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第一話 静かな婚約破棄
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第一話 静かな婚約破棄
「――エミー・マイセン。君との婚約は、ここで解消させてもらう」
王宮の謁見室に、その言葉が落ちた瞬間、周囲の空気がわずかに揺れた。
けれど、当の本人であるエミーは、微動だにしなかった。
深紅の絨毯の上にまっすぐ立ち、背筋を伸ばしたまま、王太子アントナン・ドームを見つめる。驚きも、怒りも、悲しみも浮かばないその表情に、むしろ周囲の貴族たちのほうが戸惑いを隠せずにいた。
――泣かないのか。
――取り乱さないのか。
そんな無言の視線が、四方から突き刺さる。
「理由は、もう理解しているだろう?」
アントナンは、どこか得意げにそう続けた。隣には、白い衣をまとった少女が控えている。平民出身の“聖女”――フロンだ。彼女は不安げにアントナンの袖を掴み、か細い声で囁く。
「殿下……エミー様に、あまり酷い言い方をしないでください……」
その仕草は、いかにも“か弱く心優しい聖女”を演じていた。
エミーは一度だけ、フロンに視線を向けた。そこに浮かんだのは、嫌悪でも嫉妬でもない。ただの、静かな観察だった。
(……この方が、殿下の言う“奇跡”なのね)
フロンの存在が公にされたのは、ほんの数か月前だ。神殿で祈ったところ光が降り注いだ、病人が回復した、干ばつが和らいだ――そうした噂が、いつの間にか“聖女の奇跡”として語られるようになっていた。
だが、そのどれもが、エミーの目には曖昧だった。
「君は、堅苦しすぎるんだ」
アントナンの声が、少し強まる。
「常に規則、常に書類、常に数字。王太子妃として正しいのかもしれないが……僕が求めているのは、そういうものじゃない」
彼はフロンの肩に手を置いた。
「フロンは、愛と祈りで人を救える。神が選んだ存在だ。僕は、彼女と共に国を導きたい」
まるで演説のような言葉だった。周囲の貴族たちの中には、感嘆の息を漏らす者もいる。
エミーは、ゆっくりと一つ息を吐いた。
「……なるほど」
その声は驚くほど落ち着いていた。
「つまり、私では役不足、ということですね」
「そういうことだ」
即答だった。
その瞬間、エミーは確信する。――もう、この人は何も見ていない。
王太子としての政務、貴族たちとの調整、外交文書の管理、予算の再配分。これまで彼が「自分の手腕」だと誇ってきたものの大半は、エミーが裏で整えてきたものだった。
だが、今さらそれを説明する気はなかった。
「承知いたしました」
エミーは、静かに膝を折り、形式通りの礼を取る。
「王太子殿下のお考え、確かに受け取りました。婚約破棄の件、異議はございません」
ざわ、と空気が揺れる。
――あっさり認めた?
――泣いて縋ると思っていたのに?
