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第8話 夜は、何も語らない
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第8話 夜は、何も語らない
夜明け前の孤児院は、いつもより静かだった。
物音がない、というより――息をひそめているような空気が、廊下に溜まっている。
ウェイフは目を覚ましたまま、しばらく動かなかった。
遠くで誰かが寝返りを打つ音。
木材が、温度差で小さく軋む音。
(……今日は、静かすぎる)
嫌な予感というほどではない。
ただ、胸の奥に小さな引っかかりがあった。
やがて、かすかな咳が聞こえた。
一度きりではない。間隔の不揃いな、短い咳。
ウェイフは、音の方向を確かめてから、静かに寝台を降りた。
廊下の奥、裏の小部屋。
普段は使われない場所だ。
すでに、何人かが集まっていた。
年上の孤児が壁際に立ち、腕を組んでいる。
「……起きたのか」
小さな声。
「……中にいる?」
「いる。
さっきから、咳が出てる」
扉は閉まったままだ。
大人の姿は、見えない。
ウェイフは、扉の前で足を止めた。
木の向こうから、かすかな気配が伝わってくる。
(……熱)
確信ではない。
ただ、経験からくる感覚だ。
その場に、しばらく沈黙が落ちた。
誰も、扉に手をかけない。
誰も、声を荒げない。
やがて、年上の孤児が低く言った。
「……朝まで、交代で見るか」
「うん」
即座に返事が返る。
誰の指示でもない。
自然に、そう決まった。
扉の前に座り、背中を壁に預ける。
床は冷たい。だが、我慢できないほどではない。
時間が、ゆっくりと流れる。
咳が強くなるたび、誰かが身じろぎする。
静かに、耳を澄ませる。
中から、水を飲む音がした。
むせる音はない。
それだけで、少し息が抜けた。
夜は長かった。
けれど、騒ぎになることはなかった。
扉は、開かれないまま。
誰も、特別なことをしないまま。
――やがて、空が白み始める。
咳の音は、いつの間にか聞こえなくなっていた。
代わりに、規則的な寝息が、かすかに漏れる。
年上の孤児が、ゆっくりと立ち上がる。
「……寝たな」
それだけ言って、深く息を吐いた。
誰も、何も言わない。
喜びも、安堵も、言葉にしない。
朝の支度の音が、少しずつ戻ってくる。
遠くで、鍋を置く音。
水を汲む音。
いつもと同じ朝だ。
大人が一人、廊下を通りかかった。
小部屋の扉を一瞥し、立ち止まる。
「……静かだな」
中を確かめることもなく、そう呟いて去っていく。
それ以上、何も起きなかった。
ウェイフは、裏庭に出て、冷たい空気を吸い込む。
夜露の残る地面。
変わらない景色。
(……何も、なかった)
そう思うことにする。
粥の時間になり、子どもたちは列に並ぶ。
量は、相変わらず少ない。
それでも、欠けた顔はない。
食べ終えたあと、年上の孤児が隣に立った。
何か言いたそうにして――結局、何も言わない。
視線が、一瞬だけ交わる。
それで、十分だった。
午前中は、裏庭の片付けをする。
昨日の雨で濡れた枝を並べ、乾かす。
誰かが勝手に動くこともない。
誰かが命令することもない。
ただ、静かに、手を動かす。
昼前、小部屋の扉が開いた。
中から、小さな足音。
「……おなか、すいた」
弱い声。
けれど、確かに生きている声。
周囲が、一瞬だけ息を呑む。
次の瞬間、誰かが木の実を差し出した。
「ゆっくり、食べろ」
それだけだ。
騒がない。
抱きしめない。
奇跡のように扱わない。
ウェイフは、その様子を少し離れた場所から見ていた。
(……これでいい)
特別なことは、起きていない。
誰も、何かを得ていない。
ただ、今日も――
全員が、ここにいる。
夕方、風が少し冷たくなった。
ウェイフは空を見上げ、明日の天気を考える。
(……明日は、川の様子を見る)
それだけでいい。
夜は、何も語らなかった。
だからこそ、この場所は、壊れなかった。
