婚約破棄されて去ったら、私がいなくても世界は回り始めました

鷹 綾

文字の大きさ
1 / 40

第一話 静かな婚約破棄

しおりを挟む
第一話 静かな婚約破棄

 

「――エミー・マイセン。君との婚約は、ここで解消させてもらう」

 王宮の謁見室に、その言葉が落ちた瞬間、周囲の空気がわずかに揺れた。

 けれど、当の本人であるエミーは、微動だにしなかった。

 深紅の絨毯の上にまっすぐ立ち、背筋を伸ばしたまま、王太子アントナン・ドームを見つめる。驚きも、怒りも、悲しみも浮かばないその表情に、むしろ周囲の貴族たちのほうが戸惑いを隠せずにいた。

 ――泣かないのか。
 ――取り乱さないのか。

 そんな無言の視線が、四方から突き刺さる。

「理由は、もう理解しているだろう?」

 アントナンは、どこか得意げにそう続けた。隣には、白い衣をまとった少女が控えている。平民出身の“聖女”――フロンだ。彼女は不安げにアントナンの袖を掴み、か細い声で囁く。

「殿下……エミー様に、あまり酷い言い方をしないでください……」

 その仕草は、いかにも“か弱く心優しい聖女”を演じていた。

 エミーは一度だけ、フロンに視線を向けた。そこに浮かんだのは、嫌悪でも嫉妬でもない。ただの、静かな観察だった。

(……この方が、殿下の言う“奇跡”なのね)

 フロンの存在が公にされたのは、ほんの数か月前だ。神殿で祈ったところ光が降り注いだ、病人が回復した、干ばつが和らいだ――そうした噂が、いつの間にか“聖女の奇跡”として語られるようになっていた。

 だが、そのどれもが、エミーの目には曖昧だった。

「君は、堅苦しすぎるんだ」

 アントナンの声が、少し強まる。

「常に規則、常に書類、常に数字。王太子妃として正しいのかもしれないが……僕が求めているのは、そういうものじゃない」

 彼はフロンの肩に手を置いた。

「フロンは、愛と祈りで人を救える。神が選んだ存在だ。僕は、彼女と共に国を導きたい」

 まるで演説のような言葉だった。周囲の貴族たちの中には、感嘆の息を漏らす者もいる。

 エミーは、ゆっくりと一つ息を吐いた。

「……なるほど」

 その声は驚くほど落ち着いていた。

「つまり、私では役不足、ということですね」

「そういうことだ」

 即答だった。

 その瞬間、エミーは確信する。――もう、この人は何も見ていない。

 王太子としての政務、貴族たちとの調整、外交文書の管理、予算の再配分。これまで彼が「自分の手腕」だと誇ってきたものの大半は、エミーが裏で整えてきたものだった。

 だが、今さらそれを説明する気はなかった。

「承知いたしました」

 エミーは、静かに膝を折り、形式通りの礼を取る。

「王太子殿下のお考え、確かに受け取りました。婚約破棄の件、異議はございません」

 ざわ、と空気が揺れる。

 ――あっさり認めた?
 ――泣いて縋ると思っていたのに?

 そんな視線を背中に受けながら、エミーは続けた。

「これまでお世話になりました。王太子妃候補として関わっていた業務については、本日をもって手を引かせていただきます」

「……は?」

 アントナンが、思わず声を漏らした。

「手を引く? 業務は引き継ぎが――」

「不要です」

 きっぱりと、エミーは言い切った。

「私個人の裁量で行っていた補佐業務ですので、正式な役職ではございませんでした。ですから、引き継ぎの義務もございません」

 それは事実だった。

 王太子妃候補として“当然のように”やっていた仕事。書面上は、誰の担当にもなっていない。

 アントナンは、一瞬言葉を詰まらせたが、すぐに鼻で笑った。

「……そうか。なら、問題ないな。君がいなくても、国は回る」

「ええ。殿下がおっしゃる通りです」

 エミーは、微笑んだ。

 それは、皮肉でも挑発でもない。ただの、区切りの表情だった。

 こうして、エミー・マイセンは王宮を去ることになった。

 その背中を、誰も引き止めなかった。

 ただ一人――謁見室の奥、柱の影に立つ青年だけが、静かにその姿を見つめていた。

 冷たい灰色の瞳。無駄のない黒衣。隣国の宰相、ガイスト。

(……なるほど)

