7 / 40
第七話 広がる違和感
しおりを挟む
第七話 広がる違和感
王都の朝は、いつもより遅く始まった。
夜遅くまで灯っていた政務棟の明かりが、ようやく消えたのは夜明け前だったという。徹夜で書類と向き合った文官たちは、疲労を隠しきれない顔で出勤してくる。
「……昨日の件、結局どうなった?」 「仮の返答だけは送ったが、内容はかなり曖昧だ」
「それで通ると思うのか?」 「通らせるしかないだろう……」
会話の端々に、焦りと諦めが滲んでいた。
これまで、こうした“曖昧な返答”は許されなかった。
なぜなら、曖昧な部分を補足し、誤解が生じないよう先回りしていた人物がいたからだ。
だが今、その役割を担う者はいない。
文官の一人が、ぽつりと呟いた。
「……前なら、マイセン公爵令嬢が――」
その名が出た瞬間、周囲の空気が一瞬だけ凍る。
「……今は、その話はするな」 「そうだ。もう、殿下のご判断だ」
そう言いながらも、誰一人として彼女の名を否定しなかった。
同じ頃、王宮の中庭では、聖女フロンの次の祈祷に向けた準備が進められていた。
白い布が張られ、花が飾られ、楽師たちが配置につく。
すべては“聖女の奇跡”を、より美しく見せるためだ。
「……こんなに、必要でしょうか」
フロンは、控えめにそう呟いた。
「民の期待に応えるためです」
神官が即答する。
「聖女様は、国の希望。相応しい舞台が必要なのです」
その言葉に、フロンはそれ以上何も言えなかった。
だが、胸の奥には、言いようのない不安が膨らんでいく。
(……私、そんな存在なのかしら)
奇跡は、起きるときもある。
起きないときもある。
それを、自分の力だと言い切る勇気は、フロンにはなかった。
昼前。
王太子アントナン・ドームは、側近からの報告を受けていた。
「交易協定の件ですが、先方から再度の照会が……」
「……同じ返答を送っておけ」
即答だった。
「今は、余計な波風を立てるべきではない」
「しかし、内容が曖昧なままでは――」
「いいと言っている」
アントナンの声に、苛立ちが混じる。
「些細なことだ。国が傾くわけでもあるまい」
側近は、口を閉ざした。
――殿下は、本気でそう思っている。
数字も、期限も、積み重なった結果も、彼の視界には入っていない。
一方、マイセン家の屋敷。
エミーは、久しぶりに訪れた裁縫師と向き合っていた。
「……こちらのドレス、少し丈を短くできますか?」
「承知しました、お嬢様」
それは、社交用というより、日常向けの簡素な服だった。
王太子妃候補としての立場があった頃は、常に“見せるための装い”が求められていた。だが今は、実用性を優先できる。
「楽ですね」
何気なく漏れた一言に、侍女が微笑む。
「表情も、柔らかくなられました」
「……そう?」
エミーは少し驚いたように目を瞬かせた。
自分では、変わったつもりはなかった。
だが、確かに胸の奥にあった緊張は、いつの間にか消えている。
午後。
王都の貴族サロンでは、噂話が新しい段階に入っていた。
「最近、殿下の政務が滞っているそうよ」 「ええ、外交関係で小さな問題が出ているとか」
「……それ、マイセン公爵令嬢がいなくなってからよね?」
囁き声。
最初は、誰もが偶然だと思っていた。
だが、重なり始めると、人は因果関係を疑う。
「彼女、そんなに有能だったの?」 「地味だったから、気づかなかっただけかも……」
評価は、静かに書き換えられていく。
夕刻。
ガイストは、隣国の会議室で報告を受けていた。
「王国側の返答は、相変わらず要点を欠いています」
「……そうか」
彼は、机に指を置いたまま、静かに頷く。
「向こうは、まだ原因に気づいていない」
「マイセン公爵令嬢の不在を、ですか」
「正確には――“誰が支えていたのか”に、だ」
ガイストは、視線を上げた。
「人は、失って初めて、重さを知る」
夜。
王宮の回廊を歩くアントナンは、ふと立ち止まった。
以前なら、隣にエミーがいて、次の予定を静かに告げていただろう。
だが今、隣は空いている。
(……いなくても、問題ない)
そう自分に言い聞かせる。
だが、胸の奥に、説明できない違和感が残る。
同じ夜、エミーは窓辺に立ち、星空を見上げていた。
遠くで、何かが軋む音がする。
それは、彼女の知らないところで、
世界が少しずつ形を変えている音だった。
――まだ、誰も確信していない。
だが、違和感は確実に広がっている。
王国は今、
“失ったものの正体”に、近づき始めていた。
王都の朝は、いつもより遅く始まった。
夜遅くまで灯っていた政務棟の明かりが、ようやく消えたのは夜明け前だったという。徹夜で書類と向き合った文官たちは、疲労を隠しきれない顔で出勤してくる。
「……昨日の件、結局どうなった?」 「仮の返答だけは送ったが、内容はかなり曖昧だ」
