『選ばれなかった孤児は、同じ時間を生きることを選んだ』

鷹 綾

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第28話 踏み越えられた一線

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第28話 踏み越えられた一線

 噂は、焦りを伴うと形を変える。
 確かめるための囁きは、やがて――踏み込んではならない場所へ、足を運ばせる。

 その兆しは、静かに、しかし明確に現れた。

 朝、影武者の老人が珍しく無言で書類を差し出した。
 表情が硬い。

「……これは?」

 ウェイフが問いかけると、老人は短く答えた。

「孤児院だ」

 胸の奥が、ひやりと冷える。

「昨日、数人の貴族関係者が、
 “婚約者の素性確認”を名目に訪れている」

 確認、という言葉が、やけに軽い。

「……何を聞いたのですか」

「昔の話だ。
 誰がいじめていたか、
 誰が守っていたか、
 魔法の噂が本当かどうか」

 空気が、ぴんと張り詰める。

 アバルトが、低く言った。

「一線を越えたな」

 ウェイフは、ゆっくりと息を吸った。
 心が揺れないよう、意識的に。

(……来るとは思っていた)

 だが、実際に来ると、重みが違う。

「孤児院の反応は?」

 声は、落ち着いている。

「院長は、何も話していない。
 だが……」

 老人は、一瞬言葉を選んだ。

「孤児たちは、動揺している」

 胸が、きしむ。

(……私のせいだ)

 ウェイフは、無意識に拳を握った。

 そこへ、アバルトの声が落ちる。

「違う」

 静かだが、はっきりと。

「君のせいではない。
 覗く側の問題だ」

 ウェイフは、彼を見た。

「……でも」

「孤児院は、君の“弱点”ではない」

 続く言葉は、断定だった。

「彼らが踏み込んだことで、
 立場は逆転した」

 影武者の老人が、深く頷く。

「孤児院は、聖域だ。
 少なくとも、表向きはな」

 午後、報告がさらに入った。

「町で、話が出回っています。
 “公爵家の婚約者の過去を探るのは、
 さすがにやりすぎではないか”と」

 噂の流れが、変わり始めている。

 攻めていた側が、
 責められる側へ。

「……どうしますか」

 ウェイフは、尋ねた。

 アバルトは、即答しない。
 少し考えてから、言った。

「君が決めろ」

 その言葉に、少し驚く。

「これは、君の人生だ」

 彼は、穏やかに続ける。

「私が前に出ることもできる。
 だが……それでは、
 “公爵が怒った”という話にすり替わる」

 ウェイフは、理解した。

(……私自身が、どう扱うか)

 沈黙のあと、彼女は答えた。

「……孤児院に、行かせてください」

 影武者の老人が、目を細める。

「公に、か?」

「いいえ」

 首を振る。

「静かに。
 でも、はっきりと」

 孤児院は、変わらない場所にあった。
 だが、空気は重い。

 ウェイフの姿を見た瞬間、
 年上の孤児たちが、目を見開いた。

「……来た」

 院長が、深く頭を下げる。

「ご心配をおかけしました」

「いいえ」

 ウェイフは、静かに返した。

「私が、説明に来ました」

 集まった孤児たちの前に立つ。

 視線が、集まる。
 期待と、不安と、恐れ。

「……私のことで、
 嫌な思いをさせてしまったと思います」

 一拍置く。

「でも、聞いてほしい」

 声は、震えていない。

「私がここにいた事実は、
 誰にも否定できません」

 過去を、隠さない。

「そして、
 ここで過ごした時間を、
 私は恥じていません」

 空気が、少し緩む。

「だから――」

 ゆっくりと続ける。

「もし、また誰かが来て、
 私のことで何かを聞こうとしたら」

 孤児たちの目を見る。

「答えなくていい」

 きっぱりと。

「あなたたちは、
 誰の調査対象でもありません」

 沈黙。

 やがて、年上の孤児が、小さく頷いた。

「……分かった」

 院長も、深く息を吐く。

 帰り道、ウェイフは空を見上げた。
 雲が、ゆっくりと流れている。

(……踏み越えられた一線)

 だが、それは――
 こちらが崩れる線ではなかった。

 公爵邸に戻ると、アバルトが待っていた。

「……どうだった」

「大丈夫です」

 はっきりと答える。

「皆、守る場所を理解してくれました」

 アバルトは、深く頷いた。

「なら、次は――こちらの番だ」

 その夜、町では新しい噂が流れ始めた。

「孤児院にまで手を出したらしい」
「さすがに、品がない」
「誰が、そこまでした?」

 問いは、
 試す側へと、向き始める。

 ウェイフは、静かに灯りを落とした。

 踏み越えられた一線は、
 戻れない線でもある。

 そして今、
 戻れなくなったのは――
 こちらではなかった。
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