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第二話 噂と沈黙のあいだ
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第二話 噂と沈黙のあいだ
エミー・マイセンが王宮を去ったその日の午後、王都は目に見えない波紋に包まれていた。
謁見室で起きた出来事は、正式な発表がなされるよりも早く、貴族たちの噂話として広がっていく。舞踏会の控室、サロン、馬車の中、果ては仕立屋の待合室に至るまで――どこでも同じ話題が囁かれていた。
「聞いた? マイセン公爵令嬢、婚約破棄ですって」 「まあ……やはり聖女様の存在が決め手だったのね」 「でも、あの方……ずいぶんあっさり引き下がったそうじゃない?」
多くの者は、内心で首を傾げていた。
王太子妃の座を失う。それは貴族令嬢にとって、人生そのものを否定されるに等しい。泣き崩れ、縋り、時には取り乱す者すらいる。なのに、エミーはただ礼をして去ったという。
「……負けを悟ったのよ」 「地味な方でしたものね。華やかさが足りなかった」 「最初から、殿下とは釣り合っていなかったのかも」
そんな言葉が、何の悪意もない顔で交わされる。
エミーは知らない。――否、知ろうとしなかった。
彼女はその頃、すでにマイセン家の屋敷に戻っていた。王宮から支給されていた馬車ではなく、自家の質素なものに乗り換え、余計な荷物も持たずに。
自室に入ると、エミーはゆっくりと扉を閉めた。
静寂。
外から聞こえるのは、庭の噴水の音と、遠くで鳴く鳥の声だけだ。
「……終わったのね」
誰に向けたでもない呟きが、部屋に溶ける。
胸が痛まないわけではない。十年以上、王太子妃として生きる未来を想定し、努力してきた。それが一瞬で白紙になるのだ。虚しさがないと言えば嘘になる。
だが――涙は出なかった。
むしろ、肩の力が抜けていく感覚があった。
エミーは椅子に腰掛け、机の上に積まれた書類に目を向ける。それは、王宮から持ち帰ったものではない。もともと彼女個人が管理していた、写しや覚え書きだ。
外交交渉の経過。
予算案の試算。
貴族間の利害関係を整理した一覧。
(……もう、これは必要ないわね)
彼女は一枚一枚を手に取り、確認するように眺めたあと、丁寧に箱へと仕舞っていく。
それらは、誰にも命じられた仕事ではなかった。
王太子アントナンが「わかりやすく説明してほしい」と言ったから。
「全体像を掴みたい」と言ったから。
ただそれだけの理由で、エミーは整え続けてきた。
だが、彼はそれを当然のように受け取り、いつしか“自分の手柄”だと思い込んでいたのだろう。
――それでも、構わなかった。
評価されなくても、役に立てているのなら、それで良かった。
だが今は違う。
「私がいなくても、国は回る……そう、おっしゃったものね」
エミーは、かすかに口元を緩めた。
ならば、それでいい。
一方その頃、王宮では早くも小さな綻びが生じていた。
「……この数字、おかしくないか?」
政務室で、若い文官が困惑した声を上げる。
「昨日まで合っていたはずだが……」 「どこで計算を間違えたんだ?」
机の上には、軍備拡張に関する予算案が広げられている。本来なら、すでに王太子の承認を得て、次の工程に進んでいるはずの案件だった。
「エミー様が……いえ、マイセン公爵令嬢がいらっしゃった頃は、こういうことはなかったのに」
誰かが、ぽつりと呟いた。
その場にいた文官たちは、はっとして口を噤む。
――いけない。
――もう、彼女はいない。
だが、現実は容赦なかった。
別の机では、外交文書の翻訳に手間取っている者がいる。これまでエミーが自然に補足していた注釈がなく、意味を取り違えかけていたのだ。
「……とりあえず、殿下にお伺いを」 「いや、殿下は今、聖女様と面会中だ」
その言葉に、空気が微妙に沈む。
アントナンは、この数日で明らかに政務への関心を失っていた。フロンの祈りに立ち会い、神殿を訪れ、民衆の歓声を浴びる――それが彼にとって、何よりも重要になっている。
「細かいことは、後でいいだろう」
そう言って、机の上の書類を後回しにする姿が、何度も目撃されていた。
夜。
王都の一角にある静かな館で、ガイストは一人、報告書に目を通していた。
「……予算の遅延。外交文書の停滞。貴族間の調整が未処理……」
淡々と読み上げながら、彼は小さく息を吐く。
「早すぎるな」
エミーが去って、まだ一日も経っていない。それでも、すでに歯車は狂い始めている。
彼は、昼間に見たあの背中を思い出す。
泣きもせず、縋りもせず、静かに王宮を出ていった令嬢。
(……あれほどの女を、よくも簡単に切り捨てたものだ)
ガイストは、書類を閉じた。
「いずれ、向こうから気づくだろう」
だが、そのときにはもう遅い。
エミー・マイセンは沈黙している。
