婚約破棄されて去ったら、私がいなくても世界は回り始めました

鷹 綾

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第七話 広がる違和感

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第七話 広がる違和感

 

 王都の朝は、いつもより遅く始まった。

 夜遅くまで灯っていた政務棟の明かりが、ようやく消えたのは夜明け前だったという。徹夜で書類と向き合った文官たちは、疲労を隠しきれない顔で出勤してくる。

「……昨日の件、結局どうなった?」 「仮の返答だけは送ったが、内容はかなり曖昧だ」

「それで通ると思うのか?」 「通らせるしかないだろう……」

 会話の端々に、焦りと諦めが滲んでいた。

 

 これまで、こうした“曖昧な返答”は許されなかった。

 なぜなら、曖昧な部分を補足し、誤解が生じないよう先回りしていた人物がいたからだ。
 だが今、その役割を担う者はいない。

 

 文官の一人が、ぽつりと呟いた。

「……前なら、マイセン公爵令嬢が――」

 その名が出た瞬間、周囲の空気が一瞬だけ凍る。

「……今は、その話はするな」 「そうだ。もう、殿下のご判断だ」

 そう言いながらも、誰一人として彼女の名を否定しなかった。

 

 

 同じ頃、王宮の中庭では、聖女フロンの次の祈祷に向けた準備が進められていた。

 白い布が張られ、花が飾られ、楽師たちが配置につく。

 すべては“聖女の奇跡”を、より美しく見せるためだ。

「……こんなに、必要でしょうか」

 フロンは、控えめにそう呟いた。

「民の期待に応えるためです」

 神官が即答する。

「聖女様は、国の希望。相応しい舞台が必要なのです」

 その言葉に、フロンはそれ以上何も言えなかった。

 だが、胸の奥には、言いようのない不安が膨らんでいく。

(……私、そんな存在なのかしら)

 奇跡は、起きるときもある。
 起きないときもある。

 それを、自分の力だと言い切る勇気は、フロンにはなかった。

 

 

 昼前。

 王太子アントナン・ドームは、側近からの報告を受けていた。

「交易協定の件ですが、先方から再度の照会が……」

「……同じ返答を送っておけ」

 即答だった。

「今は、余計な波風を立てるべきではない」

「しかし、内容が曖昧なままでは――」

「いいと言っている」

 アントナンの声に、苛立ちが混じる。

「些細なことだ。国が傾くわけでもあるまい」

 側近は、口を閉ざした。

 ――殿下は、本気でそう思っている。

 数字も、期限も、積み重なった結果も、彼の視界には入っていない。

 

 

 一方、マイセン家の屋敷。

 エミーは、久しぶりに訪れた裁縫師と向き合っていた。

「……こちらのドレス、少し丈を短くできますか?」

「承知しました、お嬢様」

 それは、社交用というより、日常向けの簡素な服だった。

 王太子妃候補としての立場があった頃は、常に“見せるための装い”が求められていた。だが今は、実用性を優先できる。

「楽ですね」

 何気なく漏れた一言に、侍女が微笑む。

「表情も、柔らかくなられました」

「……そう?」

 エミーは少し驚いたように目を瞬かせた。

 自分では、変わったつもりはなかった。

 だが、確かに胸の奥にあった緊張は、いつの間にか消えている。

 

 

 午後。

 王都の貴族サロンでは、噂話が新しい段階に入っていた。

「最近、殿下の政務が滞っているそうよ」 「ええ、外交関係で小さな問題が出ているとか」

「……それ、マイセン公爵令嬢がいなくなってからよね?」

 囁き声。

 最初は、誰もが偶然だと思っていた。

 だが、重なり始めると、人は因果関係を疑う。

「彼女、そんなに有能だったの?」 「地味だったから、気づかなかっただけかも……」

 評価は、静かに書き換えられていく。

 

 

 夕刻。

 ガイストは、隣国の会議室で報告を受けていた。

「王国側の返答は、相変わらず要点を欠いています」

「……そうか」

 彼は、机に指を置いたまま、静かに頷く。

「向こうは、まだ原因に気づいていない」

「マイセン公爵令嬢の不在を、ですか」

「正確には――“誰が支えていたのか”に、だ」

 ガイストは、視線を上げた。

「人は、失って初めて、重さを知る」

 

 

 夜。

 王宮の回廊を歩くアントナンは、ふと立ち止まった。

 以前なら、隣にエミーがいて、次の予定を静かに告げていただろう。

 だが今、隣は空いている。

(……いなくても、問題ない)

 そう自分に言い聞かせる。

 だが、胸の奥に、説明できない違和感が残る。

 

 同じ夜、エミーは窓辺に立ち、星空を見上げていた。

 遠くで、何かが軋む音がする。

 それは、彼女の知らないところで、
 世界が少しずつ形を変えている音だった。

 

 ――まだ、誰も確信していない。

 だが、違和感は確実に広がっている。

 王国は今、
 “失ったものの正体”に、近づき始めていた。
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