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第29話 崩れ始めた仮面
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第29話 崩れ始めた仮面
孤児院を訪れてから、数日が過ぎた。
その間、公爵邸には奇妙な静けさが漂っていた。
嵐の前触れのような――
音を吸い込んだ、重たい沈黙。
朝、影武者の老人が珍しく苦々しい顔で報告書を置いた。
「……表に、出始めた」
「何が、ですか」
ウェイフは、静かに問い返す。
「誰が孤児院を嗅ぎ回ったか、だ」
書類には、断片的な情報がまとめられていた。
— 中央貴族会の下位貴族が動いていた
— “確認”の名目で複数名が接触
— 指示元は、特定されつつある
「……指示元?」
アバルトが、低く言う。
「単独ではない。
だが、中心はいる」
影武者の老人が、頷いた。
「社交会で恥をかいた連中だ。
試したつもりが、試され返された」
ウェイフは、静かに息を吐いた。
(……焦りが、露骨になっている)
噂を流し、探りを入れ、
それでも納得できなかった者たち。
彼らは、自分たちの判断が誤っていた可能性を、
どうしても認められなかった。
だから――
踏み込んではならない場所に、手を伸ばした。
「町の空気は?」
ウェイフが尋ねる。
「冷ややかだ」
老人は、短く答えた。
「“やりすぎた”という声が増えている」
それは、決定的だった。
噂は、同情や嘲笑を含んでこそ力を持つ。
だが、“品がない”“やりすぎだ”と判断された瞬間、
その噂は、語る側を汚す。
午後、思いがけない来客があった。
「男爵家の……ご当主様です」
使用人の声が、わずかに強張っている。
ウェイフの胸が、静かに冷えた。
(……来た)
応接の間に現れた男爵は、以前よりも顔色が悪かった。
威圧的だった態度は影を潜め、代わりに焦りがにじんでいる。
「……お久しぶりですな」
ぎこちない挨拶。
「本日は、少々、誤解を解きたく」
アバルトは、椅子に深く腰掛けたまま言う。
「誤解?」
「ええ……
孤児院の件など、
当家は一切、関与しておりません」
ウェイフは、何も言わない。
ただ、視線を向ける。
男爵は、居心地悪そうに続けた。
「それに……
噂が独り歩きしておりましてな」
「噂は、歩かない」
アバルトが、淡々と遮る。
「歩かせる者がいる」
男爵の喉が、小さく鳴った。
「……当家の娘が、
軽率な発言をした可能性はありますが……」
ついに、核心が出た。
ウェイフは、静かに口を開く。
「確認させてください」
男爵が、びくりと肩を震わせる。
「私を、
“身代わり”として差し出したこと」
一拍置く。
「それは、
軽率な判断だったと、
今も思っていらっしゃいますか」
男爵は、即答できなかった。
視線が揺れる。
「……当時は」
苦し紛れの言葉。
「家のために、
最善だと……」
「今は?」
ウェイフは、重ねる。
沈黙。
男爵は、ついに視線を落とした。
「……申し訳なかった」
小さな声。
だが、聞き逃しようのない言葉。
アバルトが、静かに言う。
「謝罪は、私ではなく――」
男爵は、ゆっくりとウェイフに向き直った。
「……すまなかった」
その瞬間、
部屋の空気が、わずかに変わった。
それは、和解ではない。
許しでもない。
ただ――
立場が、完全に逆転した証だった。
「謝罪は、受け取ります」
ウェイフは、淡々と答えた。
「ですが」
はっきりと続ける。
「私の過去を、
これ以上、道具にしないでください」
男爵は、深く頭を下げた。
「……以後、
関与いたしません」
彼が去ったあと、
影武者の老人が低く息を吐いた。
「……仮面が、剥がれたな」
「はい」
ウェイフは、静かに頷く。
「でも、終わりではありません」
アバルトが、穏やかに言った。
「これで、
“誰が何をしたか”が、
はっきりした」
夜、ウェイフは書庫で帳面を開いた。
今日の出来事を、簡潔に書き留める。
(……仮面)
それは、他人を測るための道具。
だが、測り続ければ――
いずれ、自分の顔に貼り付いてしまう。
今回、それが剥がれた。
孤児を見下す仮面。
利用できるかどうかを測る仮面。
品位を装った、焦りの仮面。
ウェイフは、静かに帳面を閉じた。
(……私は、もう戻らない)
あの孤児院で、
怯えていた頃には。
噂に守られ、
噂に縋っていた人々が、
今、震えている。
それは復讐ではない。
ただ――
事実が、追いついただけ。
ウェイフは、灯りを落とした。
次に来るのは、