 彼は、心の中で小さく呟く。

(あの王太子は、宝石を捨てて、石ころを抱いたわけだ)

 エミーが扉を出ていく音が、謁見室に静かに響いた。

 その音は、やがて訪れる崩壊の、最初の合図でもあった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

婚約破棄されたのでファンシーショップ始めました。 ― 元婚約者が、お人形さんを側室にしようとして大恥をかきました ―

鷹 綾
恋愛
隣国の王子から「政略的にも個人的にも魅力を感じない」と婚約破棄された、ファンタジア王国第三女王タナー。 泣きも怒りもせず、彼女が考えたのは――「いつか王宮の庇護がなくなっても困らない生き方」だった。 まだ八歳。 それでも先を見据え、タナーは王都の片隅で小さなファンシーショップを開くことを決意する。 並ぶのは、かわいい雑貨。 そして、かわいい魔法の雑貨。 お茶を淹れてくれるクマのぬいぐるみ店員《テイデイ・バトラー》、 冷めないティーカップ、 時間になると小鳥が飛び出すアンティーク時計――。 静かに広がる評判の裏で、 かつての元婚約者は「お人形さんを側室にしようとして」赤っ恥をかくことに。 ざまぁは控えめ、日常はやさしく。 かわいいものに囲まれながら、女王は今日も穏やかにお店を開けています。 --- この文面は ✔ アルファポリス向け文字数 ✔ 女子読者に刺さるワード配置 ✔ ネタバレしすぎない ✔ ほのぼの感キープ を全部満たしています。 次は 👉 タグ案 👉 ランキング用超短縮あらすじ(100字) どちらにしますか?

勝手にしろと言われたので、勝手にさせていただきます

結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
子爵家の私は自分よりも身分の高い婚約者に、いつもいいように顎でこき使われていた。ある日、突然婚約者に呼び出されて一方的に婚約破棄を告げられてしまう。二人の婚約は家同士が決めたこと。当然受け入れられるはずもないので拒絶すると「婚約破棄は絶対する。後のことなどしるものか。お前の方で勝手にしろ」と言い切られてしまう。 いいでしょう……そこまで言うのなら、勝手にさせていただきます。 ただし、後のことはどうなっても知りませんよ? * 他サイトでも投稿 * ショートショートです。あっさり終わります

あなたのことなんて、もうどうでもいいです

もるだ
恋愛
舞踏会でレオニーに突きつけられたのは婚約破棄だった。婚約者の相手にぶつかられて派手に転んだせいで、大騒ぎになったのに……。日々の業務を押しつけられ怒鳴りつけられいいように扱われていたレオニーは限界を迎える。そして、気がつくと魔法が使えるようになっていた。 元婚約者にこき使われていたレオニーは復讐を始める。

婚約破棄を申し入れたのは、父です ― 王子様、あなたの企みはお見通しです!

みかぼう。
恋愛
公爵令嬢クラリッサ・エインズワースは、王太子ルーファスの婚約者。 幼い日に「共に国を守ろう」と誓い合ったはずの彼は、 いま、別の令嬢マリアンヌに微笑んでいた。 そして――年末の舞踏会の夜。 「――この婚約、我らエインズワース家の名において、破棄させていただきます!」 エインズワース公爵が力強く宣言した瞬間、 王国の均衡は揺らぎ始める。 誇りを捨てず、誠実を貫く娘。 政の闇に挑む父。 陰謀を暴かんと手を伸ばす宰相の子。 そして――再び立ち上がる若き王女。 ――沈黙は逃げではなく、力の証。 公爵令嬢の誇りが、王国の未来を変える。 ――荘厳で静謐な政略ロマンス。 (本作品は小説家になろうにも掲載中です)

わがままな婚約者はお嫌いらしいので婚約解消を提案してあげたのに、反応が思っていたのと違うんですが

水谷繭
恋愛
公爵令嬢のリリアーヌは、婚約者のジェラール王子を追いかけてはいつも冷たくあしらわれていた。 王子の態度に落ち込んだリリアーヌが公園を散策していると、転んで頭を打ってしまう。 数日間寝込むはめになったリリアーヌ。眠っている間に前世の記憶が流れ込み、リリアーヌは今自分がいるのは前世で読んでいたWeb漫画の世界だったことに気づく。 記憶を思い出してみると冷静になり、あれだけ執着していた王子をどうしてそこまで好きだったのかわからなくなる。 リリアーヌは王子と婚約解消して、新しい人生を歩むことを決意するが…… ◆表紙はGirly Drop様からお借りしました ◇小説家になろうにも掲載しています

