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第24話 署名の重さ
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第24話 署名の重さ
夜は、やけに静かだった。
灯りは点いている。人もいる。けれど、イディオット・パーソーンの部屋には、音が入ってこない。まるで、この空間だけが世界から切り離されているかのようだった。
机の上には、あの書類が置かれている。
個人債務化への同意書。
文章は短い。装飾も、感情を煽る言葉もない。ただ、事実を固定するための文言だけが並んでいる。
――本書に署名した時点をもって、以下に記載されるすべての債務は、イディオット・パーソーン個人に帰属するものとする。
帰属。
その言葉が、ひどく重い。
彼は、何度も羽ペンを取ろうとして、止めた。
手が震えているわけではない。
むしろ、妙に冷静だった。
署名すれば、終わる。
署名しなければ、終わる。
違いは、その形だけだ。
彼は、初めて自分の過去を思い返していた。
王太子として過ごした日々。
命令すれば動く世界。
理由を説明しなくても許される立場。
だが、そのどれもが、この紙の前では無力だった。
「……俺は……」
声に出してみても、続きを言えない。
王太子だ、と言うには、ここはあまりに静かすぎる。
そのとき、控えめなノックがあった。
扉の向こうに立っていたのは、金融組合の代理人だった。昼間と同じ、感情のない表情。
「進捗の確認に参りました」
それは催促ではない。
ただの確認だ。
「……今すぐ答えを出せと?」
「いいえ。ですが、期限は変わりません」
淡々とした言葉。
怒りも、焦りもない。
イディオットは、書類を見つめたまま言う。
「署名すれば……どうなる」
代理人は、即答した。
「債務は確定します。返済計画が組まれ、強制執行は停止されます」
「それだけか」
「はい」
それだけ。
救いも、名誉回復の約束もない。
「署名しなければ?」
「資産差し押さえの準備に入ります。
その後、労務による代替返済が検討されます」
労務。
その言葉の意味を、彼は正確に理解していた。
代理人は、それ以上何も言わなかった。
言う必要がないからだ。
扉が閉まり、再び静寂が戻る。
イディオットは、ゆっくりと椅子に座り直した。
王太子としての椅子ではない。
ただの、一人分の椅子だ。
――署名とは、認めることだ。
自分が、王太子ではなくなりつつあること。
守られる存在ではないこと。
そして、すべてを自分の名前で引き受ける存在になること。
彼は、羽ペンを取った。
インクに浸し、紙の上に置く。
その瞬間、手が止まる。
名前を書くという行為が、これほど重かったことはない。
これまで、名前は呼ばれるものだった。
命令の前に付く称号であり、相手を黙らせる印だった。
だが今、名前は責任そのものだ。
ゆっくりと、ペンが動く。
イディオット・パーソーン。
最後の文字を書き終えた瞬間、胸の奥で何かが落ちた。
音はしない。
だが、確かに落ちた。
それは、地位でも、誇りでもない。
逃げ道だ。
翌朝、署名済みの書類は、淡々と回収された。
誰も祝わない。
誰も嘆かない。
ただ、次の工程へ進むだけだ。
一方、ティッド公爵邸では、簡潔な報告が上がっていた。
「個人債務化、署名完了」
ソフィ・スティ・ケイティッド公爵令嬢は、その一文を確認し、静かに頷く。
「これで、公式は完全に切り離されましたね」
「はい。以後は、完全に個人案件です」
それで、この件は終わりだった。
ソフィは、窓辺に立ち、王都の朝を眺める。
人々は変わらず歩き、商人は声を張り、世界は進む。
誰か一人が、どんな決断を下そうと、世界は止まらない。
一方、イディオット・パーソーンは、自室で一人、手のひらを見つめていた。
そこに、王太子の印はない。
残っているのは、
署名を終えた、ただの人間の手だけだった。
