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第18話 幼い日の恩人
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第18話 幼い日の恩人
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イソファガス領の朝は、今日も静かだった。
山から降りてくる風が、庭の木々を揺らし、窓辺のレースをそっと揺らす。
キクコ・イソファガスは書斎で紅茶を淹れながら、昨夜届いた王家の書簡を机の端へと追いやった。
「……再協議、再協議って。懲りない人たち」
ため息混じりに呟き、湯気の立つカップに口をつける。
国を止めた張本人として、王宮が彼女を放っておくはずがないことは分かっていた。
だが、少なくとも今は“嵐の前の静けさ”だ。
――そのはず、だった。
控えめなノック音が、書斎の扉を叩いた。
「キクコ様。……お客様です」
老執事ガイウスの声が、どこか歯切れ悪い。
「珍しいわね。今度は誰?」
「その……お一人で来られまして」
「一人?」
キクコは扇子を置き、立ち上がった。
「通してちょうだい」
◆ ◆ ◆
応接間に通された青年は、少しだけ緊張した面持ちで立っていた。
年の頃は二十前後。
簡素な旅装に、よく手入れされた剣。
だが、その立ち姿には、どこか“覚えのある気配”があった。
「……あら?」
キクコは足を止め、相手をじっと見つめる。
「その構え……」
青年は、深く一礼した。
「はじめまして。
いえ……本当は、“はじめまして”ではありません」
顔を上げた青年の瞳は、まっすぐだった。
「キクコ様。
――幼い頃、命を救っていただいた者です」
その言葉に、キクコの記憶が一気に遡る。
◆ ◆ ◆
――森。
雨。
迷子の少年。
崖から落ちかけ、木の根にしがみついて泣いていた、小さな子ども。
あのとき、彼女は――
『大丈夫よ。落ち着いて。
ほら、手を伸ばして』
そう言って、迷いなく手を伸ばした。
◆ ◆ ◆
「……あの時の坊や?」
キクコの言葉に、青年ははにかむように笑った。
「覚えていてくださったのですね」
「忘れるわけないでしょう。
あんなに必死に泣いてた子、印象に残らないはずがないわ」
「……その節は、本当にありがとうございました」
青年は再び頭を下げた。
「もし、あの時キクコ様がいなければ、私はここにいません」
キクコは軽く肩をすくめた。
「大げさよ。
子どもを助けるのは当たり前でしょう?」
「でも、あのときのあなたは――
今と、まったく同じ姿でした」
空気が、わずかに張り詰める。
キクコは、静かに紅茶を注ぎ直した。
「……それで?」
「私は、その理由を知りません。
ですが、ずっと考えていました」
青年は、拳を握る。
「どうして、あの人は年を取らないのか。
どうして、誰よりも強く、優しいのか」
キクコは、彼をまっすぐに見た。
「答えを求めに来たの?」
「いいえ」
青年は、首を横に振った。
「答えはいりません。
ただ……お礼を言いたくて」
◆ ◆ ◆
「……それだけ?」
キクコの問いに、青年は少しだけ笑った。
「それだけ、ではありません」
懐から、一通の書簡を取り出す。
「王宮から、勇者候補としての召集が来ました」
キクコの目が、細くなる。
「……来たのね」
「はい。
ですが、私は行きません」
「理由は?」
「あなたが教えてくれたからです」
「私が?」
「はい。
“役割を押しつけられる人生ほど、愚かなものはない”と」
キクコは、思わず吹き出した。
「……そんなこと、言ったかしら」
「ええ。
あの時、森で。
泣き止まない私に、そう言ってくれました」
◆ ◆ ◆
キクコは、少しだけ視線を逸らす。
「……相変わらず、変なところを覚えてるわね」
「でも、その言葉があったから、私は自分で剣を握る理由を選べました」
青年は、剣の柄に手を置いた。
「私は、あなたのようになりたい」
その言葉に、キクコは静かに首を振った。
「やめておきなさい」
「……なぜ?」
「私の道は、孤独よ」
キクコは、淡々と続ける。
「誰も同じ速度で歩いてくれない。
気づけば、周りは全部、入れ替わる」
青年は、それでも目を逸らさなかった。
「それでも、あなたは人を助け続けている」
「……それは、性分なだけ」
「性分でできることじゃありません」
◆ ◆ ◆
沈黙が、応接間に落ちる。
やがて、キクコは小さく息を吐いた。
「……名前は?」
「レオンと申します」
「そう。レオン」
彼女は、扇子を閉じて立ち上がる。
「勇者になるかどうかは、あなたが決めなさい。
でも――」
一歩、距離を詰める。
「誰かに“選ばされる”人生だけは、選ばないこと」
レオンは、深く頷いた。
「はい」
◆ ◆ ◆
別れ際。
レオンは、少しだけ迷ってから言った。
「……あの」
「なに?」
「“母上”と呼んでしまいそうになって……」
その瞬間、キクコの扇子がぴたりと止まる。
「却下」
「ですよね!」
「あなたは、弟子。
それ以上でも以下でもないわ」
レオンは苦笑しながらも、どこか嬉しそうだった。
◆ ◆ ◆
彼が去ったあと。
キクコは、窓辺に立ち、遠ざかる背中を見送った。
「……また一人、置いていくことになるのかしらね」
そう呟いたが、不思議と胸は軽かった。
彼は、自分で選び、自分で歩く。
それだけで、十分だ。
机に戻り、紅茶を一口。
「……さて」
書簡の山を見やる。
「次は、誰が来るのかしら」