『外見しか見なかったあなたへ。私はもう、選ぶ側です』

鷹 綾
恋愛
「お前のようなガキは嫌いだ」 幼く見える容姿を理由に、婚約者ライオネルから一方的に婚約を破棄された 公爵令嬢シルフィーネ・エルフィンベルク。 その夜、嫉妬に狂った伯爵令嬢に突き落とされ、 彼女は一年もの間、意識不明の重体に陥る――。 目を覚ました彼女は、大人びた美貌を手に入れていた。 だが、中身は何ひとつ変わっていない。 にもかかわらず、 かつて彼女を「幼すぎる」と切り捨てた元婚約者は態度を一変させ、 「やり直したい」とすり寄ってくる。 「見かけが変わっても、中身は同じです。 それでもあなたは、私の外見しか見ていなかったのですね?」 静かにそう告げ、シルフィーネは過去を見限る。 やがて彼女に興味を示したのは、 隣国ノルディアの王太子エドワルド。 彼が見ていたのは、美貌ではなく―― 対話し、考え、異論を述べる彼女の“在り方”だった。 これは、 外見で価値を決められた令嬢が、 「選ばれる人生」をやめ、 自分の意思で未来を選び直す物語。 静かなざまぁと、 対等な関係から始まる大人の恋。 そして―― 自分の人生を、自分の言葉で生きるための物語。 ---

婚約者の私を見捨てたあなた、もう二度と関わらないので安心して下さい

神崎 ルナ
恋愛
第三王女ロクサーヌには婚約者がいた。騎士団でも有望株のナイシス・ガラット侯爵令息。その美貌もあって人気がある彼との婚約が決められたのは幼いとき。彼には他に優先する幼なじみがいたが、政略結婚だからある程度は仕方ない、と思っていた。だが、王宮が魔導師に襲われ、魔術により天井の一部がロクサーヌへ落ちてきたとき、彼が真っ先に助けに行ったのは幼馴染だという女性だった。その後もロクサーヌのことは見えていないのか、完全にスルーして彼女を抱きかかえて去って行くナイシス。  嘘でしょう。  その後ロクサーヌは一月、目が覚めなかった。  そして目覚めたとき、おとなしやかと言われていたロクサーヌの姿はどこにもなかった。 「ガラット侯爵令息とは婚約破棄? 当然でしょう。それとね私、力が欲しいの」  もう誰かが護ってくれるなんて思わない。  ロクサーヌは力をつけてひとりで生きていこうと誓った。  だがそこへクスコ辺境伯がロクサーヌへ求婚する。 「ぜひ辺境へ来て欲しい」  ※時代考証がゆるゆるですm(__)m ご注意くださいm(__)m  総合・恋愛ランキング1位(2025.8.4)hotランキング1位(2025.8.5)になりましたΣ(・ω・ノ)ノ  ありがとうございます<(_ _)>

【完結】旦那は堂々と不倫行為をするようになったのですが離婚もさせてくれないので、王子とお父様を味方につけました

よどら文鳥
恋愛
 ルーンブレイス国の国家予算に匹敵するほどの資産を持つハイマーネ家のソフィア令嬢は、サーヴィン=アウトロ男爵と恋愛結婚をした。  ソフィアは幸せな人生を送っていけると思っていたのだが、とある日サーヴィンの不倫行為が発覚した。それも一度や二度ではなかった。  ソフィアの気持ちは既に冷めていたため離婚を切り出すも、サーヴィンは立場を理由に認めようとしない。  更にサーヴィンは第二夫妻候補としてラランカという愛人を連れてくる。  再度離婚を申し立てようとするが、ソフィアの財閥と金だけを理由にして一向に離婚を認めようとしなかった。  ソフィアは家から飛び出しピンチになるが、救世主が現れる。  後に全ての成り行きを話し、ロミオ=ルーンブレイス第一王子を味方につけ、更にソフィアの父をも味方につけた。  ソフィアが想定していなかったほどの制裁が始まる。

処理中です...