ウェイフは、その事実を胸にしまい、
何事もなかった一日を、静かに終わらせた。
夜明け前の孤児院は、いつもより静かだった。
物音がない、というより――息をひそめているような空気が、廊下に溜まっている。
ウェイフは目を覚ましたまま、しばらく動かなかった。
遠くで誰かが寝返りを打つ音。
木材が、温度差で小さく軋む音。
(……今日は、静かすぎる)
嫌な予感というほどではない。
ただ、胸の奥に小さな引っかかりがあった。
やがて、かすかな咳が聞こえた。
一度きりではない。間隔の不揃いな、短い咳。
ウェイフは、音の方向を確かめてから、静かに寝台を降りた。
廊下の奥、裏の小部屋。
普段は使われない場所だ。
すでに、何人かが集まっていた。
年上の孤児が壁際に立ち、腕を組んでいる。
「……起きたのか」
小さな声。
「……中にいる?」
「いる。
さっきから、咳が出てる」
扉は閉まったままだ。
大人の姿は、見えない。
ウェイフは、扉の前で足を止めた。
木の向こうから、かすかな気配が伝わってくる。
(……熱)
確信ではない。
ただ、経験からくる感覚だ。
その場に、しばらく沈黙が落ちた。
誰も、扉に手をかけない。
誰も、声を荒げない。
やがて、年上の孤児が低く言った。
「……朝まで、交代で見るか」
「うん」
即座に返事が返る。
誰の指示でもない。
自然に、そう決まった。
扉の前に座り、背中を壁に預ける。
床は冷たい。だが、我慢できないほどではない。
時間が、ゆっくりと流れる。
咳が強くなるたび、誰かが身じろぎする。
静かに、耳を澄ませる。
中から、水を飲む音がした。
むせる音はない。
それだけで、少し息が抜けた。
夜は長かった。
けれど、騒ぎになることはなかった。
扉は、開かれないまま。
誰も、特別なことをしないまま。
――やがて、空が白み始める。
咳の音は、いつの間にか聞こえなくなっていた。
代わりに、規則的な寝息が、かすかに漏れる。
年上の孤児が、ゆっくりと立ち上がる。
「……寝たな」
それだけ言って、深く息を吐いた。
誰も、何も言わない。
喜びも、安堵も、言葉にしない。
朝の支度の音が、少しずつ戻ってくる。
遠くで、鍋を置く音。
水を汲む音。
いつもと同じ朝だ。
大人が一人、廊下を通りかかった。
小部屋の扉を一瞥し、立ち止まる。
「……静かだな」
中を確かめることもなく、そう呟いて去っていく。
それ以上、何も起きなかった。
ウェイフは、裏庭に出て、冷たい空気を吸い込む。
夜露の残る地面。
変わらない景色。
(……何も、なかった)
そう思うことにする。
粥の時間になり、子どもたちは列に並ぶ。
量は、相変わらず少ない。
それでも、欠けた顔はない。
食べ終えたあと、年上の孤児が隣に立った。
何か言いたそうにして――結局、何も言わない。
視線が、一瞬だけ交わる。
それで、十分だった。
午前中は、裏庭の片付けをする。
昨日の雨で濡れた枝を並べ、乾かす。
誰かが勝手に動くこともない。
誰かが命令することもない。
ただ、静かに、手を動かす。
昼前、小部屋の扉が開いた。
中から、小さな足音。
「……おなか、すいた」
弱い声。
けれど、確かに生きている声。
周囲が、一瞬だけ息を呑む。
次の瞬間、誰かが木の実を差し出した。
「ゆっくり、食べろ」
それだけだ。
騒がない。
抱きしめない。
奇跡のように扱わない。
ウェイフは、その様子を少し離れた場所から見ていた。
(……これでいい)
特別なことは、起きていない。
誰も、何かを得ていない。
ただ、今日も――
全員が、ここにいる。
夕方、風が少し冷たくなった。
ウェイフは空を見上げ、明日の天気を考える。
(……明日は、川の様子を見る)
それだけでいい。
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だからこそ、この場所は、壊れなかった。
ウェイフは、その事実を胸にしまい、
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