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昼食を終えると、僕はミハエルについて音楽室に行く。
一日のうちでもっとも満たされる刻(とき)。ミハエルはピアノを弾く。僕はピアノの下に潜り込んで、寝そべる。頭上からピアノの音が降ってくる。さらさらと。
一曲弾いたところで、頭上からミハエルの柔らかな声が落ちてくる。
「クラウスも云っていたけれど、その釦、どうしたの?」
「ハインリヒさ。」
僕は眸(め)を閉じたまま、答える。
「保健医?」
「そう。跡をつけられた。」
拗ねたような僕の云い方が可笑しかったのだろう、ミハエルはくつくつと笑った。なにを?とは訊かれなかった。
ミハエルはまた三曲ほどピアノを弾く。先刻(さっき)とはまったく違う激しさだ。豪雨のように音が降ってくる。
「リヒャルトでもそう云うことさせるんだな。」
不意に投げつけられた言葉にどう反応したらいいか判らない。
だけど、ミハエルは僕の反応なんか待ってはいないようだった。
再び豪雨のようなピアノが再開される。
ミハエルはきっと僕を軽蔑している。ミハエルのピアノの音はいつだって僕を救って呉れるけど、今はただこの躰を打つだけだ。
しばらく、豪雨に耐えていたら、不意にピアノの音がやんだ。
「妬けるな。」
ミハエルが云い、僕は吃驚した。身を起こす。
「え?」
「リヒャルトはそう云うことさせないんだと思っていた。」
息ができない。
ミハエルはさらに言葉を続ける。
「リヒャルトはいつもみんなを挑発して誘惑するけれど、誰のことも相手にしないですり抜けるだろ? いつだって、超然としている。だからさ、」
ミハエルはきっと僕を軽蔑している。それ以上聞きたくなくて、僕は云った。
「別に主義を変えたわけぢゃない。たいしたことぢゃないさ。挨拶程度。」
「ふうん。」
色のこもらないミハエルの声。
躰が冷たくなる。
ミハエルはきっと僕を軽蔑している。
「ハインリヒは僕に欲望なんか抱いたちゃいないよ。」
云い訳にならないとは思ったけれど、僕は云った。
ミハエルは首を竦める。
「それでも、妬けるな。」
僕は吃驚した。
先刻(さっき)は動揺して気が付かなかったけれど、そう云えば先刻(さっき)もミハエルはそう云った。
「妬ける? ミハエルが?」
あんまり吃驚したので、素直に吃驚した声が出た。
「どうして? リヒャルトはいつもみんなを誘惑するのに。俺のことだって、同じだろ?」
ミハエルは心外だとでも云うように云った。
「だって、」
僕は酷く驚いて、咄嗟に反駁した。
「だって、ミハエルは僕なんかに惑わされないでしょ?」
「どうしてさ。」
ミハエルは心からの調子で云う。そのさまがあんまり心からに思えたので、僕も心からの調子で云う。
「判るよ。ミハエルの眸(め)には熱がないもの。」
ミハエルは苦笑する。
「自制してるんだよ。」
その言葉を信じられたら、と思うけれど、とてもそうは思えない。
憂鬱に囚われそうになる。
「ねえ、そんなことより、ピアノを弾いて。」
寝転がる。追ってくるざわざわに捕まってしまわないように、降ってくる音に意識を集中する。
ミハエルは先刻(さっき)までとは打って変わって、流麗な曲を弾きはじめた。
流れるような旋律に心を懲らす。
訳もなく哀しい。
朝はあんなに完璧にはじまったと云うのに。
僕はあんなに完璧な少年だったのに。
あんなに完璧な<リヒャルト>だったのに。
一日のうちでもっとも満たされる刻(とき)。ミハエルはピアノを弾く。僕はピアノの下に潜り込んで、寝そべる。頭上からピアノの音が降ってくる。さらさらと。
一曲弾いたところで、頭上からミハエルの柔らかな声が落ちてくる。
「クラウスも云っていたけれど、その釦、どうしたの?」
「ハインリヒさ。」
僕は眸(め)を閉じたまま、答える。
「保健医?」
「そう。跡をつけられた。」
拗ねたような僕の云い方が可笑しかったのだろう、ミハエルはくつくつと笑った。なにを?とは訊かれなかった。
ミハエルはまた三曲ほどピアノを弾く。先刻(さっき)とはまったく違う激しさだ。豪雨のように音が降ってくる。
「リヒャルトでもそう云うことさせるんだな。」
不意に投げつけられた言葉にどう反応したらいいか判らない。
だけど、ミハエルは僕の反応なんか待ってはいないようだった。
再び豪雨のようなピアノが再開される。
ミハエルはきっと僕を軽蔑している。ミハエルのピアノの音はいつだって僕を救って呉れるけど、今はただこの躰を打つだけだ。
しばらく、豪雨に耐えていたら、不意にピアノの音がやんだ。
「妬けるな。」
ミハエルが云い、僕は吃驚した。身を起こす。
「え?」
「リヒャルトはそう云うことさせないんだと思っていた。」
息ができない。
ミハエルはさらに言葉を続ける。
「リヒャルトはいつもみんなを挑発して誘惑するけれど、誰のことも相手にしないですり抜けるだろ? いつだって、超然としている。だからさ、」
ミハエルはきっと僕を軽蔑している。それ以上聞きたくなくて、僕は云った。
「別に主義を変えたわけぢゃない。たいしたことぢゃないさ。挨拶程度。」
「ふうん。」
色のこもらないミハエルの声。
躰が冷たくなる。
ミハエルはきっと僕を軽蔑している。
「ハインリヒは僕に欲望なんか抱いたちゃいないよ。」
云い訳にならないとは思ったけれど、僕は云った。
ミハエルは首を竦める。
「それでも、妬けるな。」
僕は吃驚した。
先刻(さっき)は動揺して気が付かなかったけれど、そう云えば先刻(さっき)もミハエルはそう云った。
「妬ける? ミハエルが?」
あんまり吃驚したので、素直に吃驚した声が出た。
「どうして? リヒャルトはいつもみんなを誘惑するのに。俺のことだって、同じだろ?」
ミハエルは心外だとでも云うように云った。
「だって、」
僕は酷く驚いて、咄嗟に反駁した。
「だって、ミハエルは僕なんかに惑わされないでしょ?」
「どうしてさ。」
ミハエルは心からの調子で云う。そのさまがあんまり心からに思えたので、僕も心からの調子で云う。
「判るよ。ミハエルの眸(め)には熱がないもの。」
ミハエルは苦笑する。
「自制してるんだよ。」
その言葉を信じられたら、と思うけれど、とてもそうは思えない。
憂鬱に囚われそうになる。
「ねえ、そんなことより、ピアノを弾いて。」
寝転がる。追ってくるざわざわに捕まってしまわないように、降ってくる音に意識を集中する。
ミハエルは先刻(さっき)までとは打って変わって、流麗な曲を弾きはじめた。
流れるような旋律に心を懲らす。
訳もなく哀しい。
朝はあんなに完璧にはじまったと云うのに。
僕はあんなに完璧な少年だったのに。
あんなに完璧な<リヒャルト>だったのに。
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