『ラノベでリアルに描いてみた。舞踏会で婚約破棄したら、その場で人生が終了した件

鷹 綾

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第3話 男爵令嬢という選択

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第3話 男爵令嬢という選択

 クラス・クラウン男爵令嬢は、王宮の回廊を進みながら、自分の足が地面についているのかどうか分からなくなる感覚を覚えていた。磨き上げられた床に映る天井画と燭台の光が、現実感を薄れさせる。ほんの少し前まで、彼女は地方男爵家の一人娘として、身の丈に合った将来を思い描いていたはずだった。それが今では、王太子イディオット・パーソーンの腕に手を掛け、王宮の大舞踏会に向かって歩いている。人生が一夜にして塗り替えられたような感覚だった。

 殿下に声をかけられた最初の日を、クラスは何度も思い返している。偶然を装った庭園での出会い。名前を呼ばれただけで、胸が熱くなった。王太子が自分を見て微笑み、話を聞き、興味を示してくれた。その事実が、彼女にとっては何よりも大きかった。ソフィ・スティ・ケイティッド公爵令嬢という正式な婚約者がいることは、当然知っていた。それでも、殿下の口から語られる言葉は、すべてを曖昧にした。

 形式だけの婚約だ。冷たい女だ。自分を理解しない。殿下はそう言った。クラスは、それを疑わなかった。疑う理由がなかったからだ。殿下が自分に向ける視線は優しく、言葉は甘い。そのすべてが真実だと信じた。信じたかったと言った方が正しいのかもしれない。男爵令嬢として生きてきた彼女にとって、王太子に選ばれるという出来事は、現実を超えた救済だった。

 舞踏会の話を聞いたとき、胸の奥にわずかな不安が生まれたのも事実だった。王宮の大舞踏会は、単なる社交の場ではない。噂話として、その重さは耳にしていた。だが、殿下は迷いなく言った。公式の場で、はっきりさせる。自分が選ぶのは君だと。その言葉は、不安を押し流すほど強かった。公式という言葉の意味を、クラスは深く考えなかった。考えれば、この幸福が壊れてしまう気がしたからだ。

 控えの間で鏡に映る自分の姿を見たとき、クラスは確信していた。今日、自分は新しい世界へ踏み出すのだと。豪奢なドレスは、男爵家の娘には不釣り合いなほどだったが、それが逆に誇らしかった。殿下の隣に立つにふさわしい姿だと、そう思いたかった。周囲の視線が痛いほど突き刺さるのを感じても、それを羨望だと解釈した。誰も祝福の言葉をかけてこない理由について、深く考えることはしなかった。

 会場に入った瞬間、空気が変わったのを、クラスははっきりと感じた。ざわめきはあるが、そこに温度がない。笑顔は浮かんでいるが、どれも形だけだ。誰も自分に近づこうとしない。誰も声をかけない。その違和感に、胸がざわついた。それでも、殿下が隣にいるという事実が、彼女を支えていた。王太子が選んだのは自分だ。その一点に、全てを賭けるしかなかった。

 音楽が止まり、殿下が前に出る。その背中を見つめながら、クラスの心臓は激しく打っていた。ここで宣言されれば、自分の立場は確定する。もう後戻りはできない。だが、それでいいと思った。後戻りなど、最初から考えていなかったからだ。殿下の声が響き渡り、婚約破棄という言葉が放たれた瞬間、頭が真っ白になる。そして、続けて自分の名前が呼ばれる。胸が熱くなり、足元が揺らいだ。

 しかし、次の瞬間、クラスは理解できない現実に直面する。拍手がない。歓声も、祝福の言葉もない。あるのは、重苦しい沈黙だけだった。殿下は平然としていたが、クラスの心には不安が膨らんでいく。なぜ誰も喜ばないのか。なぜ誰も味方をしないのか。その答えを、彼女は知らなかった。

 ソフィ・スティ・ケイティッド公爵令嬢が前に出て、静かに言葉を発する。その声には怒りも悲しみもなく、ただ事実を確認する響きだけがあった。その姿を見たとき、クラスの背筋に冷たいものが走る。泣かない。責めない。訴えない。その態度が、なぜか恐ろしかった。殿下が笑い飛ばすのを見て、クラスは必死に安心しようとする。殿下が正しい。殿下と共にいる自分が正しい。そう信じなければ、立っていられなかった。

 気がつけば、クラスは殿下の腕を強く掴んでいた。離れれば負けだと思った。ここで一歩引けば、すべてが終わる気がした。その行為が、公式の場でどのような意味を持つのかを、彼女は理解していない。ただ、殿下の隣に立ち続けることが、自分の選択であり、愛の証だと信じていた。

 クラス・クラウンは、この瞬間、自分が何を選んだのかを分かっていなかった。王太子を選んだのではない。公の場で、王太子の発言を肯定する立場に自ら立ったという事実を。沈黙していれば、中立でいられたかもしれない。距離を取れば、まだ逃げ道はあったかもしれない。だが、彼女は態度で意思を示してしまった。

 それは彼女にとって愛だった。しかし、公の場においてそれは責任だった。誰も教えてくれない。誰も止めてくれない。男爵令嬢という立場では、公式の重さを学ぶ機会など与えられてこなかったからだ。クラスはただ、選ばれたという高揚にすがり、その先に待つ現実を想像することができなかった。

 舞踏会は続いている。音楽は再び流れ、人々は表向きの社交を再開する。しかし、クラス・クラウンの中では、すでに取り返しのつかない選択が確定していた。彼女はまだ知らない。公の場での一歩が、感情では消せない痕跡として残るということを。そして、その痕跡が、自分の未来を静かに縛り始めているという事実を。
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