それは、敗北の沈黙ではない。
嵐の前の、静けさだった。
エミー・マイセンが王宮を去ったその日の午後、王都は目に見えない波紋に包まれていた。
謁見室で起きた出来事は、正式な発表がなされるよりも早く、貴族たちの噂話として広がっていく。舞踏会の控室、サロン、馬車の中、果ては仕立屋の待合室に至るまで――どこでも同じ話題が囁かれていた。
「聞いた? マイセン公爵令嬢、婚約破棄ですって」 「まあ……やはり聖女様の存在が決め手だったのね」 「でも、あの方……ずいぶんあっさり引き下がったそうじゃない?」
多くの者は、内心で首を傾げていた。
王太子妃の座を失う。それは貴族令嬢にとって、人生そのものを否定されるに等しい。泣き崩れ、縋り、時には取り乱す者すらいる。なのに、エミーはただ礼をして去ったという。
「……負けを悟ったのよ」 「地味な方でしたものね。華やかさが足りなかった」 「最初から、殿下とは釣り合っていなかったのかも」
そんな言葉が、何の悪意もない顔で交わされる。
エミーは知らない。――否、知ろうとしなかった。
彼女はその頃、すでにマイセン家の屋敷に戻っていた。王宮から支給されていた馬車ではなく、自家の質素なものに乗り換え、余計な荷物も持たずに。
自室に入ると、エミーはゆっくりと扉を閉めた。
静寂。
外から聞こえるのは、庭の噴水の音と、遠くで鳴く鳥の声だけだ。
「……終わったのね」
誰に向けたでもない呟きが、部屋に溶ける。
胸が痛まないわけではない。十年以上、王太子妃として生きる未来を想定し、努力してきた。それが一瞬で白紙になるのだ。虚しさがないと言えば嘘になる。
だが――涙は出なかった。
むしろ、肩の力が抜けていく感覚があった。
エミーは椅子に腰掛け、机の上に積まれた書類に目を向ける。それは、王宮から持ち帰ったものではない。もともと彼女個人が管理していた、写しや覚え書きだ。
外交交渉の経過。
予算案の試算。
貴族間の利害関係を整理した一覧。
(……もう、これは必要ないわね)
彼女は一枚一枚を手に取り、確認するように眺めたあと、丁寧に箱へと仕舞っていく。
それらは、誰にも命じられた仕事ではなかった。
王太子アントナンが「わかりやすく説明してほしい」と言ったから。
「全体像を掴みたい」と言ったから。
ただそれだけの理由で、エミーは整え続けてきた。
だが、彼はそれを当然のように受け取り、いつしか“自分の手柄”だと思い込んでいたのだろう。
――それでも、構わなかった。
評価されなくても、役に立てているのなら、それで良かった。
だが今は違う。
「私がいなくても、国は回る……そう、おっしゃったものね」
エミーは、かすかに口元を緩めた。
ならば、それでいい。
一方その頃、王宮では早くも小さな綻びが生じていた。
「……この数字、おかしくないか?」
政務室で、若い文官が困惑した声を上げる。
「昨日まで合っていたはずだが……」 「どこで計算を間違えたんだ?」
机の上には、軍備拡張に関する予算案が広げられている。本来なら、すでに王太子の承認を得て、次の工程に進んでいるはずの案件だった。
「エミー様が……いえ、マイセン公爵令嬢がいらっしゃった頃は、こういうことはなかったのに」
誰かが、ぽつりと呟いた。
その場にいた文官たちは、はっとして口を噤む。
――いけない。
――もう、彼女はいない。
だが、現実は容赦なかった。
別の机では、外交文書の翻訳に手間取っている者がいる。これまでエミーが自然に補足していた注釈がなく、意味を取り違えかけていたのだ。
「……とりあえず、殿下にお伺いを」 「いや、殿下は今、聖女様と面会中だ」
その言葉に、空気が微妙に沈む。
アントナンは、この数日で明らかに政務への関心を失っていた。フロンの祈りに立ち会い、神殿を訪れ、民衆の歓声を浴びる――それが彼にとって、何よりも重要になっている。
「細かいことは、後でいいだろう」
そう言って、机の上の書類を後回しにする姿が、何度も目撃されていた。
夜。
王都の一角にある静かな館で、ガイストは一人、報告書に目を通していた。
「……予算の遅延。外交文書の停滞。貴族間の調整が未処理……」
淡々と読み上げながら、彼は小さく息を吐く。
「早すぎるな」
エミーが去って、まだ一日も経っていない。それでも、すでに歯車は狂い始めている。
彼は、昼間に見たあの背中を思い出す。
泣きもせず、縋りもせず、静かに王宮を出ていった令嬢。
(……あれほどの女を、よくも簡単に切り捨てたものだ)
ガイストは、書類を閉じた。
「いずれ、向こうから気づくだろう」
だが、そのときにはもう遅い。
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それは、敗北の沈黙ではない。
嵐の前の、静けさだった。
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