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第26話 仮の暮らし
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第26話 仮の暮らし
翌日から、フォールス・アキュゼーションの生活は、目に見えて変わった。
大使館の一室はそのままだが、出入りの制限が緩和され、外出も許可された。行き先と時間を告げる必要はあるものの、常に監視されている感覚は薄い。護衛が離れた距離で付くことも、事前に説明されていれば、さほど気にならなかった。
それでも、世界は少しだけ広がった。
最初に足を運んだのは、市場だった。
特別な理由はない。ただ、人が行き交う場所に立ってみたかった。商人の呼び声、荷車の音、焼いたパンの匂い。すべてが、裁判や書類とは無縁の現実だ。
果物屋の前で足を止める。
「これ、一つください」
指差したのは、安価な林檎だった。
店主は、ちらりと彼女を見て、何も言わずに紙に包む。
「はいよ」
それだけのやり取り。
フォールスは、代金を払い、林檎を受け取った。
名前も、身分も、過去も聞かれない。
その当たり前に、胸の奥が少しだけ温かくなる。
近くの川沿いまで歩き、腰を下ろす。林檎をかじると、甘さよりも酸味が強かった。
「……普通ですね」
思わず、独り言が漏れる。
普通の味。
普通の昼下がり。
それが、今は新鮮だった。
午後は、書店に立ち寄った。専門書ではなく、旅の記録や詩集が並ぶ棚を眺める。手に取った一冊を、ぱらぱらとめくる。
内容は、他国を巡る話だった。地名も風習も、ほとんど知らないものばかり。
――私は、どこへ行けるのだろう。
選択肢として提示された国外移住が、頭をよぎる。
知らない土地。
知らない人々。
だが、その未知は、恐怖よりも静かな興味を伴っていた。
書店を出ると、夕方の気配が漂い始めていた。
宿へ戻る途中、細い路地で足を止める。壁に貼られた古い掲示が目に入った。簡単な求人だ。帳簿整理、読み書きのできる者、とある。
思わず、紙に指先を触れる。
仕事。
役割。
だが、これは王都の官職ではない。名を背負う仕事でもない。ただ、できることを求められているだけだ。
その違いに、心が少し揺れた。
宿に戻ると、ディヴァイン・プロテクションが待っていた。
「外はどうだった」
「……思ったより、普通でした」
「それでいい」
短い返答だった。
「何か困ったことは」
「いいえ」
フォールスは、少し考えてから続ける。
「ただ、自分が何もしていないことに、慣れていなくて」
ディヴァインは、腕を組んだ。
「役割を外すのは、意外と難しい」
「はい」
「だが、その違和感がなくなった時、本当に選べる」
フォールスは、頷いた。
夜、部屋で一人になる。
机の上には、三通の書簡は置かれていない。代わりに、今日買った本と、半分食べた林檎がある。
それだけだ。
裁判も、策略も、責任も、今は遠い。
フォールス・アキュゼーションは、ベッドに腰を下ろし、深く息を吸った。
仮の暮らし。
仮の時間。
だが、この仮は、決して無意味ではない。
何者でもない自分が、何に安心し、何に違和感を覚えるのか。
それを確かめるための、一か月だ。
目を閉じると、市場の音がよみがえった。
人の声。
笑い。
生活の匂い。
それらの中に、自分の居場所があるのかどうか。
答えは、まだ出ない。
だが、焦る必要はなかった。
フォールス・アキュゼーションは、静かに眠りについた。
明日もまた、
名を持たない一日が、
彼女を待っている。
翌日から、フォールス・アキュゼーションの生活は、目に見えて変わった。
大使館の一室はそのままだが、出入りの制限が緩和され、外出も許可された。行き先と時間を告げる必要はあるものの、常に監視されている感覚は薄い。護衛が離れた距離で付くことも、事前に説明されていれば、さほど気にならなかった。
それでも、世界は少しだけ広がった。
最初に足を運んだのは、市場だった。
特別な理由はない。ただ、人が行き交う場所に立ってみたかった。商人の呼び声、荷車の音、焼いたパンの匂い。すべてが、裁判や書類とは無縁の現実だ。
果物屋の前で足を止める。
「これ、一つください」
指差したのは、安価な林檎だった。
店主は、ちらりと彼女を見て、何も言わずに紙に包む。
「はいよ」
それだけのやり取り。
フォールスは、代金を払い、林檎を受け取った。
名前も、身分も、過去も聞かれない。
その当たり前に、胸の奥が少しだけ温かくなる。
近くの川沿いまで歩き、腰を下ろす。林檎をかじると、甘さよりも酸味が強かった。
「……普通ですね」
思わず、独り言が漏れる。
普通の味。
普通の昼下がり。
それが、今は新鮮だった。
午後は、書店に立ち寄った。専門書ではなく、旅の記録や詩集が並ぶ棚を眺める。手に取った一冊を、ぱらぱらとめくる。
内容は、他国を巡る話だった。地名も風習も、ほとんど知らないものばかり。
――私は、どこへ行けるのだろう。
選択肢として提示された国外移住が、頭をよぎる。
知らない土地。
知らない人々。
だが、その未知は、恐怖よりも静かな興味を伴っていた。
書店を出ると、夕方の気配が漂い始めていた。
宿へ戻る途中、細い路地で足を止める。壁に貼られた古い掲示が目に入った。簡単な求人だ。帳簿整理、読み書きのできる者、とある。
思わず、紙に指先を触れる。
仕事。
役割。
だが、これは王都の官職ではない。名を背負う仕事でもない。ただ、できることを求められているだけだ。
その違いに、心が少し揺れた。
宿に戻ると、ディヴァイン・プロテクションが待っていた。
「外はどうだった」
「……思ったより、普通でした」
「それでいい」
短い返答だった。
「何か困ったことは」
「いいえ」
フォールスは、少し考えてから続ける。
「ただ、自分が何もしていないことに、慣れていなくて」
ディヴァインは、腕を組んだ。
「役割を外すのは、意外と難しい」
「はい」
「だが、その違和感がなくなった時、本当に選べる」
フォールスは、頷いた。
夜、部屋で一人になる。
机の上には、三通の書簡は置かれていない。代わりに、今日買った本と、半分食べた林檎がある。
それだけだ。
裁判も、策略も、責任も、今は遠い。
フォールス・アキュゼーションは、ベッドに腰を下ろし、深く息を吸った。
仮の暮らし。
仮の時間。
だが、この仮は、決して無意味ではない。
何者でもない自分が、何に安心し、何に違和感を覚えるのか。
それを確かめるための、一か月だ。
目を閉じると、市場の音がよみがえった。
人の声。
笑い。
生活の匂い。
それらの中に、自分の居場所があるのかどうか。
答えは、まだ出ない。
だが、焦る必要はなかった。
フォールス・アキュゼーションは、静かに眠りについた。
明日もまた、
名を持たない一日が、
彼女を待っている。
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