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第三十六話 しずか に ひろがる うわさ
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第三十六話 しずか に ひろがる うわさ
その日も、特別なことは起きなかった。
行列はできない。
呼び込みもしない。
割引の札も、目立つ宣伝もない。
それでも――
扉は、何度か開いた。
午前中に一人。
昼過ぎに二人。
夕方に、また一人。
誰も長居はしない。
けれど、誰も急いで出ていくこともなかった。
タナーは、カウンターの奥から、静かに見ている。
説明は、聞かれた分だけ。
売り込みは、しない。
テイデイ・バトラーは、必要な時だけ動く。
お茶を淹れ、カップを下げ、床を軽く拭く。
それ以上は、何もしない。
午後、常連になりそうな雰囲気の女性が、ふと呟いた。
「……ここ、落ち着きますね」
「はい」
タナーは、いつも通り答える。
「……理由は、わからないんですけど」
「はい」
「でも……また来たい」
タナーは、頷いた。
「また
どうぞ」
女性は、何も買わずに帰っていった。
それでも、タナーは気にしなかった。
「……いい です」
買わなくても、来ていい。
見て、触って、考えて。
それで帰っても、いい。
それが、この店だった。
夕方。
別の客が、ぽつりとこう言った。
「友達に聞いたんです」
「?」
「“あまり説明しない、変なお店がある”って」
タナーは、少しだけ首を傾げる。
「……そう です か」
「ええ。でも――」
客は、棚を一周見てから、続けた。
「“嫌な気がしない”とも言ってました」
タナーは、少し考えた。
「……それ なら
あって ます」
客は、くすっと笑い、ティーカップを一つ買っていった。
夜。
店を閉める準備をしながら、タナーは、ふと気づいた。
今日来た人たちの共通点。
誰も、店の名前を聞かなかった。
誰も、場所を詳しく尋ねなかった。
ただ――
「ここ です よ」
そう言われたから、来た。
それだけ。
噂は、形を持たない。
声も、大きくならない。
でも。
「……しずか なの に
ちゃんと
つたわって ます」
タナーは、そう呟いた。
テイデイ・バトラーは、最後のカップを拭き終える。
布を畳み、元の位置に戻る。
動きは、相変わらず正確で、無駄がない。
「……あした も
あけ ます」
返事はない。
でも、その背中は、いつも通りだった。
看板を裏返す。
扉を閉める。
通りには、もう人影は少ない。
けれど、どこかで誰かが言うだろう。
「ねえ、知ってる?」
「なに?」
「静かで、かわいいお店があるの」
それだけで、十分だった。
噂は、ささやきでいい。
この店は――
探して来る人のための場所なのだから。
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