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第23話 差し出される名前
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第23話 差し出される名前
期限まで、あと三日。
その数字が、イディオット・パーソーンの頭から離れなくなっていた。
売れるものは、ほとんど売った。
売れないものは、最初から相手にもされなかった。
宝石箱は空になり、壁に飾られていた絵画も外された。装飾剣は王家管理の札を理由に持ち出すことすらできず、彼の部屋から「価値」と呼べるものは急速に消えていった。
だが、請求書の数字は、まだそこにある。
「……足りない……」
呟いた声は、誰にも届かない。
怒鳴る相手も、交渉する余地もない。
その日の午後、彼は一人の来客を迎えていた。
金融組合の代理人。
かつてなら、彼の前で頭を下げていた相手だ。
だが今、その立場は逆だった。
「残額についてですが」
代理人は、書類を机に置く。
「即時一括は、現実的ではありません。よって、代替案をご提示します」
イディオットは、目を上げる。
「……代替?」
「はい」
代理人は、淡々と続ける。
「担保が不足している場合、次に検討されるのは、将来的な返済能力です」
将来。
その言葉に、かすかな希望が芽生える。
「俺は……まだ王太子だ」
その一言に、代理人は否定も肯定もしなかった。
「形式上は、そうですね」
聞き慣れた言葉。
だが、続きがあった。
「しかし、信用評価において参照されるのは、形式ではありません」
代理人は、書類の一部を指で示す。
「現在の評価では、殿下個人の将来的地位は不確定とされています」
不確定。
それは、ほぼ否定と同義だ。
「よって、通常の返済計画は認められません」
イディオットは、歯を食いしばる。
「……では、どうすればいい」
代理人は、少しだけ間を置いた。
「殿下ご本人による、返済義務の明確化です」
「義務は……すでにあるだろう」
「いいえ」
静かな否定。
「保証が外れた今、殿下は“個人”です。
個人が負う債務は、明確な形で固定されなければなりません」
固定。
その言葉の意味が、ゆっくりと重くなる。
「具体的には?」
代理人は、紙を一枚、前に出した。
そこに書かれていたのは、簡潔な文言だった。
――全債務の個人債務化に同意する旨の署名。
イディオットは、息を呑む。
「……それは……」
「王太子としてではなく、イディオット・パーソーン個人としての署名です」
その瞬間、彼は理解した。
これに署名すれば、もう戻れない。
王太子という立場に逃げ込むことはできない。
すべての借金が、永続的に、個人のものになる。
「署名しなければ?」
代理人の答えは、短かった。
「即時、強制執行の準備に入ります」
選択肢は、二つしかない。
破綻するか、縛られるか。
イディオットは、震える手で書類を見つめる。
ここに至って、ようやく気づいた。
彼がこれまで使ってきた名前は、
自分自身の名前ではなかった。
王太子。
それは、制度が用意した仮の名だ。
今、差し出されているのは、
本当の名前だった。
同じ頃、ティッド公爵邸では、静かな確認が行われていた。
「個人債務化の提示、完了」
側近の報告に、ソフィ・スティ・ケイティッド公爵令嬢は頷く。
「予定通りですね」
「はい。これで、王家も公爵家も、将来の責任から切り離されます」
ソフィは、ペンを置き、窓の外を見る。
「公式は、最後に必ず個人へ戻します」
それは冷酷な言葉ではない。
制度の本質だ。
夜、イディオットは、机に向かっていた。
書類の下に置かれた羽ペンが、やけに重く感じられる。
署名すれば、生き延びる。
署名しなければ、終わる。
だが、生き延びるとは、
かつての自分を、完全に切り捨てることだった。
彼は、目を閉じる。
王太子ではない名。
ただの、一人の人間の名。
それを差し出す覚悟が、
今、問われている。
期限まで、あと三日。
期限まで、あと三日。
その数字が、イディオット・パーソーンの頭から離れなくなっていた。
売れるものは、ほとんど売った。
売れないものは、最初から相手にもされなかった。
宝石箱は空になり、壁に飾られていた絵画も外された。装飾剣は王家管理の札を理由に持ち出すことすらできず、彼の部屋から「価値」と呼べるものは急速に消えていった。
だが、請求書の数字は、まだそこにある。
「……足りない……」
呟いた声は、誰にも届かない。
怒鳴る相手も、交渉する余地もない。
その日の午後、彼は一人の来客を迎えていた。
金融組合の代理人。
かつてなら、彼の前で頭を下げていた相手だ。
だが今、その立場は逆だった。
「残額についてですが」
代理人は、書類を机に置く。
「即時一括は、現実的ではありません。よって、代替案をご提示します」
イディオットは、目を上げる。
「……代替?」
「はい」
代理人は、淡々と続ける。
「担保が不足している場合、次に検討されるのは、将来的な返済能力です」
将来。
その言葉に、かすかな希望が芽生える。
「俺は……まだ王太子だ」
その一言に、代理人は否定も肯定もしなかった。
「形式上は、そうですね」
聞き慣れた言葉。
だが、続きがあった。
「しかし、信用評価において参照されるのは、形式ではありません」
代理人は、書類の一部を指で示す。
「現在の評価では、殿下個人の将来的地位は不確定とされています」
不確定。
それは、ほぼ否定と同義だ。
「よって、通常の返済計画は認められません」
イディオットは、歯を食いしばる。
「……では、どうすればいい」
代理人は、少しだけ間を置いた。
「殿下ご本人による、返済義務の明確化です」
「義務は……すでにあるだろう」
「いいえ」
静かな否定。
「保証が外れた今、殿下は“個人”です。
個人が負う債務は、明確な形で固定されなければなりません」
固定。
その言葉の意味が、ゆっくりと重くなる。
「具体的には?」
代理人は、紙を一枚、前に出した。
そこに書かれていたのは、簡潔な文言だった。
――全債務の個人債務化に同意する旨の署名。
イディオットは、息を呑む。
「……それは……」
「王太子としてではなく、イディオット・パーソーン個人としての署名です」
その瞬間、彼は理解した。
これに署名すれば、もう戻れない。
王太子という立場に逃げ込むことはできない。
すべての借金が、永続的に、個人のものになる。
「署名しなければ?」
代理人の答えは、短かった。
「即時、強制執行の準備に入ります」
選択肢は、二つしかない。
破綻するか、縛られるか。
イディオットは、震える手で書類を見つめる。
ここに至って、ようやく気づいた。
彼がこれまで使ってきた名前は、
自分自身の名前ではなかった。
王太子。
それは、制度が用意した仮の名だ。
今、差し出されているのは、
本当の名前だった。
同じ頃、ティッド公爵邸では、静かな確認が行われていた。
「個人債務化の提示、完了」
側近の報告に、ソフィ・スティ・ケイティッド公爵令嬢は頷く。
「予定通りですね」
「はい。これで、王家も公爵家も、将来の責任から切り離されます」
ソフィは、ペンを置き、窓の外を見る。
「公式は、最後に必ず個人へ戻します」
それは冷酷な言葉ではない。
制度の本質だ。
夜、イディオットは、机に向かっていた。
書類の下に置かれた羽ペンが、やけに重く感じられる。
署名すれば、生き延びる。
署名しなければ、終わる。
だが、生き延びるとは、
かつての自分を、完全に切り捨てることだった。
彼は、目を閉じる。
王太子ではない名。
ただの、一人の人間の名。
それを差し出す覚悟が、
今、問われている。
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