婚約破棄と暗殺で死んだはずの公爵令嬢ですが、前に出ずに全てを崩壊させます

鷹 綾

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第29話 引き金の音

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第29話 引き金の音

 その日は、朝から空が低かった。

 雲が重く垂れ込み、音を吸い込むような静けさが街に漂っている。フォールス・アキュゼーションは、宿の階段を降りながら、理由の分からない違和感を覚えていた。

 胸の奥が、わずかにざわつく。

 理屈ではない。
 経験でもない。
 ただ、何かが動き始めた気配だった。

 外に出ると、通りはいつもより人が少ない。市場の喧騒も、今日は鈍い。視線が、自然と周囲を探る。

 ――慣れたな。

 そう思う自分がいた。

 かつての自分なら、気づかなかったかもしれない。だが今は、この「違和感」を無視しない。

 通りを一本外れ、細い路地へ入る。目的はない。ただ、人目の少ない場所を選んだだけだ。

 足音が、後ろで止まった。

 反射的に、立ち止まる。

 同時に、空気が張りつめた。

 声は、低く、抑えられていた。

「……動くな」

 フォールスは、ゆっくりと振り返った。

 そこに立っていたのは、見覚えのない男だった。目立たない服装。だが、姿勢が違う。重心が低く、逃げ道を塞ぐ位置取り。

 ――殺しの手。

 即座に理解する。

 だが、不思議と恐怖はなかった。

「誰の依頼ですか」

 問いは、自然に口をついて出た。

 男の眉が、わずかに動く。

「無駄だ」

「そうでしょうね」

 フォールスは、息を整えた。

「でも、確認だけです」

 男は答えない。

 代わりに、距離を詰める。

 その瞬間、別の音が割り込んだ。

 金属が、空を裂く音。

 男が、はじかれるように後方へ跳んだ。

「……っ!」

 路地の入口に、もう一人の影が立っていた。

 背が高く、無駄のない動き。腰の剣に手をかけ、冷たい視線で男を見据えている。

「そこまでだ」

 短く、断定的な声。

 最初の男は、舌打ちした。

「……面倒な」

 退路を探るが、すでに遅い。路地は、完全に押さえられていた。

「撤退だ」

 そう言い残し、男は壁を蹴って姿を消した。

 静寂が戻る。

 フォールスは、しばらく動けずにいた。

「怪我は」

 背後から声がした。

 振り返ると、剣を収めた男が立っている。表情は硬く、感情が読み取れない。

「……ありません」

「ならいい」

 それだけ言って、彼は周囲を確認する。

「今のは」

「確認だ」

 男は、淡々と答えた。

「再依頼が出ている」

 フォールスは、息を呑んだ。

「王太子、ですか」

「おそらくな」

 確定ではない、と言外に含ませる言い方。

 フォールスは、ゆっくりと息を吐いた。

「……私は、もう裁判で証言しました」

「だからだ」

 男の視線が、鋭くなる。

「生きていること自体が、脅威になる」

 その言葉は、現実だった。

 フォールスは、苦笑した。

「万全を期した、というわけですね」

「そうだ」

 男は、短く頷く。

 その時、通りの向こうから足音が近づいてきた。護衛だ。

 ディヴァイン・プロテクションが姿を現す。

「無事か」

「はい」

 フォールスは、即答した。

 ディヴァインは、剣士の方を見る。

「……介入したな」

「任務だ」

 短い応答。

 二人の間に、言葉以上の理解が流れた。

「殿下に報告する」

 ディヴァインが言う。

「必要だな」

 剣士は、視線をフォールスに戻した。

「君」

「はい」

「しばらく、外出は控えろ」

 命令ではない。忠告だ。

「分かりました」

 フォールスは、素直に頷いた。

 剣士は、それ以上何も言わず、路地を離れた。

 残された静けさの中で、フォールスは思った。

 境界に立つ時間は、終わりつつある。

 選ばないという選択は、
 永遠には続かない。

 引き金は、引かれた。

 もう一度、狙われる。
 それでも、生きている。

 フォールス・アキュゼーションは、空を見上げた。

 雲の隙間から、わずかな光が差し込んでいる。

 次に選ぶのは、
 逃げ道ではない。

 生き延びるための、
 立ち位置だ。

 そう、静かに理解していた。
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