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第18話 甘い、という言葉の置き場所
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第18話 甘い、という言葉の置き場所
その違和感は、とても小さなものだった。
だから、最初は気のせいだと思った。
ノエリア・ヴァンローゼは、いつも通り朝の紅茶を淹れ、
いつも通りの時間に書斎へ向かっていた。
邸内は静かで、温度も湿度も適切。
何一つ、不満はない。
(……完璧ですわ)
そう評価して、扉に手をかけた、そのとき。
――ふと、気づいた。
(……完璧、すぎません?)
胸の奥に、引っかかるものがある。
不快ではない。
むしろ、落ち着く。
だが――
慣れすぎている。
---
午前。
ノエリアは、いつものように帳簿を確認していた。
集中していると、視界の端に動きが入る。
ヴァルデリオだった。
音もなく、距離を保った位置に立ち、
必要な書類だけを机に置く。
「……ありがとうございます」
「確認が必要な箇所に、印を付けてある」
「承知しました」
それだけの会話。
彼は、すぐに立ち去る。
いつも通り。
だが、ノエリアは、しばらくペンを持ったまま止まっていた。
(……今)
(“気を遣われた”と感じましたわね)
それは、これまでになかった感覚だった。
親切ではない。
配慮だ。
しかも、自分の都合に合わせた配慮。
(……これは)
胸の内で、言葉を探す。
(……甘い?)
すぐに否定した。
(いえ。
合理的な対応です)
集中力を保つため、
余計な説明を省き、
必要な情報だけを渡す。
――理にかなっている。
そう、結論づけて、作業に戻る。
だが、その日は――
なぜか、いつもより仕事が早く終わった。
---
午後。
庭園を歩く。
特に理由はない。
ただ、外の空気が欲しかった。
歩調を緩めた、そのとき。
「……日差しが強い」
ヴァルデリオの声。
いつの間にか、数歩後ろにいる。
「……そうですね」
以前なら、そこで終わっていた。
だが、彼は続けた。
「こちらへ」
示されたのは、木陰。
ノエリアは、一瞬だけ迷い、従った。
(……迷った?)
その事実に、少し驚く。
これまで、迷う必要はなかった。
合理的だと判断できれば、即決していた。
だが今は――
迷ったうえで、選んだ。
(……なぜ?)
木陰は、涼しく、眩しさもない。
「……助かりました」
そう言うと、ヴァルデリオは短く頷いた。
「無理は、必要ない」
その一言が、胸に残る。
(……必要ない)
命令でも、忠告でもない。
許可のようだった。
---
夕方。
ノエリアは、自室で書き物をしていた。
いつもより、文字が柔らかい。
(……疲れているのかしら)
首を傾げる。
そこへ、短い書簡が届く。
> 夕食は、各自の予定通りで構わない。
体調は、どうだ。
――体調。
確認されるのは、初めてではない。
だが。
(……答えたい、と思いましたわね)
義務ではなく。
必要だからでもなく。
伝えたい。
その事実に、ノエリアは手を止めた。
(……これは)
返事を書く。
> 問題ありません。
本日は、少し過ごしやすいです。
送ってから、気づく。
(……“過ごしやすい”)
それは、
“あなたのおかげです”
と言っているようなものではないか。
頬が、ほんの少しだけ熱くなる。
(……あら)
初めてだった。
自分の反応に、
言い訳を探したくなったのは。
---
夜。
ノエリアは、日記を開いた。
『今日、少しだけ考えた。』
ペンが、止まる。
『この生活は、合理的で、静かで、無理がない。』
一行空ける。
『……それなのに。』
しばらく、何も書けない。
(……甘い、という言葉は)
(……どこに置けばいいのかしら)
甘さは、危険だ。
期待を生み、
失望を呼ぶ。
だから、これまで避けてきた。
だが。
(……これは)
(……依存でも、逃避でもない)
ただ。
安心の延長線にあるもの。
それだけだ。
『少しだけ、
甘いかもしれない。』
そう書いて、ペンを置いた。
否定も、肯定もしない。
ただ、認めただけ。
---
同じ頃。
ヴァルデリオは、自室で書類を閉じていた。
机の端に、ノエリアからの返書がある。
> 本日は、少し過ごしやすいです。
短い文。
だが、彼はその一文を、二度読んだ。
「……そうか」
それだけ言って、書簡をしまう。
胸の奥で、何かが静かに落ち着いた。
彼は、深追いしない。
急がない。
――それが、この関係の前提だからだ。
だが。
(……悪くない)
そう思ってしまったことだけは、
否定しなかった。
---
白い結婚(予定)生活。
今日も、大きな変化はない。
けれど。
ノエリア・ヴァンローゼは、初めて知った。
安心が続くと、
その先に“甘さ”が生まれることを。
それは、
恐れるほどのものではなく。
ただ、
丁寧に扱うべき感情だった。
その違和感は、とても小さなものだった。
だから、最初は気のせいだと思った。
ノエリア・ヴァンローゼは、いつも通り朝の紅茶を淹れ、
いつも通りの時間に書斎へ向かっていた。
邸内は静かで、温度も湿度も適切。
何一つ、不満はない。
(……完璧ですわ)
そう評価して、扉に手をかけた、そのとき。
――ふと、気づいた。
(……完璧、すぎません?)
