婚約破棄して「無能」と捨てた元婚約者様へ。私が隣国の魔導予算を握っていますが、今さら戻ってこいなんて冗談ですよね?』

鷹 綾

文字の大きさ
25 / 40

第25話 責任という名の帳簿が、静かに開かれた

しおりを挟む
第25話 責任という名の帳簿が、静かに開かれた

 王宮の地下文書庫は、久しく使われていなかった。

 厚い扉が開くたび、乾いた埃の匂いが舞い上がる。
 灯りを掲げた書記官が、慎重に足を運ぶ。

「……ここです」

 低い声で告げられ、アラルガン王太子は立ち止まった。

 壁一面に並ぶ、古い帳簿。
 年号ごと、部局ごとに分けられ、几帳面に整理されている。

「これは……」

「魔導基盤関連、
 過去十年分の支出・決裁記録です」

 書記官の声には、感情がなかった。

「本日より、
 責任の所在確認が始まります」

 王太子は、喉を鳴らした。

 責任。
 それは、いつも誰かが背負ってくれるものだと、
 どこかで思っていた。

 だが今、
 それがこちらを見ている。

「……誰の、指示だ」

「顧問――
 エルフレイド・ヴァルシュタイン殿です」

 一瞬、胸が詰まる。

 彼女は、
 何も言わなかった。
 責めもしなかった。

 ただ――
 帳簿を、開いた。

「確認作業は、
 第三者監査として行われます」

 書記官が続ける。

「財務局、魔導庁、軍務局、
 各部局の代表が立ち会います」

「……私も、
 立ち会うのか」

「はい」

 拒否権は、
 ない。

 机の上に、
 一冊目の帳簿が置かれる。

 分厚い。
 重い。

 それは、
 数字の重みではない。

 決断の積み重ねだった。

「まず、
 魔導障壁更新費用について」

 財務卿が、
 淡々と読み上げる。

「五年前、
 予算削減の決裁が出ています」

 書記官が、
 該当ページを開く。

 そこには、
 確かに自分の署名があった。

「……理由は?」

「“緊急性が低い”との判断です」

 王太子は、
 口を閉ざす。

 当時、
 派手な成果を求めていた。
 目に見えない保守より、
 祝祭や外征の方が、
 支持を集めると思っていた。

「次」

 軍務卿が、
 別の帳簿を差し出す。

「魔石輸入ルートの一本化。
 これも、殿下の裁可です」

「……効率化のためだ」

「結果として、
 供給停止時の代替がなくなりました」

 淡々とした指摘。

 言い返す言葉は、
 なかった。

「さらに」

 魔導庁長官が、
 声を重ねる。

「技術者人件費の削減。
 離職率が急上昇しています」

 王太子は、
 拳を握る。

「……当時は、
 問題ないと報告を受けた」

「報告を上げたのは、
 どなたでしょう」

 帳簿が、
 開かれる。

 そこに記されている名前。

 ――自分が重用した、
 取り巻きの貴族。

 彼らは、
 今、
 どこにもいない。

「……次」

 声が、
 かすれる。

 帳簿は、
 容赦なく続く。

 小さな削減。
 小さな先送り。
 小さな妥協。

 どれも、
 その場では、
 “合理的”に見えた。

 だが、
 積み重なった結果が、
 今だ。

「……結論として」

 財務卿が、
 静かにまとめる。

「魔導基盤の不安定化は、
 単一の事故ではありません」

 一拍。

「長年の判断の積み重ねです」

 王太子は、
 目を閉じた。

 否定できない。

「……私は」

 絞り出す。

「……何も、
 盗んでいない」

 財務卿は、
 首を振る。

「誰も、
 そうは言っておりません」

「……では、
 なぜ」

「守らなかったのです」

 その言葉が、
 胸に落ちる。

 盗まなかった。
 だが、
 守らなかった。

 それは、
 罪ではないと、
 思っていた。

 だが――
 結果は、同じだ。

「本監査の結果は、
 公表されます」

 書記官が告げる。

「殿下個人の責任範囲、
 明文化されます」

 王太子は、
 顔を上げた。

「……処罰は?」

「政治的判断となります」

 財務卿が答える。

「ですが、
 少なくとも――」

 一拍置いて。

「“誤解”という余地は、
 なくなります」

 それは、
 最も重い宣告だった。

 夜。

 王太子は、
 自室に戻り、
 一人で座っていた。

 机の上には、
 写しを取った帳簿の一部。

 自分の署名。
 自分の決裁。

「……全部、
 自分の字だ」

 誰かに強要されたわけではない。
 誰かに騙されたわけでもない。

 選んだのだ。

 楽な方を。
 目立つ方を。
 今だけを。

 その積み重ねが、
 国を危うくした。

 扉を叩く音。

「殿下」

 ローディアスだった。

「……何だ」

「顧問より、
 一言預かっています」

 王太子は、
 黙って聞く。

「――“私は、
 責任を取らせるために
 帳簿を開いたのではありません”」

 ローディアスは、
 続ける。

「――“責任を、
 誰が負うべきかを
 明確にするためです”」

 王太子は、
 苦く笑った。

「……優しいな」

「いえ」

 ローディアスは、
 首を振る。

「これ以上、
 誰かが代わりに
 背負うことを、
 許さないだけです」

 扉が閉まる。

