おれたちの、距離

けふ

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【第一部】暁からの距離

5.かわった距離2


 約束の日、仕事は全然手につかなかった。
 時計を見るたび、理由もなく息を整える。何を期待しているのか、自分でも分からないまま。

 そして今。

 店に入って、向かい合って座る。

 一つのメニュー表を見ながら、あーでもないこーでもないと言っている香月を見て、違和感に気づいた。

 ――匂いが、違う。

 近づいた瞬間に分かるはずの、あの柑橘系の香りがしない。代わりに、甘さのある、どこか人工的な香りが、ほのかに漂っている。

 香水だ。

 それも、以前よりずっと、主張するタイプの。

「……変えた?」

 無意識に出た言葉に、香月が一瞬きょとんとする。

「あ、分かる? この前のクリスマスに」

 楽しそうに笑って、首元を軽く指で示す。

「彼女が選んでくれてさ」

 ――ああ。

 音が、消えた。

「……そう、か」

 声が、自分のものじゃないみたいに遠い。

「付き合い始めたの、最近だけどさ。なんか、今回はうまくいきそうな気がして」

 何度も聞いた台詞。
 なのに今回は、胸に落ちる重さが違った。

「香水も『大人っぽい方が似合うと思って』って。ごめん、暁、こういうの苦手だったよな?」

 言葉が、刃になって突き刺さる。

 全然似合ってない。そんな絡みつくような重い匂い。

 もっと軽くて、爽やかで、夏の燦々と輝く太陽の下で弾ける水しぶきのようなキラキラしたものが、似合うのに。

 昔から、人工的な香りが苦手だった。集団生活に混じる無数の香り。柔軟剤、整髪料、香水。どれも悪意はないのに、逃げ場がなかった。頭がズキズキ痛んで、異物を取り込まないように呼吸が浅くなるから。

 思春期真っ盛りの教室にも、様々な匂いが入り乱れていた。

 嗅覚をリセットするために持ち歩いていたシトラスブレンドの精油。気分が悪くなる度に教室を出て人目につかない場所でリフレッシュしないと、一日もたない。そんな細やかな秘密を香月に知られた時は、正直焦った。男が精油を持ち歩くことを恥ずかしく思っていたから。女々しいと揶揄われると思った。でも……

 その匂い、オレも好きだな。
 暁の側は落ち着くと思ってたんだけど、もしかしてコレのおかげ?
 知らないうちにオレにも効果あったのかも!

 それから、香月に近づくとふんわり柑橘系の香りがするようになった。

 オレも、同じの買ったんだ
 すっげぇ気に入ってさ
 これからしんどい時は、オレのとこに来いよ
 ひと息つくくらいは、できるだろ?

 いつもお守りみたいに持ち歩いていたソレを肯定してくれた、初めての人。

 俺にはあの香りが必要だった。
 だから、香月が「オレも好き」と言った時、嬉しかった。でも、その香りを、もう、香月は纏っていない。ただそれだけなのに、俺はずっと繋いでいた手を急に離された子どものような気持ちになった。裏切られた、とすら感じてしまった。

「前みたいに、しょっちゅう愚痴聞いてもらうのもさ、迷惑なんじゃないのって彼女に怒られたし。……どちらかというと、不安そうだったんだけど」

 笑いながら言う。

「だから、これからは暁に頼らなくてもいいように、ちゃんとしなきゃな」

 雷に撃たれたような衝撃だった。
 変わらないことに執着した俺とは反対に、香月は、前を向いている。新しい匂いを纏って、新しい手を取って、次の場所へ進んでいる。俺だけが、昔の香りの記憶にすがって、立ち止まっていた。

 現状維持は、退化だ。

 そんな言葉が浮かんで、心の中に沈んでいった。

 食事の味は、よく分からなかった。
 甘い香りが、喉の奥にまとわりついて、うまく咀嚼できない。視界がブレる。ガンガン痛むのは、頭なのか胸なのか。捨てられた、という言葉は正しくない。そもそも、俺たちは所有する、されるという関係性ではなかった。

 それでも。

 ――ここは、もう俺の居場所じゃない。

 それだけが、はっきりと分かった。
 店を出て別れる時、香月はいつも通りに手を振った。

「またな!」
「……ああ」

 いつもと同じように返した。
 ちゃんと、笑って。

 背中を向けた瞬間、胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。
 香りは、もう追いかけてこない。

 その事実だけが、やけに現実的で。
 人混みの中で立ち止まり、誰にも見られないように、ゆっくりと息を吐いた。

 ――これが、終わりか。

 そう思った時、不思議と涙は出なかった。ただ、何故だか暗闇のリビングで膝を抱えながら両親を待っていた小さい頃のことを思い出した。

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