「それで通ると思うのか?」 「通らせるしかないだろう……」
会話の端々に、焦りと諦めが滲んでいた。
これまで、こうした“曖昧な返答”は許されなかった。
なぜなら、曖昧な部分を補足し、誤解が生じないよう先回りしていた人物がいたからだ。
だが今、その役割を担う者はいない。
文官の一人が、ぽつりと呟いた。
「……前なら、マイセン公爵令嬢が――」
その名が出た瞬間、周囲の空気が一瞬だけ凍る。
「……今は、その話はするな」 「そうだ。もう、殿下のご判断だ」
そう言いながらも、誰一人として彼女の名を否定しなかった。
同じ頃、王宮の中庭では、聖女フロンの次の祈祷に向けた準備が進められていた。
白い布が張られ、花が飾られ、楽師たちが配置につく。
すべては“聖女の奇跡”を、より美しく見せるためだ。
「……こんなに、必要でしょうか」
フロンは、控えめにそう呟いた。
「民の期待に応えるためです」
神官が即答する。
「聖女様は、国の希望。相応しい舞台が必要なのです」
その言葉に、フロンはそれ以上何も言えなかった。
だが、胸の奥には、言いようのない不安が膨らんでいく。
(……私、そんな存在なのかしら)
奇跡は、起きるときもある。
起きないときもある。
それを、自分の力だと言い切る勇気は、フロンにはなかった。
昼前。
王太子アントナン・ドームは、側近からの報告を受けていた。
「交易協定の件ですが、先方から再度の照会が……」
「……同じ返答を送っておけ」
即答だった。
「今は、余計な波風を立てるべきではない」
「しかし、内容が曖昧なままでは――」
「いいと言っている」
アントナンの声に、苛立ちが混じる。
「些細なことだ。国が傾くわけでもあるまい」
側近は、口を閉ざした。
――殿下は、本気でそう思っている。
数字も、期限も、積み重なった結果も、彼の視界には入っていない。
一方、マイセン家の屋敷。
エミーは、久しぶりに訪れた裁縫師と向き合っていた。
「……こちらのドレス、少し丈を短くできますか?」
「承知しました、お嬢様」
それは、社交用というより、日常向けの簡素な服だった。
王太子妃候補としての立場があった頃は、常に“見せるための装い”が求められていた。だが今は、実用性を優先できる。
「楽ですね」
何気なく漏れた一言に、侍女が微笑む。
「表情も、柔らかくなられました」
「……そう?」
エミーは少し驚いたように目を瞬かせた。
自分では、変わったつもりはなかった。
だが、確かに胸の奥にあった緊張は、いつの間にか消えている。
午後。
王都の貴族サロンでは、噂話が新しい段階に入っていた。
「最近、殿下の政務が滞っているそうよ」 「ええ、外交関係で小さな問題が出ているとか」
「……それ、マイセン公爵令嬢がいなくなってからよね?」
囁き声。
最初は、誰もが偶然だと思っていた。
だが、重なり始めると、人は因果関係を疑う。
「彼女、そんなに有能だったの?」 「地味だったから、気づかなかっただけかも……」
評価は、静かに書き換えられていく。
夕刻。
ガイストは、隣国の会議室で報告を受けていた。
「王国側の返答は、相変わらず要点を欠いています」
「……そうか」
彼は、机に指を置いたまま、静かに頷く。
「向こうは、まだ原因に気づいていない」
「マイセン公爵令嬢の不在を、ですか」
「正確には――“誰が支えていたのか”に、だ」
ガイストは、視線を上げた。
「人は、失って初めて、重さを知る」
夜。
王宮の回廊を歩くアントナンは、ふと立ち止まった。
以前なら、隣にエミーがいて、次の予定を静かに告げていただろう。
だが今、隣は空いている。
(……いなくても、問題ない)
そう自分に言い聞かせる。
だが、胸の奥に、説明できない違和感が残る。
同じ夜、エミーは窓辺に立ち、星空を見上げていた。
遠くで、何かが軋む音がする。
それは、彼女の知らないところで、
世界が少しずつ形を変えている音だった。
――まだ、誰も確信していない。
だが、違和感は確実に広がっている。
王国は今、
“失ったものの正体”に、近づき始めていた。
22
あなたにおすすめの小説
手作りお菓子をゴミ箱に捨てられた私は、自棄を起こしてとんでもない相手と婚約したのですが、私も含めたみんな変になっていたようです
珠宮さくら
恋愛
アンゼリカ・クリットの生まれた国には、不思議な習慣があった。だから、アンゼリカは必死になって頑張って馴染もうとした。
でも、アンゼリカではそれが難しすぎた。それでも、頑張り続けた結果、みんなに喜ばれる才能を開花させたはずなのにどうにもおかしな方向に突き進むことになった。
加えて好きになった人が最低野郎だとわかり、自棄を起こして婚約した子息も最低だったりとアンゼリカの周りは、最悪が溢れていたようだ。
居候と婚約者が手を組んでいた!