そんな視線を背中に受けながら、エミーは続けた。
「これまでお世話になりました。王太子妃候補として関わっていた業務については、本日をもって手を引かせていただきます」
「……は?」
アントナンが、思わず声を漏らした。
「手を引く? 業務は引き継ぎが――」
「不要です」
きっぱりと、エミーは言い切った。
「私個人の裁量で行っていた補佐業務ですので、正式な役職ではございませんでした。ですから、引き継ぎの義務もございません」
それは事実だった。
王太子妃候補として“当然のように”やっていた仕事。書面上は、誰の担当にもなっていない。
アントナンは、一瞬言葉を詰まらせたが、すぐに鼻で笑った。
「……そうか。なら、問題ないな。君がいなくても、国は回る」
「ええ。殿下がおっしゃる通りです」
エミーは、微笑んだ。
それは、皮肉でも挑発でもない。ただの、区切りの表情だった。
こうして、エミー・マイセンは王宮を去ることになった。
その背中を、誰も引き止めなかった。
ただ一人――謁見室の奥、柱の影に立つ青年だけが、静かにその姿を見つめていた。
冷たい灰色の瞳。無駄のない黒衣。隣国の宰相、ガイスト。
(……なるほど)
彼は、心の中で小さく呟く。
(あの王太子は、宝石を捨てて、石ころを抱いたわけだ)
エミーが扉を出ていく音が、謁見室に静かに響いた。
その音は、やがて訪れる崩壊の、最初の合図でもあった。
「――エミー・マイセン。君との婚約は、ここで解消させてもらう」
王宮の謁見室に、その言葉が落ちた瞬間、周囲の空気がわずかに揺れた。
けれど、当の本人であるエミーは、微動だにしなかった。
深紅の絨毯の上にまっすぐ立ち、背筋を伸ばしたまま、王太子アントナン・ドームを見つめる。驚きも、怒りも、悲しみも浮かばないその表情に、むしろ周囲の貴族たちのほうが戸惑いを隠せずにいた。
――泣かないのか。
――取り乱さないのか。
そんな無言の視線が、四方から突き刺さる。
「理由は、もう理解しているだろう?」
アントナンは、どこか得意げにそう続けた。隣には、白い衣をまとった少女が控えている。平民出身の“聖女”――フロンだ。彼女は不安げにアントナンの袖を掴み、か細い声で囁く。
「殿下……エミー様に、あまり酷い言い方をしないでください……」
その仕草は、いかにも“か弱く心優しい聖女”を演じていた。
エミーは一度だけ、フロンに視線を向けた。そこに浮かんだのは、嫌悪でも嫉妬でもない。ただの、静かな観察だった。
(……この方が、殿下の言う“奇跡”なのね)
フロンの存在が公にされたのは、ほんの数か月前だ。神殿で祈ったところ光が降り注いだ、病人が回復した、干ばつが和らいだ――そうした噂が、いつの間にか“聖女の奇跡”として語られるようになっていた。
だが、そのどれもが、エミーの目には曖昧だった。
「君は、堅苦しすぎるんだ」
アントナンの声が、少し強まる。
「常に規則、常に書類、常に数字。王太子妃として正しいのかもしれないが……僕が求めているのは、そういうものじゃない」
彼はフロンの肩に手を置いた。
「フロンは、愛と祈りで人を救える。神が選んだ存在だ。僕は、彼女と共に国を導きたい」
まるで演説のような言葉だった。周囲の貴族たちの中には、感嘆の息を漏らす者もいる。
エミーは、ゆっくりと一つ息を吐いた。
「……なるほど」
その声は驚くほど落ち着いていた。
「つまり、私では役不足、ということですね」
「そういうことだ」
即答だった。
その瞬間、エミーは確信する。――もう、この人は何も見ていない。
王太子としての政務、貴族たちとの調整、外交文書の管理、予算の再配分。これまで彼が「自分の手腕」だと誇ってきたものの大半は、エミーが裏で整えてきたものだった。
だが、今さらそれを説明する気はなかった。
「承知いたしました」
エミーは、静かに膝を折り、形式通りの礼を取る。
「王太子殿下のお考え、確かに受け取りました。婚約破棄の件、異議はございません」
ざわ、と空気が揺れる。
――あっさり認めた?
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「これまでお世話になりました。王太子妃候補として関わっていた業務については、本日をもって手を引かせていただきます」
「……は?」
アントナンが、思わず声を漏らした。
「手を引く? 業務は引き継ぎが――」
「不要です」
きっぱりと、エミーは言い切った。
「私個人の裁量で行っていた補佐業務ですので、正式な役職ではございませんでした。ですから、引き継ぎの義務もございません」
それは事実だった。
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「……そうか。なら、問題ないな。君がいなくても、国は回る」
「ええ。殿下がおっしゃる通りです」
エミーは、微笑んだ。
それは、皮肉でも挑発でもない。ただの、区切りの表情だった。
こうして、エミー・マイセンは王宮を去ることになった。
その背中を、誰も引き止めなかった。
ただ一人――謁見室の奥、柱の影に立つ青年だけが、静かにその姿を見つめていた。
冷たい灰色の瞳。無駄のない黒衣。隣国の宰相、ガイスト。
(……なるほど)
彼は、心の中で小さく呟く。
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