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第一話 守ると言ったその日から
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第一話 守ると言ったその日から
王太子殿下が「守る」とおっしゃったのは、春の舞踏会の真ん中でした。
音楽が止まり、視線が集まり、そして――未亡人セレナ・ローゼンベルク伯爵夫人の手を、殿下は強く握ったのです。
「彼女は孤独だ。私は、彼女を守る」
その瞬間、広間の空気が変わりました。
ええ、私にもわかりましたわ。
――ああ、これは面倒なことになりますわね、と。
私はアーデルハイト・フォン・グランディア。
グランディア公爵家の長女にして、王太子エーヴェルハルト殿下の婚約者でございます。
もっとも、いまのところは、ですが。
殿下は、もともと優しいお方です。
困っている者を見過ごせない。
正義感もおありになる。
それ自体は、美徳でしょう。
けれど、その夜の殿下の横顔は、少しだけ違って見えました。
優しさというより、陶酔。
ご自身の選択に酔っていらっしゃるような――そんな表情。
セレナ様は、まだお若い未亡人です。
前伯爵が急逝なさり、家督の扱いが曖昧になっていたところへ、殿下が「特例として継承を認める」と宣言なさった。
前例のない決断。
けれど殿下は、堂々とおっしゃいました。
「彼女に罪はない。守られるべきだ」
ええ、それ自体は立派なお言葉。
ですが。
“守る”という言葉は、とても便利で、とても重いのです。
舞踏会の翌日、さっそく社交界はざわめきました。
「真実の愛ですって」 「まあ、素敵」 「でも公爵令嬢は?」
もちろん、私の耳にも届きます。
侍女のクララが、困った顔で報告に来ました。
「お嬢様……その、殿下と伯爵夫人の噂が」
「存じておりますわ」
私は紅茶をひと口。
熱すぎず、ぬるすぎず、ちょうど良い温度。
紅茶は温度が肝心です。
恋も、きっとそうなのでしょう。
「お怒りになりませんの?」
クララが恐る恐る聞いてきます。
「なぜ?」
「だって……殿下はお嬢様の婚約者でいらっしゃいますのに」
あら。
クララは、案外情熱家ですわね。
「クララ」
私はカップを置きました。
「ロマンスは小説の中だけで充分ですわ」
「え?」
「現実に持ち込むのでしたら、もう少し筋書きを練っていただきませんと」
未亡人を救う王太子。
真実の愛。
禁断の想い。
――どこかで読んだことがありそうですわね。
もっとも。
「三流では、観客も退屈いたしますでしょう?」
クララは目を丸くして、それから小さく吹き出しました。
私は怒っていません。
悲しんでもいません。
ただ、確認したいだけ。
殿下が、何をお選びになるのかを。
数日後、殿下から呼び出しがありました。
王宮の私室。
窓辺に立つ殿下は、以前より少しだけ硬い表情をしていらっしゃいました。
「アーデルハイト」
「お呼びと伺いました」
私は礼をとります。
完璧に。
崩さずに。
「君も、噂は聞いているだろう」
「ええ」
それだけです。
責める言葉も、問い詰める声もありません。
殿下の眉が、わずかに寄りました。
「私は、彼女を支えるつもりだ」
「存じておりますわ」
「誤解するな。これは同情だ。責任だ」
「そうでございましょうね」
殿下は、少し苛立ったように私を見ました。
私が怒らないことが、逆に落ち着かないのでしょう。
「君は、何も言わないのか?」
ようやく出た問い。
私は、静かに顔を上げました。
「では、お伺いいたしますわ」
空気が、ぴんと張る。
「殿下は、どなたを優先なさいますの?」
沈黙。
その一瞬が、とても長く感じられました。
「優先、とは?」
「婚約とは、家と家、国と国の同盟でございます」
声は穏やかに。
「その当事者が、他者を優先なさるのでしたら」
私は微笑みます。
「選択なさるべきではありませんか?」
殿下の瞳が揺れました。
怒りでもなく、迷いでもなく。
――気づき。
ええ、殿下。
私は、破棄を申し出ることはできません。
立場上。
ですが。
お選びになるのは、あなたです。
王太子エーヴェルハルト殿下は、深く息を吸い込みました。
そして。
「……少し、時間をくれ」
ええ、もちろん。
どうぞ、存分にお考えくださいませ。
私は一礼し、静かに部屋を後にしました。
廊下の窓から見える王都は、いつも通りに賑やかです。
人々は、まだ知らない。
この国の未来が、いま小さく揺れ始めていることを。