逃げ場を失った者たちの、
最後の足掻き。
その予感は、
静かに、確信へと変わっていた。
孤児院を訪れてから、数日が過ぎた。
その間、公爵邸には奇妙な静けさが漂っていた。
嵐の前触れのような――
音を吸い込んだ、重たい沈黙。
朝、影武者の老人が珍しく苦々しい顔で報告書を置いた。
「……表に、出始めた」
「何が、ですか」
ウェイフは、静かに問い返す。
「誰が孤児院を嗅ぎ回ったか、だ」
書類には、断片的な情報がまとめられていた。
— 中央貴族会の下位貴族が動いていた
— “確認”の名目で複数名が接触
— 指示元は、特定されつつある
「……指示元?」
アバルトが、低く言う。
「単独ではない。
だが、中心はいる」
影武者の老人が、頷いた。
「社交会で恥をかいた連中だ。
試したつもりが、試され返された」
ウェイフは、静かに息を吐いた。
(……焦りが、露骨になっている)
噂を流し、探りを入れ、
それでも納得できなかった者たち。
彼らは、自分たちの判断が誤っていた可能性を、
どうしても認められなかった。
だから――
踏み込んではならない場所に、手を伸ばした。
「町の空気は?」
ウェイフが尋ねる。
「冷ややかだ」
老人は、短く答えた。
「“やりすぎた”という声が増えている」
それは、決定的だった。
噂は、同情や嘲笑を含んでこそ力を持つ。
だが、“品がない”“やりすぎだ”と判断された瞬間、
その噂は、語る側を汚す。
午後、思いがけない来客があった。
「男爵家の……ご当主様です」
使用人の声が、わずかに強張っている。
ウェイフの胸が、静かに冷えた。
(……来た)
応接の間に現れた男爵は、以前よりも顔色が悪かった。
威圧的だった態度は影を潜め、代わりに焦りがにじんでいる。
「……お久しぶりですな」
ぎこちない挨拶。
「本日は、少々、誤解を解きたく」
アバルトは、椅子に深く腰掛けたまま言う。
「誤解?」
「ええ……
孤児院の件など、
当家は一切、関与しておりません」
ウェイフは、何も言わない。
ただ、視線を向ける。
男爵は、居心地悪そうに続けた。
「それに……
噂が独り歩きしておりましてな」
「噂は、歩かない」
アバルトが、淡々と遮る。
「歩かせる者がいる」
男爵の喉が、小さく鳴った。
「……当家の娘が、
軽率な発言をした可能性はありますが……」
ついに、核心が出た。
ウェイフは、静かに口を開く。
「確認させてください」
男爵が、びくりと肩を震わせる。
「私を、
“身代わり”として差し出したこと」
一拍置く。
「それは、
軽率な判断だったと、
今も思っていらっしゃいますか」
男爵は、即答できなかった。
視線が揺れる。
「……当時は」
苦し紛れの言葉。
「家のために、
最善だと……」
「今は?」
ウェイフは、重ねる。
沈黙。
男爵は、ついに視線を落とした。
「……申し訳なかった」
小さな声。
だが、聞き逃しようのない言葉。
アバルトが、静かに言う。
「謝罪は、私ではなく――」
男爵は、ゆっくりとウェイフに向き直った。
「……すまなかった」
その瞬間、
部屋の空気が、わずかに変わった。
それは、和解ではない。
許しでもない。
ただ――
立場が、完全に逆転した証だった。
「謝罪は、受け取ります」
ウェイフは、淡々と答えた。
「ですが」
はっきりと続ける。
「私の過去を、
これ以上、道具にしないでください」
男爵は、深く頭を下げた。
「……以後、
関与いたしません」
彼が去ったあと、
影武者の老人が低く息を吐いた。
「……仮面が、剥がれたな」
「はい」
ウェイフは、静かに頷く。
「でも、終わりではありません」
アバルトが、穏やかに言った。
「これで、
“誰が何をしたか”が、
はっきりした」
夜、ウェイフは書庫で帳面を開いた。
今日の出来事を、簡潔に書き留める。
(……仮面)
それは、他人を測るための道具。
だが、測り続ければ――
いずれ、自分の顔に貼り付いてしまう。
今回、それが剥がれた。
孤児を見下す仮面。
利用できるかどうかを測る仮面。
品位を装った、焦りの仮面。
ウェイフは、静かに帳面を閉じた。
(……私は、もう戻らない)
あの孤児院で、
怯えていた頃には。
噂に守られ、
噂に縋っていた人々が、
今、震えている。
それは復讐ではない。
ただ――
事実が、追いついただけ。
ウェイフは、灯りを落とした。
次に来るのは、
逃げ場を失った者たちの、
最後の足掻き。
その予感は、
静かに、確信へと変わっていた。
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