『奢侈禁止令の鉄槌 ―偽の公爵令嬢が紡ぐ、着られぬ絹の鎖―』

鷹 綾

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第6話 何も言わない姉

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第6話 何も言わない姉

亡き公爵夫人の部屋には、再び静かな空気が戻っていた。

ほんの数分前まで、そこには白銀の絹の輝きがあった。
代々ヴァルモン公爵家の直系女子にのみ許された、特別なドレス。

だが今、その衣装箱の中は空になっている。

クロエはその箱を見つめたまま、動けなかった。

先ほどの光景が頭から離れない。

セレスティーヌがドレスを抱え、得意げに笑いながら部屋を出ていった瞬間。

止めるべきだった。

誰もがそう思ったはずだ。

けれど、止めた者は一人もいない。

クロエは震える声で言った。

「お嬢様……」

オルタンスは衣装棚の前に立っていた。

表情は穏やかで、怒りも焦りも見えない。

「はい」

「……本当に、よろしいのですか」

クロエは思い切って言った。

「あのドレスは――」

言葉が詰まる。

言うまでもない。

あの衣装の意味は、すでに聞かされている。

公爵家直系女子の証。

王宮紋章院に登録された意匠。

そして、それを無資格者が着た場合。

爵位の僭称。

クロエの手は震えていた。

「舞踏会で……あの方が着てしまったら……」

オルタンスは静かに衣装箱を見つめていた。

空になった箱。

そこにはまだ、絹の香りが残っている。

彼女はゆっくりと蓋を閉めた。

カタン、と小さな音がした。

「クロエ」

「はい」

「あなたは、あの方に何か説明しましたか」

クロエは慌てて首を振る。

「いいえ……」

「私は言葉を挟むこともできませんでした」

オルタンスは小さく頷いた。

「そうですか」

クロエは思い切って言う。

「ですが、お嬢様なら――」

「止められました」

その言葉は、はっきりしていた。

オルタンスは否定しない。

「ええ」

「止めることはできたでしょう」

クロエは一瞬だけ安心した。

だが次の言葉で、また息を呑む。

「けれど、止めませんでした」

部屋の中が静まり返る。

クロエは困惑した。

「……どうしてですか」

オルタンスは窓の方へ歩いた。

カーテンの隙間から、庭の光が差し込んでいる。

裏庭の薔薇が風に揺れていた。

「クロエ」

「はい」

「人は、欲しいものを見つけるとどうしますか」

突然の問いだった。

クロエは戸惑う。

「……欲しがると思います」

「ええ」

オルタンスは頷く。

「そして、それが自分のものではないと知っていても」

彼女はゆっくり言った。

「手に入れようとする人もいます」

クロエは黙って聞いていた。

オルタンスの声は穏やかだった。

「私は、あの方に何も言いませんでした」

「止めもしませんでした」

クロエは不安そうに言う。

「それでは……」

「舞踏会で」

言葉が続かない。

だがオルタンスは理解していた。

「ええ」

彼女は淡々と言った。

「舞踏会で、あの衣装を着るでしょう」

その声は落ち着いている。

まるで、明日の天気を話すように。

クロエは思わず言った。

「ですが……それは……」

「大変なことになります」

オルタンスは振り返った。

「そうでしょうね」

クロエは愕然とした。

オルタンスはゆっくりと机に向かう。

そこにはいくつかの書類が並んでいた。

継承証書。

家系記録。

王宮への届け出。

彼女はその一枚を手に取る。

「舞踏会は」

静かな声だった。

「社交の場であると同時に」

彼女は書類を机に置いた。

「王宮の場です」

クロエは小さく息を呑む。

オルタンスは続けた。

「王宮では、身分が曖昧なまま通ることはありません」

その言葉は穏やかだった。

だが、どこまでも冷静だった。

クロエはようやく理解し始める。

オルタンスは、何もしていないのではない。

すでにすべてを理解した上で、止めていない。

クロエは震える声で言った。

「お嬢様……」

「はい」

「舞踏会は……」

彼女は言葉を選ぶ。

「断罪の場になるのですか」

オルタンスはしばらく答えなかった。

ただ、机の上の書類を整える。

そして静かに言う。

「断罪は」

「私がするものではありません」

クロエは息を止める。

オルタンスは淡く微笑んだ。

「法がするものです」

部屋の外では、遠くからセレスティーヌの笑い声が聞こえていた。

「このドレス、本当に素敵!」

弾んだ声。

まるで未来を祝っているかのような笑い声。

クロエはその声を聞きながら、背筋が寒くなる。

オルタンスは窓の外を見た。

風が薔薇を揺らしている。

「舞踏会まで」

彼女は静かに言う。

「あと二週間ですね」

クロエは小さく頷いた。

オルタンスは机に手を置く。

その目はどこまでも落ち着いていた。

「準備を続けましょう」

そして彼女は、何事もなかったかのように書類を開いた。

屋敷のどこかで、白銀の絹が光を受けて揺れている。

それがどんな意味を持つのか。

まだ、それを知っているのは――

ただ一人だけだった。
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