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第二話 庇護という名の鎖
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第二話 庇護という名の鎖
王太子殿下との婚約が正式に発表された日、公爵邸は祝いの空気に包まれた。
庭園には白い花が飾られ、夜には盛大な晩餐会が開かれるという。侍女たちは忙しく走り回り、職人たちは新しいドレスの採寸に余念がない。
私は鏡の前に立ち、金糸の刺繍が施された淡い青のドレスに袖を通していた。
「お嬢様、本当にお似合いでございます」
侍女が目を輝かせる。
似合う。美しい。気品がある。
褒め言葉は惜しみなく注がれる。
だが、そのどれもが私自身ではなく、“公爵令嬢”という肩書きに向けられているように感じた。
祝宴の席で、父は堂々と宣言する。
「我が娘アリアは、王太子殿下の良き伴侶となるだろう」
拍手。
視線。
評価。
私は微笑みを崩さない。
だが胸の奥では、冷静な声が囁いていた。
──伴侶?
本当にそうだろうか。
翌日、王宮から招待が届いた。
王太子殿下との二度目の面会。
馬車に揺られながら、私は王都を見下ろす高台へと向かう。
整備された街道。市場の活気。穏やかな風景。
確かに、この国は豊かだ。
少なくとも、飢餓に苦しむような様子は見えない。
王宮に到着すると、殿下は庭園で待っていた。
「またお会いできて嬉しい」
柔らかな笑み。
前世の記憶を持つ私から見ても、彼は誠実に見える。
軽薄でもなく、横柄でもない。
むしろ、真面目で責任感の強い青年。
「婚約の件、急で驚いただろう」
「いいえ。公爵家の娘として当然のことです」
自然に口から出る言葉。
だが内心では思う。
当然とは、誰にとっての当然か。
殿下は少し考え込むような表情を浮かべた。
「君には苦労をかけないつもりだ。望む物は可能な限り叶えよう」
やはり優しい。
しかし続く言葉は変わらない。
「だが、私の庇護下にあることを忘れないでほしい」
庇護。
守る、という意味。
だがその裏側にあるものを、私はもう理解している。
「庇護下にある者は、口を慎み、秩序を乱さぬものだ」
殿下は穏やかに言う。
教え諭すように。
悪意はない。
本気で、それが正しいと思っている。
私は頷いた。
「承知しております」
その瞬間、自分の声が少し遠く感じた。
庇護とは、選択肢の放棄。
守られる代わりに、決定権を手放すこと。
父の庇護から、夫の庇護へ。
ただそれだけ。
庭園を歩きながら、殿下は国の未来について語った。
「この国は安定している。父上も善政を敷いている。だが隣国との緊張が高まっている」
私は黙って聞く。
「隣国は、我が国の奴隷貿易に強く反発している」
その言葉に、心がわずかに揺れる。
奴隷。
この国では合法だ。
犯罪者や戦争捕虜、借金の返済不能者。
彼らは労働力として売買される。
市場は王都の外れにあると聞いたことがある。
私は一度も見たことはない。
見せられないのだろう。
公爵令嬢は、そういう場所に足を踏み入れない。
「奴隷制度は長く続いてきた。この国の経済の一部でもある」
殿下は淡々と語る。
「急に廃止するわけにはいかない」
合理的だ。
前世の知識が告げる。
制度は簡単に壊せない。
だが同時に思う。
人を物として扱う制度が、正しいはずがない。
私は慎重に言葉を選んだ。
「隣国は、どのような思想を持っているのでしょう」
殿下は少し驚いたように私を見る。
「女性の地位も高いと聞く。奴隷制度もない」
その言葉に、胸がざわつく。
女性の地位が高い。
奴隷がいない。
この国と、まるで逆だ。
「だが、それは彼らの価値観だ」
殿下は続ける。
「我が国には我が国の秩序がある」
秩序。
その言葉が何度も繰り返される。
秩序を守るために、女性は庇護下にある。
秩序を守るために、奴隷制度は続く。
秩序を守るために、民は従う。
私は静かに息を吐く。
この国は、一見すると優しい。
だがその優しさは、枠の中だけ。
枠から出ることは許されない。
庭園の端まで歩いた時、殿下は立ち止まった。
「君は賢い。だが、あまり難しいことは考えなくていい」
優しさのつもりだろう。
だがその一言で、はっきりする。
私は相談相手ではない。
装飾品だ。
賢く、美しく、静かに微笑む存在。
「私が守る」
殿下はそう言った。
その言葉に、かすかな温かさと、冷たい現実が同時に宿る。
守られる。
だが、選べない。
帰りの馬車の中、私は窓の外を見つめる。
市場で働く人々。
荷を運ぶ男たち。
笑う子どもたち。
彼らもまた、自由だろうか。
それとも、何かの枠の中にいるのだろうか。
ふと、前世の感覚が蘇る。
会社に守られている、と言われていたあの日々。
だが実際は、縛られていた。
この世界も同じではないのか。
庇護という名の鎖。
それは金でできている。
重さに気づきにくい。
だが確実に、自由を奪っている。
私は静かに目を閉じる。
まだ反抗はしない。
まだ壊さない。
だが確実に、疑問は芽生えている。
この国の秩序は、本当に正しいのか。
そして私は、このまま“庇護下の存在”として生きるのか。
黄金の鳥籠は、今日も美しく輝いていた。
その扉が、内側から開くかもしれないことに、まだ誰も気づいていない。
王太子殿下との婚約が正式に発表された日、公爵邸は祝いの空気に包まれた。
庭園には白い花が飾られ、夜には盛大な晩餐会が開かれるという。侍女たちは忙しく走り回り、職人たちは新しいドレスの採寸に余念がない。
私は鏡の前に立ち、金糸の刺繍が施された淡い青のドレスに袖を通していた。
「お嬢様、本当にお似合いでございます」
侍女が目を輝かせる。
似合う。美しい。気品がある。
褒め言葉は惜しみなく注がれる。
だが、そのどれもが私自身ではなく、“公爵令嬢”という肩書きに向けられているように感じた。
祝宴の席で、父は堂々と宣言する。
「我が娘アリアは、王太子殿下の良き伴侶となるだろう」
拍手。
視線。
評価。
私は微笑みを崩さない。
だが胸の奥では、冷静な声が囁いていた。
──伴侶?