 王太子は、
 帳簿を閉じ、
 深く息を吐いた。

 責任という名の帳簿は、
 確かに、
 静かに開かれた。

 そこに書かれているのは、
 数字ではない。

 選ばなかったものの一覧。

 そして、
 それを閉じる方法は、
 ただ一つ。

 ――自分自身が、
 その重みを、
 認めることだった。

 逃げ場は、
 もう、
 どこにもなかった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

勝手にしろと言われたので、勝手にさせていただきます

結城芙由奈@コミカライズ3巻7/30発売
恋愛
子爵家の私は自分よりも身分の高い婚約者に、いつもいいように顎でこき使われていた。ある日、突然婚約者に呼び出されて一方的に婚約破棄を告げられてしまう。二人の婚約は家同士が決めたこと。当然受け入れられるはずもないので拒絶すると「婚約破棄は絶対する。後のことなどしるものか。お前の方で勝手にしろ」と言い切られてしまう。 いいでしょう……そこまで言うのなら、勝手にさせていただきます。 ただし、後のことはどうなっても知りませんよ? * 他サイトでも投稿 * ショートショートです。あっさり終わります

【完結】✴︎私と結婚しない王太子(あなた)に存在価値はありませんのよ?

綾雅(りょうが)今年は7冊!
恋愛
「エステファニア・サラ・メレンデス――お前との婚約を破棄する」 婚約者であるクラウディオ王太子に、王妃の生誕祝いの夜会で言い渡された私。愛しているわけでもない男に婚約破棄され、断罪されるが……残念ですけど、私と結婚しない王太子殿下に価値はありませんのよ? 何を勘違いしたのか、淫らな恰好の女を伴った元婚約者の暴挙は彼自身へ跳ね返った。 ざまぁ要素あり。溺愛される主人公が無事婚約破棄を乗り越えて幸せを掴むお話。 表紙イラスト:リルドア様(https://coconala.com/users/791723) 【完結】本編63話+外伝11話、2021/01/19 【複数掲載】アルファポリス、小説家になろう、エブリスタ、カクヨム、ノベルアップ+ 2021/12  異世界恋愛小説コンテスト 一次審査通過 2021/08/16、「HJ小説大賞2021前期『小説家になろう』部門」一次選考通過

王妃様は死にました~今さら後悔しても遅いです~

由良
恋愛
クリスティーナは四歳の頃、王子だったラファエルと婚約を結んだ。 両親が事故に遭い亡くなったあとも、国王が大病を患い隠居したときも、ラファエルはクリスティーナだけが自分の妻になるのだと言って、彼女を守ってきた。 そんなラファエルをクリスティーナは愛し、生涯を共にすると誓った。 王妃となったあとも、ただラファエルのためだけに生きていた。 ――彼が愛する女性を連れてくるまでは。

愛されていたのだと知りました。それは、あなたの愛をなくした時の事でした。

桗梛葉 (たなは)
恋愛
リリナシスと王太子ヴィルトスが婚約をしたのは、2人がまだ幼い頃だった。 それから、ずっと2人は一緒に過ごしていた。 一緒に駆け回って、悪戯をして、叱られる事もあったのに。 いつの間にか、そんな2人の関係は、ひどく冷たくなっていた。 変わってしまったのは、いつだろう。 分からないままリリナシスは、想いを反転させる禁忌薬に手を出してしまう。 ****************************************** こちらは、全19話(修正したら予定より6話伸びました🙏) 7/22~7/25の4日間は、1日2話の投稿予定です。以降は、1日1話になります。

「では、ごきげんよう」と去った悪役令嬢は破滅すら置き去りにして

東雲れいな
恋愛
「悪役令嬢」と噂される伯爵令嬢・ローズ。王太子殿下の婚約者候補だというのに、ヒロインから王子を奪おうなんて野心はまるでありません。むしろ彼女は、“わたくしはわたくしらしく”と胸を張り、周囲の冷たい視線にも毅然と立ち向かいます。 破滅を甘受する覚悟すらあった彼女が、誇り高く戦い抜くとき、運命は大きく動きだす。

彼女の離縁とその波紋

豆狸
恋愛
夫にとって魅力的なのは、今も昔も恋人のあの女性なのでしょう。こうして私が悩んでいる間もふたりは楽しく笑い合っているのかと思うと、胸にぽっかりと穴が開いたような気持ちになりました。 ※子どもに関するセンシティブな内容があります。

あなたのことなんて、もうどうでもいいです

もるだ
恋愛
舞踏会でレオニーに突きつけられたのは婚約破棄だった。婚約者の相手にぶつかられて派手に転んだせいで、大騒ぎになったのに……。日々の業務を押しつけられ怒鳴りつけられいいように扱われていたレオニーは限界を迎える。そして、気がつくと魔法が使えるようになっていた。 元婚約者にこき使われていたレオニーは復讐を始める。

お飾り王妃の死後~王の後悔~

ましゅぺちーの
恋愛
ウィルベルト王国の王レオンと王妃フランチェスカは白い結婚である。 王が愛するのは愛妾であるフレイアただ一人。 ウィルベルト王国では周知の事実だった。 しかしある日王妃フランチェスカが自ら命を絶ってしまう。 最後に王宛てに残された手紙を読み王は後悔に苛まれる。 小説家になろう様にも投稿しています。

処理中です...