おれたちの、距離

けふ

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【第一部】香月からの距離

7.ずれはじめた距離


 目覚ましが鳴る前に目が覚めた。
 天井を見つめながら、理由もなく舌打ちする。

 特に変わったことはない。
 起きる時間も、顔を洗う順番も、コーヒーの量も、昨日までと同じだ。

 それなのに、どこかで歯車が噛み合っていない感覚だけが、起き抜けからまとわりついてくる。

『今年の恵方は南南東です』
『そもそも恵方というのは──』

 違和感を紛らわそうとつけたテレビは、やけに空々しく感じて、結局消した。
 シャツのボタンを留めながら、ふと手が止まる。

 このシャツ、暁と一緒に選んだやつだったな、とどうでもいいことを思い出した。

 別に、だからどうというわけでもない。
 もう選んでくれる人は他にいるし、洗濯だって困っていない。

 ただ、鏡に映る自分が、少しだけ雑になった気がした。

 会社では問題なく仕事をこなした。
 同僚とも普通に話したし、冗談も言った。
 昼休みには彼女からメッセージが来て、それにも返した。

『今日は遅くなる?』
『多分』

 それだけのやり取り。
 文字にすれば、何もおかしくない。

 けれど、送信ボタンを押したあと、胸の奥が妙に静まり返った。波が引いたあとの、何も残らない砂浜みたいな感覚。

 以前なら、ここで暁に一言投げていた。

 今日さ 
 なんでもないけど

 意味のないメッセージを、意味のないまま受け取ってもらえる相手が、確かにいた。
 それを思い出した瞬間、スマホを伏せる。

 ──いや、別に。

 いちいち親に報告する子どもじゃあるまいし。
 連絡しない日だって、いくらでもある。

 そう自分に言い聞かせて、午後の業務に戻った。

 夕方、コピー機の前で立ちくらみがした。
 一瞬、床が傾いた気がして、慌てて機械に手をつく。

「大丈夫?」

 声をかけられて、反射的に笑う。

「ちょっと寝不足」

 本当は、昨夜もちゃんと寝た。
 それなのに、体が自分のものじゃないみたいに重い。

 帰り道、ふとショーウィンドウに映った自分の顔は、疲れているというより、輪郭が曖昧だった。

 家に着いて、靴を脱ぐ。
 電気をつけた瞬間、部屋の空気に違和感を覚える。

 静かすぎる。

 テレビをつけても、音が馴染まない。
 キッチンで水を飲んでも、喉を通る感じがしない。

 以前は、こんなとき暁を呼んだ。
 何をするでもなく、ソファに座って、スマホをいじって、たまにどうでもいいことを言う。その存在が、どれだけ部屋を満たしていたのか──。

 慌てて首を振る。
 普通、こんな時に頼るのは恋人だ。脳裏に、ゴールドベージュの髪がよぎった。

 でも、呼ぶのも行くのも煩わしく感じて、結局電話をした。
 何かを埋めるみたいに今日あったことを話し、向こうの愚痴を聞いた。

『ちゃんと聞いてる?』

 そう言われて、慌てて相づちを打つ。
 聞いていなかったわけじゃない。ただ、言葉が頭の表面を滑っていくだけだった。

 通話を切ったあと、しばらくその場に立ち尽くす。

 ……誰といても、一人みたいだ。

 その感覚が、じわじわと胸の内側を浸食してくる。

 スマホを手に取って、暁の名前を探す。

 一度、画面を閉じて。

 もう一度開いて。

 結局、何も送らなかった。

 ベッドに横になり、目を閉じる。
 寝室には、かすかな柑橘系の香りが残っている。

 以前使っていた精油の残り香だと気づいたのは、電気を消してからだった。

 不快でも、懐かしくもない。
 ただ、少しだけ呼吸が楽になる。

 それが何を意味するのか、考えないまま。
 そのまま眠りに落ちた。
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