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第32話 急ぎすぎた帰還
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第32話 急ぎすぎた帰還
王太子リチャードは、馬上で外套を翻しながら、城へと続く街道を進んでいた。
昨夜まで荒れ狂っていた嵐は影を潜め、空にはまだ重たい雲が残っているものの、雨はほとんど降っていない。
それが、彼の判断をさらに後押ししていた。
「ほら見ろ……通れるではないか」
誰に向けたわけでもない言葉を、口にする。
道はぬかるんでいるが、馬は進める。
昨夜の混乱が嘘のようだと、彼は思った。
――やはり、ポーラは祈ったのだ。
そう考えることで、胸の奥にあった不安は、急速に形を変えていく。
これは失敗ではない。
一時的な混乱だ。
聖女を解任し、婚約を破棄した判断も、間違いではなかった。
だが、状況が変わったのなら、修正すればいい。
それだけの話だ。
「戻ればいい。
聖女に復帰させ、再び婚約者に迎えればいい」
そうすれば、王国は安定する。
民も納得する。
何より――
自分の評価が傷つかずに済む。
川が見えてきた。
城前へと続く、大きな橋。
いつもなら人と荷馬車で賑わう場所だが、今は人気がない。
水音が、耳に届く。
ごうごうと、重たい音。
昨夜ほどではない。
だが、明らかに、平常時よりも水量は多い。
側近の一人が、慎重に口を開いた。
「殿下……川の流れが、まだ強いようですが」
リチャードは、ちらりと視線を向けただけで答えた。
「問題ない」
即答だった。
「嵐は去った。
水位も、これから下がる」
それは、願望に近い判断だった。
だが、彼自身は、それを疑っていない。
もし、ここで引き返せば――
自分が不安に負けたように見える。
それだけは、許せなかった。
「進め」
短い命令。
馬は、橋へと足を踏み出す。
その瞬間、
川面が、不自然にうねった。
増水した水が、橋脚にぶつかり、
濁流となって流れていく。
木製の欄干が、きしむ音を立てた。
「……?」
一瞬、胸の奥に、言いようのない違和感が走る。
だが、リチャードは、その感覚を振り払った。
――考えすぎだ。
嵐が弱まったのは事実だ。
天候が回復しているのも、事実だ。
それが、何よりの証拠ではないか。
彼は、前だけを見ていた。
扉の向こうで、
返事をしなかった聖女のことも。
「嫌」と書かれるかもしれない未来も。
そんな可能性は、
最初から、視界に入っていない。
スター公爵家の屋敷では、その頃。
ポーラ・スターが、静かに椅子に座っていた。
扉の前には、
すでに一枚のメモが貼られている。
『城前の橋が、増水で流されます』
文字は、淡々としていた。
感情は、そこにない。
警告を書いたあと、
ポーラの心は、不思議なほど静かだった。
それをどう受け取るかは、
相手の自由だ。
彼女は、もう、
誰かの判断を背負うつもりはなかった。
遠くで、
低く、重たい音が響く。
それが雷なのか、
それとも、別の何かなのか。
ポーラは、カップに残った紅茶を見つめながら、
そっと目を伏せた。
急ぎすぎた帰還は、
まだ、この時点では、
取り返しのつかない結果を迎えてはいない。
だが、
歯車はすでに、
確実に、噛み合わない方向へと回り始めていた。
王太子リチャードは、馬上で外套を翻しながら、城へと続く街道を進んでいた。
昨夜まで荒れ狂っていた嵐は影を潜め、空にはまだ重たい雲が残っているものの、雨はほとんど降っていない。
それが、彼の判断をさらに後押ししていた。
「ほら見ろ……通れるではないか」
誰に向けたわけでもない言葉を、口にする。
道はぬかるんでいるが、馬は進める。
昨夜の混乱が嘘のようだと、彼は思った。
――やはり、ポーラは祈ったのだ。
そう考えることで、胸の奥にあった不安は、急速に形を変えていく。
これは失敗ではない。
一時的な混乱だ。
聖女を解任し、婚約を破棄した判断も、間違いではなかった。
だが、状況が変わったのなら、修正すればいい。
それだけの話だ。
「戻ればいい。
聖女に復帰させ、再び婚約者に迎えればいい」
そうすれば、王国は安定する。
民も納得する。
何より――
自分の評価が傷つかずに済む。
川が見えてきた。
城前へと続く、大きな橋。
いつもなら人と荷馬車で賑わう場所だが、今は人気がない。
水音が、耳に届く。
ごうごうと、重たい音。
昨夜ほどではない。
だが、明らかに、平常時よりも水量は多い。
側近の一人が、慎重に口を開いた。
「殿下……川の流れが、まだ強いようですが」
リチャードは、ちらりと視線を向けただけで答えた。
「問題ない」
即答だった。
「嵐は去った。
水位も、これから下がる」
それは、願望に近い判断だった。
だが、彼自身は、それを疑っていない。
もし、ここで引き返せば――
自分が不安に負けたように見える。
それだけは、許せなかった。
「進め」
短い命令。
馬は、橋へと足を踏み出す。
その瞬間、
川面が、不自然にうねった。
増水した水が、橋脚にぶつかり、
濁流となって流れていく。
木製の欄干が、きしむ音を立てた。
「……?」
一瞬、胸の奥に、言いようのない違和感が走る。
だが、リチャードは、その感覚を振り払った。
――考えすぎだ。
嵐が弱まったのは事実だ。
天候が回復しているのも、事実だ。
それが、何よりの証拠ではないか。
彼は、前だけを見ていた。
扉の向こうで、
返事をしなかった聖女のことも。
「嫌」と書かれるかもしれない未来も。
そんな可能性は、
最初から、視界に入っていない。
スター公爵家の屋敷では、その頃。
ポーラ・スターが、静かに椅子に座っていた。
扉の前には、
すでに一枚のメモが貼られている。
『城前の橋が、増水で流されます』
文字は、淡々としていた。
感情は、そこにない。
警告を書いたあと、
ポーラの心は、不思議なほど静かだった。
それをどう受け取るかは、
相手の自由だ。
彼女は、もう、
誰かの判断を背負うつもりはなかった。
遠くで、
低く、重たい音が響く。
それが雷なのか、
それとも、別の何かなのか。
ポーラは、カップに残った紅茶を見つめながら、
そっと目を伏せた。
急ぎすぎた帰還は、
まだ、この時点では、
取り返しのつかない結果を迎えてはいない。
だが、
歯車はすでに、
確実に、噛み合わない方向へと回り始めていた。
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