『選ばれなかった孤児は、同じ時間を生きることを選んだ』

鷹 綾

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第19話 距離が縮まる音

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第19話 距離が縮まる音

 翌朝、公爵邸はゆっくりと目を覚ました。
 男爵家の屋敷とは違い、慌ただしさがない。決まった時刻はあっても、空気が人を追い立てない。

 ウェイフは、用意された朝食の席に一人で座っていた。
 量は控えめだが、温かい。味付けも穏やかで、胃に負担がない。

(……気遣い)

 それが、意図的だと分かっても、ありがたかった。

 少し遅れて、アバルトが入ってくる。
 簡素な服装だが、姿勢は崩れていない。

「おはよう」

「おはようございます」

 自然に挨拶が交わされる。
 “公爵”と“婚約者”という距離感は、ここにはない。

「昨夜は、眠れたか?」

「……はい。
 久しぶりに、ぐっすり」

 正直な答えだった。

 アバルトは、ほっとしたように微笑む。

「それは良かった。
 この屋敷は、音が少ないからね」

 食事の間、無理に会話は続けない。
 沈黙が、重くならない。

(……これが、普通)

 前世でも、孤児院でも、なかなか得られなかった感覚だ。

 朝食後、約束通り屋敷の案内が始まった。
 広い回廊。
 手入れの行き届いた庭。
 執務用の建物。

「ここは、書庫だ」

 扉を開けると、壁一面の書棚が現れる。
 古い書物と、新しい資料が混在している。

「……すごい」

 思わず、声が漏れた。

「暇が長いからね」

 アバルトは肩をすくめる。

「三百年分の、時間つぶしの跡だ」

 軽く言うが、その裏にある年月を思うと、言葉が詰まる。

「……全部、読んだんですか」

「全部ではない。
 だが、必要なものは、だいたい頭に入っている」

 その言葉に、ウェイフは別の意味を感じ取った。

(……生き残るために、学び続けた人)

 庭に出ると、風が柔らかく吹いていた。
 季節の花が、整然と咲いている。

「……ここでは、噂を気にしなくていい」

 アバルトが、ぽつりと言った。

「化け物だとか、呪われているとか……
 そういう言葉は、外のものだ」

「はい」

 ウェイフは、素直に頷く。

「私も……噂で生きてきました」

 言葉にしてから、少し驚いた。
 自分から話すつもりは、なかったのに。

「孤児だとか、気味が悪いだとか……
 勝手に決められて」

 アバルトは、足を止める。

「……それで、どうした?」

「……慣れました」

 それは、嘘ではない。

「でも」

 一拍置く。

「慣れたことと、平気なことは、違います」

 アバルトは、深く頷いた。

「同感だ」

 それ以上、言葉はいらなかった。

 午後、屋敷の一角で茶を飲むことになった。
 形式ばらない、簡素な茶会。

 使用人たちは距離を保ち、必要以上に近づかない。

「……君は、不思議だな」

 アバルトが、湯気の向こうから言う。

「男爵家の娘だったなら、
 ここで怯えるか、媚びるか、どちらかだっただろう」

「……私は、どちらでもないですか」

「ああ」

 はっきりと。

「怯えすぎず、媚びすぎず。
 それでいて、逃げない」

 ウェイフは、少し考えてから答えた。

「……逃げる場所が、なかっただけです」

「それでも、踏み出した」

 アバルトは、静かに言う。

「それは、強さだ」

 胸の奥が、きゅっと締まる。

(……評価された)

 利用価値ではなく、
 人として。

 夕方、庭を歩きながら、アバルトが言った。

「君が、ここに来てくれて良かった」

 唐突だが、重みがある。

「……私は、身代わりですよ」

「それでも、だ」

 迷いのない声。

「身代わりでも、選ばされたとしても、
 今ここに立っているのは、君自身だ」

 ウェイフは、足を止める。

「……公爵様は、後悔しませんか」

「何を?」

「孤児で、
 後ろ盾もなくて……」

 アバルトは、苦笑した。

「三百年生きて、
 今さら“家柄”で人を選ぶと思うか?」

 その言葉に、思わず笑ってしまう。

「……思いません」

「だろう」

 夕陽が、庭を橙色に染める。
 二人の影が、並んで伸びる。

(……距離が、縮んでいる)

 音を立てず、だが確実に。

 夜、部屋に戻ったウェイフは、静かに考える。

(……ここでなら)

 自分のことを、少しずつ話せるかもしれない。
 孤児であること。
 捨てられたこと。

 そして――
 まだ言っていない、魔法のこと。

 だが、それはまだ先だ。

(……今は、この距離を大事にする)

 急がない。
 逃げない。

 ウェイフは、灯りを落とし、寝台に入る。

 公爵邸の夜は、やはり静かだった。
 その静けさの中で、彼女は確かに感じていた。

 ここは、近づいても壊れない場所だ――と。
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