胸の奥に、引っかかるものがある。
不快ではない。
むしろ、落ち着く。
だが――
慣れすぎている。
---
午前。
ノエリアは、いつものように帳簿を確認していた。
集中していると、視界の端に動きが入る。
ヴァルデリオだった。
音もなく、距離を保った位置に立ち、
必要な書類だけを机に置く。
「……ありがとうございます」
「確認が必要な箇所に、印を付けてある」
「承知しました」
それだけの会話。
彼は、すぐに立ち去る。
いつも通り。
だが、ノエリアは、しばらくペンを持ったまま止まっていた。
(……今)
(“気を遣われた”と感じましたわね)
それは、これまでになかった感覚だった。
親切ではない。
配慮だ。
しかも、自分の都合に合わせた配慮。
(……これは)
胸の内で、言葉を探す。
(……甘い?)
すぐに否定した。
(いえ。
合理的な対応です)
集中力を保つため、
余計な説明を省き、
必要な情報だけを渡す。
――理にかなっている。
そう、結論づけて、作業に戻る。
だが、その日は――
なぜか、いつもより仕事が早く終わった。
---
午後。
庭園を歩く。
特に理由はない。
ただ、外の空気が欲しかった。
歩調を緩めた、そのとき。
「……日差しが強い」
ヴァルデリオの声。
いつの間にか、数歩後ろにいる。
「……そうですね」
以前なら、そこで終わっていた。
だが、彼は続けた。
「こちらへ」
示されたのは、木陰。
ノエリアは、一瞬だけ迷い、従った。
(……迷った?)
その事実に、少し驚く。
これまで、迷う必要はなかった。
合理的だと判断できれば、即決していた。
だが今は――
迷ったうえで、選んだ。
(……なぜ?)
木陰は、涼しく、眩しさもない。
「……助かりました」
そう言うと、ヴァルデリオは短く頷いた。
「無理は、必要ない」
その一言が、胸に残る。
(……必要ない)
命令でも、忠告でもない。
許可のようだった。
---
夕方。
ノエリアは、自室で書き物をしていた。
いつもより、文字が柔らかい。
(……疲れているのかしら)
首を傾げる。
そこへ、短い書簡が届く。
> 夕食は、各自の予定通りで構わない。
体調は、どうだ。
――体調。
確認されるのは、初めてではない。
だが。
(……答えたい、と思いましたわね)
義務ではなく。
必要だからでもなく。
伝えたい。
その事実に、ノエリアは手を止めた。
(……これは)
返事を書く。
> 問題ありません。
本日は、少し過ごしやすいです。
送ってから、気づく。
(……“過ごしやすい”)
それは、
“あなたのおかげです”
と言っているようなものではないか。
頬が、ほんの少しだけ熱くなる。
(……あら)
初めてだった。
自分の反応に、
言い訳を探したくなったのは。
---
夜。
ノエリアは、日記を開いた。
『今日、少しだけ考えた。』
ペンが、止まる。
『この生活は、合理的で、静かで、無理がない。』
一行空ける。
『……それなのに。』
しばらく、何も書けない。
(……甘い、という言葉は)
(……どこに置けばいいのかしら)
甘さは、危険だ。
期待を生み、
失望を呼ぶ。
だから、これまで避けてきた。
だが。
(……これは)
(……依存でも、逃避でもない)
ただ。
安心の延長線にあるもの。
それだけだ。
『少しだけ、
甘いかもしれない。』
そう書いて、ペンを置いた。
否定も、肯定もしない。
ただ、認めただけ。
---
同じ頃。
ヴァルデリオは、自室で書類を閉じていた。
机の端に、ノエリアからの返書がある。
> 本日は、少し過ごしやすいです。
短い文。
だが、彼はその一文を、二度読んだ。
「……そうか」
それだけ言って、書簡をしまう。
胸の奥で、何かが静かに落ち着いた。
彼は、深追いしない。
急がない。
――それが、この関係の前提だからだ。
だが。
(……悪くない)
そう思ってしまったことだけは、
否定しなかった。
---
白い結婚(予定)生活。
今日も、大きな変化はない。
けれど。
ノエリア・ヴァンローゼは、初めて知った。
安心が続くと、
その先に“甘さ”が生まれることを。
それは、
恐れるほどのものではなく。
ただ、
丁寧に扱うべき感情だった。
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