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【第一部】暁からの距離
6.もどれない距離
どんな風に帰って来たのか、覚えてない。
洗面所で手を洗い、鏡を見上げる。
顔色は悪くない。目も赤くない。ちゃんと社会生活を送れる程度には、壊れていない。
蛇口を閉めた、その時。
ふと、指先に残った匂いに気づく。
さっき、メニュー表を指で押さえた時。香月が笑いながら身振りを交えた時、何気なく触れた手首。そこに、移っていた。
甘く、重く、人工的な香水。
彼女が香月のために選び、香月が彼女のために身にまとうと決めた匂い。
手を洗ったはずなのに、石鹸の向こう側に、まだいる。
もう一度、洗う。
強めに。
指の間まで、念入りに。
それでも、消えない。
流れ出る水をそのままに、なりふり構わずベッドルームへ走った。
ベッドサイドに置いた精油のビンを取り出して、フタを開く。
何よりも落ち着いて、優しくて、守ってくれていたはずの匂いが、何故だか今日は上手く吸えない。
目の奥が熱くなって、喉を焼かれた時のような引きつった息が漏れた。
早く嫌な匂いを消したくて、ビンを傾ける。
ぽたぽたとこぼれたのは、精油か、涙か、それとも思い出か。
これからは暁に頼らなくてもいいように、ちゃんとしなきゃな。
香月にとってあれは、終わりの言葉じゃない。
俺の存在を疎ましく思った香月の彼女が、俺との関係性に苦言を呈することは何度もあった。その度アイツは同じようなことを言って、距離を置いた。でも結局、彼女と別れたら、ボウリングして、元の関係に戻る。何度も繰り返してきた。
でも、今日だけはダメだった。香月が変わったわけじゃない。纏う匂いが変わっただけ。たったそれだけ。それだけの違いが、香月の中にもう俺は居ないんだって、取るに足らない存在なんだって知らしめる。
静かで、安全で、優しくて、
でも決して未来に連れて行かれない存在。
スマホが震える。
一瞬、期待してしまう自分に、遅れて嫌悪が追いつく。
通知は、仕事の連絡だった。画面を伏せる。
香月は、新しい匂いを纏い、新しい誰かと幸せになる。
そして俺は、アイツに選ばれなかった香りを、誰にも気づかれない場所で、静かに抱いて朽ちていく。
――忘れられないまま。
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