婚約破棄されて去ったら、私がいなくても世界は回り始めました

鷹 綾

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第五話 去る背と、見る者

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第五話 去る背と、見る者

 

 王宮を去る日、エミー・マイセンは振り返らなかった。

 それは誇りでも、強がりでもない。ただ――終わった場所に、もう視線を向ける理由がなかっただけだ。

 

 王宮の裏門は、いつも静かだ。

 正門のような華やかさも、衛兵の厳重な警備もない。貴族が公式に出入りすることはほとんどなく、使用されるのは荷馬車か、目立たずに去りたい者くらいだった。

 エミーは、その裏門を一人で歩いていた。

 同行の侍女もいない。
 見送りの言葉もない。

 手に持つのは、小さな鞄ひとつだけ。中に入っているのは、衣類と、私物の書き付け数冊。王宮での役目を象徴するようなものは、何ひとつ持ち出していなかった。

「……思ったより、あっけないものね」

 誰に聞かせるでもなく、呟く。

 長い年月を過ごしたはずの場所が、こうして簡単に背後へ遠ざかっていく。その事実に、わずかな違和感はあったが、寂しさはなかった。

 それよりも、胸の奥にあるのは――解放感だった。

 

 裏門の前で、馬車が待っている。

 マイセン家の紋章が控えめに刻まれた、質素な車だ。

 御者が帽子を取り、静かに頭を下げる。

「お嬢様、ご用意できております」

「ありがとう」

 エミーは短く応じ、馬車に乗り込んだ。

 扉が閉まる音が、乾いた響きを立てる。

 その瞬間、王宮との繋がりが、完全に断たれた。

 

 

 ――だが、その去り際を、誰も見ていなかったわけではない。

 

 王宮の回廊、その奥まった柱の影に、一人の男が立っていた。

 ガイスト。

 隣国の宰相にして、冷静沈着、感情を表に出さないことで知られる男だ。

 彼は、裏門へ向かうエミーの姿を、最初から最後まで見届けていた。

(……やはり、だな)

 心の中で、短くそう呟く。

 彼女は、泣かなかった。
 立ち止まらなかった。
 誰かに縋ることも、未練を見せることもなかった。

 まるで、最初から“去る準備”ができていたかのように。

(いや……準備していたのは、周囲のほうか)

 彼女を失う準備を、誰もしていなかった。

 それだけのことだ。

 

 ガイストは、王宮の中を静かに見回す。

 政務棟からは、まだ明かりが消えていない。文官たちが遅くまで残り、帳尻合わせに追われているのだろう。

 中庭では、聖女フロンの名を称える歌が、かすかに聞こえてくる。

 光と喧騒。
 熱狂と期待。

 その中心に、アントナン・ドームがいる。

(……対照的だ)

 去る者は静かで、
 残る者は騒がしい。

 どちらが“重い存在”だったのかは、考えるまでもない。

 

 

 一方、馬車の中。

 エミーは、膝の上に手を重ね、窓の外を眺めていた。

 王宮の白い壁が、ゆっくりと遠ざかっていく。

 これまで、何度もこの道を通った。
 そのたびに、次はどんな政務が待っているか、頭の中で段取りを組んでいた。

 だが、今日は違う。

(……考えなくて、いいのね)

 胸の奥で、ふっと力が抜ける。

 王太子妃候補としての責務。
 期待。
 無言の圧力。

 それらが、一斉に消えた。

 失ったものは、確かにある。
 だが、それ以上に――背負わされていたものが、あまりにも多かった。

 エミーは、目を閉じた。

 これから先のことは、まだ決めていない。

 だが、少なくとも一つだけ、はっきりしていることがあった。

(もう、“役に立つためだけ”に生きる必要はない)

 

 

 その夜、隣国の館。

 ガイストは、自室の机に向かい、一枚の書簡を手に取っていた。

 白紙。

 まだ、何も書かれていない。

 彼は、しばらくその紙を見つめたまま、動かなかった。

 ――今、動くべきか。
 ――それとも、もう少し様子を見るべきか。

 彼の立場上、他国の元王太子妃候補に接触することは、政治的に意味を持つ。

 だが同時に、あの女は――

「……埋もれさせるには、惜しすぎる」

 ガイストは、静かにペンを取った。

 まだ、宛名は書かない。

 ただ、心の中で決める。

 近いうちに、必ず会う。
 王宮を去ったその選択が、
 “誤りではなかった”と示すために。

 

 

 同じ頃、王宮では、誰も気づいていなかった。

 その日、正式に滞留案件として記録された書類の数が、
 過去一年で、最も多かったことを。

 エミー・マイセンの不在が、
 ただの人事ではなかったと、
 数字が静かに語り始めていることを。

 

 ――静かな背中が去り、
 国は、ゆっくりと崩れ始めていた。
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