公式は、彼を解放しない。
だが同時に、もう守らない。
それが、署名の重さだった。
夜は、やけに静かだった。
灯りは点いている。人もいる。けれど、イディオット・パーソーンの部屋には、音が入ってこない。まるで、この空間だけが世界から切り離されているかのようだった。
机の上には、あの書類が置かれている。
個人債務化への同意書。
文章は短い。装飾も、感情を煽る言葉もない。ただ、事実を固定するための文言だけが並んでいる。
――本書に署名した時点をもって、以下に記載されるすべての債務は、イディオット・パーソーン個人に帰属するものとする。
帰属。
その言葉が、ひどく重い。
彼は、何度も羽ペンを取ろうとして、止めた。
手が震えているわけではない。
むしろ、妙に冷静だった。
署名すれば、終わる。
署名しなければ、終わる。
違いは、その形だけだ。
彼は、初めて自分の過去を思い返していた。
王太子として過ごした日々。
命令すれば動く世界。
理由を説明しなくても許される立場。
だが、そのどれもが、この紙の前では無力だった。
「……俺は……」
声に出してみても、続きを言えない。
王太子だ、と言うには、ここはあまりに静かすぎる。
そのとき、控えめなノックがあった。
扉の向こうに立っていたのは、金融組合の代理人だった。昼間と同じ、感情のない表情。
「進捗の確認に参りました」
それは催促ではない。
ただの確認だ。
「……今すぐ答えを出せと?」
「いいえ。ですが、期限は変わりません」
淡々とした言葉。
怒りも、焦りもない。
イディオットは、書類を見つめたまま言う。
「署名すれば……どうなる」
代理人は、即答した。
「債務は確定します。返済計画が組まれ、強制執行は停止されます」
「それだけか」
「はい」
それだけ。
救いも、名誉回復の約束もない。
「署名しなければ?」
「資産差し押さえの準備に入ります。
その後、労務による代替返済が検討されます」
労務。
その言葉の意味を、彼は正確に理解していた。
代理人は、それ以上何も言わなかった。
言う必要がないからだ。
扉が閉まり、再び静寂が戻る。
イディオットは、ゆっくりと椅子に座り直した。
王太子としての椅子ではない。
ただの、一人分の椅子だ。
――署名とは、認めることだ。
自分が、王太子ではなくなりつつあること。
守られる存在ではないこと。
そして、すべてを自分の名前で引き受ける存在になること。
彼は、羽ペンを取った。
インクに浸し、紙の上に置く。
その瞬間、手が止まる。
名前を書くという行為が、これほど重かったことはない。
これまで、名前は呼ばれるものだった。
命令の前に付く称号であり、相手を黙らせる印だった。
だが今、名前は責任そのものだ。
ゆっくりと、ペンが動く。
イディオット・パーソーン。
最後の文字を書き終えた瞬間、胸の奥で何かが落ちた。
音はしない。
だが、確かに落ちた。
それは、地位でも、誇りでもない。
逃げ道だ。
翌朝、署名済みの書類は、淡々と回収された。
誰も祝わない。
誰も嘆かない。
ただ、次の工程へ進むだけだ。
一方、ティッド公爵邸では、簡潔な報告が上がっていた。
「個人債務化、署名完了」
ソフィ・スティ・ケイティッド公爵令嬢は、その一文を確認し、静かに頷く。
「これで、公式は完全に切り離されましたね」
「はい。以後は、完全に個人案件です」
それで、この件は終わりだった。
ソフィは、窓辺に立ち、王都の朝を眺める。
人々は変わらず歩き、商人は声を張り、世界は進む。
誰か一人が、どんな決断を下そうと、世界は止まらない。
一方、イディオット・パーソーンは、自室で一人、手のひらを見つめていた。
そこに、王太子の印はない。
残っているのは、
署名を終えた、ただの人間の手だけだった。
公式は、彼を解放しない。
だが同時に、もう守らない。
それが、署名の重さだった。
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