本当にそうだろうか。
翌日、王宮から招待が届いた。
王太子殿下との二度目の面会。
馬車に揺られながら、私は王都を見下ろす高台へと向かう。
整備された街道。市場の活気。穏やかな風景。
確かに、この国は豊かだ。
少なくとも、飢餓に苦しむような様子は見えない。
王宮に到着すると、殿下は庭園で待っていた。
「またお会いできて嬉しい」
柔らかな笑み。
前世の記憶を持つ私から見ても、彼は誠実に見える。
軽薄でもなく、横柄でもない。
むしろ、真面目で責任感の強い青年。
「婚約の件、急で驚いただろう」
「いいえ。公爵家の娘として当然のことです」
自然に口から出る言葉。
だが内心では思う。
当然とは、誰にとっての当然か。
殿下は少し考え込むような表情を浮かべた。
「君には苦労をかけないつもりだ。望む物は可能な限り叶えよう」
やはり優しい。
しかし続く言葉は変わらない。
「だが、私の庇護下にあることを忘れないでほしい」
庇護。
守る、という意味。
だがその裏側にあるものを、私はもう理解している。
「庇護下にある者は、口を慎み、秩序を乱さぬものだ」
殿下は穏やかに言う。
教え諭すように。
悪意はない。
本気で、それが正しいと思っている。
私は頷いた。
「承知しております」
その瞬間、自分の声が少し遠く感じた。
庇護とは、選択肢の放棄。
守られる代わりに、決定権を手放すこと。
父の庇護から、夫の庇護へ。
ただそれだけ。
庭園を歩きながら、殿下は国の未来について語った。
「この国は安定している。父上も善政を敷いている。だが隣国との緊張が高まっている」
私は黙って聞く。
「隣国は、我が国の奴隷貿易に強く反発している」
その言葉に、心がわずかに揺れる。
奴隷。
この国では合法だ。
犯罪者や戦争捕虜、借金の返済不能者。
彼らは労働力として売買される。
市場は王都の外れにあると聞いたことがある。
私は一度も見たことはない。
見せられないのだろう。
公爵令嬢は、そういう場所に足を踏み入れない。
「奴隷制度は長く続いてきた。この国の経済の一部でもある」
殿下は淡々と語る。
「急に廃止するわけにはいかない」
合理的だ。
前世の知識が告げる。
制度は簡単に壊せない。
だが同時に思う。
人を物として扱う制度が、正しいはずがない。
私は慎重に言葉を選んだ。
「隣国は、どのような思想を持っているのでしょう」
殿下は少し驚いたように私を見る。
「女性の地位も高いと聞く。奴隷制度もない」
その言葉に、胸がざわつく。
女性の地位が高い。
奴隷がいない。
この国と、まるで逆だ。
「だが、それは彼らの価値観だ」
殿下は続ける。
「我が国には我が国の秩序がある」
秩序。
その言葉が何度も繰り返される。
秩序を守るために、女性は庇護下にある。
秩序を守るために、奴隷制度は続く。
秩序を守るために、民は従う。
私は静かに息を吐く。
この国は、一見すると優しい。
だがその優しさは、枠の中だけ。
枠から出ることは許されない。
庭園の端まで歩いた時、殿下は立ち止まった。
「君は賢い。だが、あまり難しいことは考えなくていい」
優しさのつもりだろう。
だがその一言で、はっきりする。
私は相談相手ではない。
装飾品だ。
賢く、美しく、静かに微笑む存在。
「私が守る」
殿下はそう言った。
その言葉に、かすかな温かさと、冷たい現実が同時に宿る。
守られる。
だが、選べない。
帰りの馬車の中、私は窓の外を見つめる。
市場で働く人々。
荷を運ぶ男たち。
笑う子どもたち。
彼らもまた、自由だろうか。
それとも、何かの枠の中にいるのだろうか。
ふと、前世の感覚が蘇る。
会社に守られている、と言われていたあの日々。
だが実際は、縛られていた。
この世界も同じではないのか。
庇護という名の鎖。
それは金でできている。
重さに気づきにくい。
だが確実に、自由を奪っている。
私は静かに目を閉じる。
まだ反抗はしない。
まだ壊さない。
だが確実に、疑問は芽生えている。
この国の秩序は、本当に正しいのか。
そして私は、このまま“庇護下の存在”として生きるのか。
黄金の鳥籠は、今日も美しく輝いていた。
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