち上がった。

 急ぐ必要はない。
 取り乱す必要もない。

 ただ、やるべきことが一つあるだけだ。

 机の上に置かれた紙と、ペンを手に取る。
 慣れた動作だった。

 これまで、何度もそうしてきた。

 声を出せないわけではない。
 言葉を知らないわけでもない。

 けれど、扉越しに話すよりも、
 紙に書いたほうが、ずっと楽だった。

 余計な表情を見られずに済む。
 声が震えることもない。

 そして何より、
 読むかどうかは、相手に委ねられる。

 ポーラは、紙の上に、淡々と文字を綴った。

 飾り気はない。
 感情も、ほとんど込めていない。

 ただ、事実だけ。

 『城前の橋が、増水で流されます』

 書き終えると、少しだけ手を止める。

 この先を書くべきかどうか、迷った。

 「危険です」
 「通らないでください」
 「戻ってください」

 そう書けば、より親切なのかもしれない。

 けれど――
 彼女は、それをしなかった。

 警告は、警告として十分だ。
 どう行動するかは、相手が決めること。

 それ以上を背負うつもりは、もうない。

 ポーラは、紙を手に、扉へ向かう。

 重たい木の扉。
 この数年、彼女を守り、同時に閉じ込めてきた境界。

 扉の向こうに、誰かがいる気配はない。

 それでも構わない。

 彼女は、紙を扉に貼り付けた。

 いつもの位置。
 視線を落とせば、自然と目に入る高さ。

 貼り終えると、深く息を吐く。

 これでいい。

 それ以上でも、それ以下でもない。

 再び椅子に戻り、静かに腰を下ろす。

 扉の外では、
 その紙切れが、ただの一枚のメモとして存在している。

 読む者がいなければ、
 何の意味も持たない。

 それでも、
 書いたという事実だけは、確かに残った。

 一方、城へと向かう街道。

 王太子リチャードは、馬を進めながら、苛立ちを募らせていた。

 空は明るくなりつつあるのに、
 川の音が、なぜか弱まらない。

 それどころか、
 場所によっては、昨夜よりも重たい流れになっている。

 「……おかしいな」

 小さく、呟く。

 嵐は弱まった。
 それは間違いない。

 なのに、水は減らない。

 だが、立ち止まる理由にはならなかった。

 ここまで来て引き返せば、
 自分の判断が誤りだったと認めることになる。

 それだけは、受け入れられない。

 城前の橋が、見えてきた。

 普段なら、堂々とした姿を誇る石橋だ。
 王都の象徴の一つ。

 しかし今、その下を流れる川は、
 異様なまでに膨れ上がっている。

 濁流が、橋脚に叩きつけられ、
 白い泡を立てて流れていく。

 側近の顔が、明らかに強張った。

 「殿下……」

 制止の声が、かかりかける。

 だが、リチャードは、手を上げて遮った。

 「行ける」

 自分に言い聞かせるような声だった。

 「嵐は去った。
  今さら、橋が落ちるはずがない」

 その言葉に、根拠はない。

 あるのは、
 自分は間違っていない、
 という思い込みだけだ。

 彼は、気づかなかった。

 スター公爵家の扉に貼られた、
 たった一枚の紙の存在に。

 もし、あの警告を見ていれば。
 もし、立ち止まり、考える時間を持っていれば。

 だが――
 王太子は、急いでいた。

 回復を、自分に都合よく解釈し、
 未来を決めつけていた。

 そして、
 警告とは、
 常に「無視される可能性」と隣り合わせに存在するものだ。

 扉に貼られた一枚のメモは、
 静かに、
 運命の分岐点を示していた。

 それを選ぶか、
 見落とすか。

 答えは、
 すでに、彼自身の行動によって決まりつつあった。
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