永遠の十七歳は、今日も変わらぬ姿で――
それでも確実に、誰かの人生に痕跡を残し続けていた。
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イソファガス領の朝は、今日も静かだった。
山から降りてくる風が、庭の木々を揺らし、窓辺のレースをそっと揺らす。
キクコ・イソファガスは書斎で紅茶を淹れながら、昨夜届いた王家の書簡を机の端へと追いやった。
「……再協議、再協議って。懲りない人たち」
ため息混じりに呟き、湯気の立つカップに口をつける。
国を止めた張本人として、王宮が彼女を放っておくはずがないことは分かっていた。
だが、少なくとも今は“嵐の前の静けさ”だ。
――そのはず、だった。
控えめなノック音が、書斎の扉を叩いた。
「キクコ様。……お客様です」
老執事ガイウスの声が、どこか歯切れ悪い。
「珍しいわね。今度は誰?」
「その……お一人で来られまして」
「一人?」
キクコは扇子を置き、立ち上がった。
「通してちょうだい」
◆ ◆ ◆
応接間に通された青年は、少しだけ緊張した面持ちで立っていた。
年の頃は二十前後。
簡素な旅装に、よく手入れされた剣。
だが、その立ち姿には、どこか“覚えのある気配”があった。
「……あら?」
キクコは足を止め、相手をじっと見つめる。
「その構え……」
青年は、深く一礼した。
「はじめまして。
いえ……本当は、“はじめまして”ではありません」
顔を上げた青年の瞳は、まっすぐだった。
「キクコ様。
――幼い頃、命を救っていただいた者です」
その言葉に、キクコの記憶が一気に遡る。
◆ ◆ ◆
――森。
雨。
迷子の少年。
崖から落ちかけ、木の根にしがみついて泣いていた、小さな子ども。
あのとき、彼女は――
『大丈夫よ。落ち着いて。
ほら、手を伸ばして』
そう言って、迷いなく手を伸ばした。
◆ ◆ ◆
「……あの時の坊や?」
キクコの言葉に、青年ははにかむように笑った。
「覚えていてくださったのですね」
「忘れるわけないでしょう。
あんなに必死に泣いてた子、印象に残らないはずがないわ」
「……その節は、本当にありがとうございました」
青年は再び頭を下げた。
「もし、あの時キクコ様がいなければ、私はここにいません」
キクコは軽く肩をすくめた。
「大げさよ。
子どもを助けるのは当たり前でしょう?」
「でも、あのときのあなたは――
今と、まったく同じ姿でした」
空気が、わずかに張り詰める。
キクコは、静かに紅茶を注ぎ直した。
「……それで?」
「私は、その理由を知りません。
ですが、ずっと考えていました」
青年は、拳を握る。
「どうして、あの人は年を取らないのか。
どうして、誰よりも強く、優しいのか」
キクコは、彼をまっすぐに見た。
「答えを求めに来たの?」
「いいえ」
青年は、首を横に振った。
「答えはいりません。
ただ……お礼を言いたくて」
◆ ◆ ◆
「……それだけ?」
キクコの問いに、青年は少しだけ笑った。
「それだけ、ではありません」
懐から、一通の書簡を取り出す。
「王宮から、勇者候補としての召集が来ました」
キクコの目が、細くなる。
「……来たのね」
「はい。
ですが、私は行きません」
「理由は?」
「あなたが教えてくれたからです」
「私が?」
「はい。
“役割を押しつけられる人生ほど、愚かなものはない”と」
キクコは、思わず吹き出した。
「……そんなこと、言ったかしら」
「ええ。
あの時、森で。
泣き止まない私に、そう言ってくれました」
◆ ◆ ◆
キクコは、少しだけ視線を逸らす。
「……相変わらず、変なところを覚えてるわね」
「でも、その言葉があったから、私は自分で剣を握る理由を選べました」
青年は、剣の柄に手を置いた。
「私は、あなたのようになりたい」
その言葉に、キクコは静かに首を振った。
「やめておきなさい」
「……なぜ?」
「私の道は、孤独よ」
キクコは、淡々と続ける。
「誰も同じ速度で歩いてくれない。
気づけば、周りは全部、入れ替わる」
青年は、それでも目を逸らさなかった。
「それでも、あなたは人を助け続けている」
「……それは、性分なだけ」
「性分でできることじゃありません」
◆ ◆ ◆
沈黙が、応接間に落ちる。
やがて、キクコは小さく息を吐いた。
「……名前は?」
「レオンと申します」
「そう。レオン」
彼女は、扇子を閉じて立ち上がる。
「勇者になるかどうかは、あなたが決めなさい。
でも――」
一歩、距離を詰める。
「誰かに“選ばされる”人生だけは、選ばないこと」
レオンは、深く頷いた。
「はい」
◆ ◆ ◆
別れ際。
レオンは、少しだけ迷ってから言った。
「……あの」
「なに?」
「“母上”と呼んでしまいそうになって……」
その瞬間、キクコの扇子がぴたりと止まる。
「却下」
「ですよね!」
「あなたは、弟子。
それ以上でも以下でもないわ」
レオンは苦笑しながらも、どこか嬉しそうだった。
◆ ◆ ◆
彼が去ったあと。
キクコは、窓辺に立ち、遠ざかる背中を見送った。
「……また一人、置いていくことになるのかしらね」
そう呟いたが、不思議と胸は軽かった。
彼は、自分で選び、自分で歩く。
それだけで、十分だ。
机に戻り、紅茶を一口。
「……さて」
書簡の山を見やる。
「次は、誰が来るのかしら」
永遠の十七歳は、今日も変わらぬ姿で――
それでも確実に、誰かの人生に痕跡を残し続けていた。
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