守る、と言ったその日から。
殿下は、きっともう戻れない。
私はただ、契約を守るだけ。
それだけですわ。
王太子殿下が「守る」とおっしゃったのは、春の舞踏会の真ん中でした。
音楽が止まり、視線が集まり、そして――未亡人セレナ・ローゼンベルク伯爵夫人の手を、殿下は強く握ったのです。
「彼女は孤独だ。私は、彼女を守る」
その瞬間、広間の空気が変わりました。
ええ、私にもわかりましたわ。
――ああ、これは面倒なことになりますわね、と。
私はアーデルハイト・フォン・グランディア。
グランディア公爵家の長女にして、王太子エーヴェルハルト殿下の婚約者でございます。
もっとも、いまのところは、ですが。
殿下は、もともと優しいお方です。
困っている者を見過ごせない。
正義感もおありになる。
それ自体は、美徳でしょう。
けれど、その夜の殿下の横顔は、少しだけ違って見えました。
優しさというより、陶酔。
ご自身の選択に酔っていらっしゃるような――そんな表情。
セレナ様は、まだお若い未亡人です。
前伯爵が急逝なさり、家督の扱いが曖昧になっていたところへ、殿下が「特例として継承を認める」と宣言なさった。
前例のない決断。
けれど殿下は、堂々とおっしゃいました。
「彼女に罪はない。守られるべきだ」
ええ、それ自体は立派なお言葉。
ですが。
“守る”という言葉は、とても便利で、とても重いのです。
舞踏会の翌日、さっそく社交界はざわめきました。
「真実の愛ですって」 「まあ、素敵」 「でも公爵令嬢は?」
もちろん、私の耳にも届きます。
侍女のクララが、困った顔で報告に来ました。
「お嬢様……その、殿下と伯爵夫人の噂が」
「存じておりますわ」
私は紅茶をひと口。
熱すぎず、ぬるすぎず、ちょうど良い温度。
紅茶は温度が肝心です。
恋も、きっとそうなのでしょう。
「お怒りになりませんの?」
クララが恐る恐る聞いてきます。
「なぜ?」
「だって……殿下はお嬢様の婚約者でいらっしゃいますのに」
あら。
クララは、案外情熱家ですわね。
「クララ」
私はカップを置きました。
「ロマンスは小説の中だけで充分ですわ」
「え?」
「現実に持ち込むのでしたら、もう少し筋書きを練っていただきませんと」
未亡人を救う王太子。
真実の愛。
禁断の想い。
――どこかで読んだことがありそうですわね。
もっとも。
「三流では、観客も退屈いたしますでしょう?」
クララは目を丸くして、それから小さく吹き出しました。
私は怒っていません。
悲しんでもいません。
ただ、確認したいだけ。
殿下が、何をお選びになるのかを。
数日後、殿下から呼び出しがありました。
王宮の私室。
窓辺に立つ殿下は、以前より少しだけ硬い表情をしていらっしゃいました。
「アーデルハイト」
「お呼びと伺いました」
私は礼をとります。
完璧に。
崩さずに。
「君も、噂は聞いているだろう」
「ええ」
それだけです。
責める言葉も、問い詰める声もありません。
殿下の眉が、わずかに寄りました。
「私は、彼女を支えるつもりだ」
「存じておりますわ」
「誤解するな。これは同情だ。責任だ」
「そうでございましょうね」
殿下は、少し苛立ったように私を見ました。
私が怒らないことが、逆に落ち着かないのでしょう。
「君は、何も言わないのか?」
ようやく出た問い。
私は、静かに顔を上げました。
「では、お伺いいたしますわ」
空気が、ぴんと張る。
「殿下は、どなたを優先なさいますの?」
沈黙。
その一瞬が、とても長く感じられました。
「優先、とは?」
「婚約とは、家と家、国と国の同盟でございます」
声は穏やかに。
「その当事者が、他者を優先なさるのでしたら」
私は微笑みます。
「選択なさるべきではありませんか?」
殿下の瞳が揺れました。
怒りでもなく、迷いでもなく。
――気づき。
ええ、殿下。
私は、破棄を申し出ることはできません。
立場上。
ですが。
お選びになるのは、あなたです。
王太子エーヴェルハルト殿下は、深く息を吸い込みました。
そして。
「……少し、時間をくれ」
ええ、もちろん。
どうぞ、存分にお考えくださいませ。
私は一礼し、静かに部屋を後にしました。
廊下の窓から見える王都は、いつも通りに賑やかです。
人々は、まだ知らない。
この国の未来が、いま小さく揺れ始めていることを。
守る、と言ったその日から。
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