すみ 小桜(sumitan)
恋愛
グリンマトル伯爵家の一人娘のレネットは、前世の記憶を持っていた。前世は体が弱く入院しそのまま亡くなった。その為、病気に苦しむ人を助けたいと思い薬師になる事に。幸いの事に、家業は薬師だったので、いざ学校へ。本来は17歳から通う学校へ7歳から行く事に。ほらそこは、転生者だから!
って、王都の学校だったので寮生活で、数年後に帰ってみると居候がいるではないですか!
父親の妹家族のウルミーシュ子爵家だった。同じ年の従姉妹アンナがこれまたわがまま。
アンアの母親で父親の妹のエルダがこれまたくせ者で。
最悪な事態が起き、レネットの思い描いていた未来は消え去った。家族と末永く幸せと願った未来が――。
冷酷侯爵と政略結婚したら、実家がざまぁされました
鍛高譚
恋愛
「この結婚は、家のため。ただの政略結婚よ」
そう言い聞かせ、愛のない結婚を受け入れた公爵令嬢リゼット。
しかし、挙式後すぐに父が「婚約破棄しろ」と命じてきた!?
だが、夫であるアレクシス・フォン・シュヴァルツ侯爵は冷たく言い放つ。
「彼女を渡すつもりはない」
冷酷無慈悲と噂される侯爵が、なぜかリゼットを溺愛し始める!?
毎日甘やかされ、守られ、気づけば逃げ場なし!
さらに、父の不正が明るみに出て、公爵家は失墜――
リゼットを道具として利用しようとした者たちに、ざまぁの鉄槌が下される!
政略結婚から始まる、甘々溺愛ラブストーリー!
「愛なんてないはずなのに……どうしてこんなに大切にされるの?」
【完結】義妹(ヒロイン)の邪魔をすることに致します
凛 伊緒
恋愛
伯爵令嬢へレア・セルティラス、15歳の彼女には1つ下の妹が出来た。その妹は義妹であり、伯爵家現当主たる父が養子にした元平民だったのだ。
自分は『ヒロイン』だと言い出し、王族や有力者などに近付く義妹。さらにはへレアが尊敬している公爵令嬢メリーア・シェルラートを『悪役令嬢』と呼ぶ始末。
このままではメリーアが義妹に陥れられると知ったへレアは、計画の全てを阻止していく──
─義妹が異なる世界からの転生者だと知った、元から『乙女ゲーム』の世界にいる人物側の物語─
編み物好き地味令嬢はお荷物として幼女化されましたが、えっ?これ魔法陣なんですか?
灯息めてら
恋愛
編み物しか芸がないと言われた地味令嬢ニニィアネは、家族から冷遇された挙句、幼女化されて魔族の公爵に売り飛ばされてしまう。
しかし、彼女の編み物が複雑な魔法陣だと発見した公爵によって、ニニィアネの生活は一変する。しかもなんだか……溺愛されてる!?
王女様は温かいごはんが食べたい ~冷えた王宮料理を変えたら、オープンキッチンと政略婚約がついてきました~
しおしお
恋愛
異世界の王女リリアーヌは、前世の記憶を持つ転生者。
豪華絢爛な王宮で暮らし始めた彼女だったが、ひとつだけどうしても耐えられないことがあった。
――食事が、冷めているのだ。
どれほど立派な料理でも、ぬるいスープや冷めた肉ではホッとできない。
「温かいごはんが食べたい」
そのささやかな願いを口にしたことから、王宮ではなぜか大騒動が巻き起こる。
地下厨房からの高速搬送。
専用レーンを爆走するカートメイド。
扉の開閉に命をかけるオープナー。
ついには食堂に火を持ち込むオープンキッチンまで誕生して――!?
温かさは、ホッとさせてくれる。
それは料理だけではなく、人との距離まで少しずつ変えていくものだった。
冷えた王宮に湯気と笑顔を取り戻す、
食と温かさをめぐる宮廷日常コメディ!
-
【完結】魔力ゼロと捨てられた私を、王子がなぜか離してくれません ――無自覚聖女の王宮生活――
ムラサメ
恋愛
伯爵家で使用人同然に扱われてきた少女、エリナ。
魔力も才能もないとされ、義妹アリシアの影で静かに生きていた。
ある日、王国第一王子カイルの視察で運命が動き出す。
誰も気づかなかった“違和感”に、彼だけが目を留めて――。
辺境は独自路線で進みます! ~見下され搾取され続けるのは御免なので~
紫月 由良
恋愛
辺境に領地を持つマリエ・オリオール伯爵令嬢は、貴族学院の食堂で婚約者であるジョルジュ・ミラボーから婚約破棄をつきつけられた。二人の仲は険悪で修復不可能だったこともあり、マリエは快諾すると学院を早退して婚約者の家に向かい、その日のうちに婚約が破棄された。辺境=田舎者という風潮によって居心地が悪くなっていたため、これを機に学院を退学して領地に引き籠ることにした。
魔法契約によりオリオール伯爵家やフォートレル辺境伯家は国から離反できないが、関わり合いを最低限にして独自路線を歩むことに――。
※小説家になろう、カクヨムにも投稿しています
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる