婚約破棄と暗殺で死んだはずの公爵令嬢ですが、前に出ずに全てを崩壊させます

鷹 綾

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第36話 踏み込まない接触

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第36話 踏み込まない接触

 その夜、街は妙に静かだった。

 人の気配が消えたわけではない。酒場も開いているし、通りには灯りもある。ただ、音が均されている。誰かが意図的に、目立たない動線を選んで歩いている――そんな気配が、薄く漂っていた。

 フォールス・アキュゼーションは、窓辺から離れ、部屋の中央に立った。

 ――来る。

 それは確信に近い予感だった。

 噂は十分に広がった。価値は下がり、特別性は薄れた。だが、その分、確かめに来る者が現れる。名のある人物ではない。切り捨てられても痛まない、しかし情報には飢えた存在。

 ノックは、控えめだった。

「……どなたですか」

 問いかけながら、フォールスは一歩、机から距離を取る。短剣には触れない。触れれば、こちらが踏み込んだことになる。

「通りすがりだ」

 低い声。
 だが、威圧はない。

「道を尋ねたい」

 それは、嘘だ。
 だが、雑な嘘ではない。

 フォールスは、扉を少しだけ開けた。鎖は外さない。顔が見える程度に留める。

 廊下に立っていたのは、若い男だった。武装はない。だが、立ち方が整いすぎている。民間人にしては、視線が冷静だ。

「何の道ですか」

「……噂の行き先だ」

 男は、曖昧に笑った。

「あなたが、知っていると聞いた」

 フォールスは、表情を変えなかった。

「噂は、誰でも知っています」

「本当の話は?」

「本当かどうかは、聞く人が決めることです」

 男は、一瞬だけ目を細めた。

「否定しないんだな」

「肯定もしません」

 沈黙。

 それは、短いが重い間だった。

「……危険な立場だ」

 男が言う。

「あなたも、です」

 フォールスは、静かに返した。

「ここに来た時点で」

 男は、軽く肩をすくめた。

「確かめたかっただけだ」

「何を」

「あなたが、前に出る人間かどうか」

 フォールスは、少し考えた。

「残念ですが」

「違った?」

「はい」

 男は、納得したように息を吐いた。

「なら、用はない」

 踵を返そうとした、その瞬間。

「一つだけ」

 フォールスは、声をかけた。

 男が振り返る。

「噂を流したのは、あなたではありませんね」

 男は、一瞬だけ沈黙した。

 その沈黙が、答えだった。

「……賢いな」

「構造を見ているだけです」

「構造、か」

 男は、小さく笑った。

「それが一番、厄介だ」

 そう言い残し、廊下の影に溶けるように消えた。

 扉を閉め、鎖を掛ける。

 フォールスは、深く息を吐いた。

 踏み込まなかった。
 だが、引きもしなかった。

 それで、十分だった。

 しばらくして、控えめな足音が近づく。ディヴァイン・プロテクションだ。

「接触があったな」

「はい」

「相手は?」

「観測者です。名は出ません」

「脅威は?」

「今のところは、ありません」

 ディヴァインは、短く頷いた。

「踏み込まなかったな」

「踏み込めば、こちらの負けです」

「よく分かっている」

 彼は、少しだけ声を落とした。

「殿下も、同じ評価だ」

「光栄です」

「褒め言葉ではない」

「承知しています」

 夜が更ける。

 フォールスは、ベッドに腰を下ろし、短剣を手に取った。抜かない。重さだけを確かめる。

 接触はあった。
 だが、衝突はなかった。

 それが意味するのは、相手がまだ迷っているということだ。

 構造の隣に立つ者は、
 相手に踏み込ませないことで、
 選択を迫る。

 フォールス・アキュゼーションは、短剣を元の位置に戻した。

 次に来るのは、
 観測ではない。

 判断だ。

 それを下すのが、
 相手なのか、
 自分なのか。

 その境界は、
 もう、すぐそこにあった。
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