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廊下の向こうから、シエラの華やかな笑い声が聞こえてくる。何を言っているのかまでは聞き取れないが、普段よりもオクターブ高い声は良く通っていた。
一緒にいるはずのパーシヴァルの声は聞こえてこない。彼の穏やかな声は、シエラの透き通った声とは違いあまり遠くまでは届かないのだ。
「あっ……わたくし……なんて……なんてことを……」
真っ青な顔をして口元を抑え、肩を震わせるエリザから視線をそらす。
薄く開いた窓からは、エッゲシュタイン邸で働く人々のにぎやかな声が流れてくる。美しい庭を手入れしている彼らもまた、はじけるような笑い声をあげていた。
レースのカーテンが風に揺れ、柔らかく波打つ。施された繊細な刺繍が陽光を遮り、真っ白な壁に影を描く。
シャルロッテは暫くの間、カーテンが揺れるたびに踊るように動く影絵を見つめていた。
突然の言葉に停止していた思考が、緩やかに回り始める。
エリザの様子を見るに、悪意があって発したものではないことは分かっていた。シャルロッテを貶めたいがために言ったのならば、あんな風に動揺を表したりしなかっただろう。
(悪意でないなら、思わずこぼれてしまった本音ということになるけれど……)
なぜエリザがそんな思いを抱いていたのか。シャルロッテは考え込みながら壁際に置かれたサイドテーブルに歩み寄ると、グラスを二つ取りピッチャーから水を注いだ。コポコポと音を立てて満ちたグラスを一つ、エリザに手渡す。
まだ考えがまとまっていないため、彼女の顔を見ることができない。内心の動揺を顔に出さないように努めてはいるものの、不自然に跳ねる鼓動までは制御できない。普段よりも激しく心臓が拍動し、呼吸が浅く荒くなる。
シャルロッテは自身を落ち着かせるため、水をあおった。微かに震えていた指先が、手元を狂わせる。口の端から一筋水が滴り、シャルロッテは慌てて口元をぬぐった。
エリザは渡されたグラスを握りしめたまま、小さく震えていた。俯いた顔は気の毒なほど蒼白で、肩から滑り落ちたミルクティー色の髪がゆっくりとその表情を隠していく。
このまま、聞かなかったことにしてしまえれば楽だろう。しかし、いずれは解消されるとはいえ、シャルロッテはまだクリストフェル王の婚約者だ。王族の婚約者に対して、“エリザ”の名を持ち出したことを、見過ごすわけにはいかなかった。
「……なぜ、私が“エリザ”なら良かったのでしょうか? 私が“エリザ”なら、何が変わっていたのでしょうか?」
ことさら柔らかく言葉を発する。動揺を押し殺し、騒がしく脈打っていた鼓動を落ち着かせる。シャルロッテは全ての感情を一度自身の中から捨て去ると、慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
息をのむほど美しい笑顔に、エリザの震えが止まる。血の気が失せていた頬に赤みが戻り、虚ろだった瞳に光が宿っていく。エリザは暫し呆然とシャルロッテを見上げた後で、ふと我に返ると勢いよく水を飲み干した。
全身の空気を吐き出すように長い溜息を吐き、泣き笑いのような表情を浮かべると掠れた声で話し始めた。
「母は願いを込めて、わたくしに“エリザ”と名前を付けました。わたくしは、そんな母の願いを痛いほどよく分かっています。……ですがわたくしは、母の望む“エリザ”にはなれなかったのです」
一緒にいるはずのパーシヴァルの声は聞こえてこない。彼の穏やかな声は、シエラの透き通った声とは違いあまり遠くまでは届かないのだ。
「あっ……わたくし……なんて……なんてことを……」
真っ青な顔をして口元を抑え、肩を震わせるエリザから視線をそらす。
薄く開いた窓からは、エッゲシュタイン邸で働く人々のにぎやかな声が流れてくる。美しい庭を手入れしている彼らもまた、はじけるような笑い声をあげていた。
レースのカーテンが風に揺れ、柔らかく波打つ。施された繊細な刺繍が陽光を遮り、真っ白な壁に影を描く。
シャルロッテは暫くの間、カーテンが揺れるたびに踊るように動く影絵を見つめていた。
突然の言葉に停止していた思考が、緩やかに回り始める。
エリザの様子を見るに、悪意があって発したものではないことは分かっていた。シャルロッテを貶めたいがために言ったのならば、あんな風に動揺を表したりしなかっただろう。
(悪意でないなら、思わずこぼれてしまった本音ということになるけれど……)
なぜエリザがそんな思いを抱いていたのか。シャルロッテは考え込みながら壁際に置かれたサイドテーブルに歩み寄ると、グラスを二つ取りピッチャーから水を注いだ。コポコポと音を立てて満ちたグラスを一つ、エリザに手渡す。
まだ考えがまとまっていないため、彼女の顔を見ることができない。内心の動揺を顔に出さないように努めてはいるものの、不自然に跳ねる鼓動までは制御できない。普段よりも激しく心臓が拍動し、呼吸が浅く荒くなる。
シャルロッテは自身を落ち着かせるため、水をあおった。微かに震えていた指先が、手元を狂わせる。口の端から一筋水が滴り、シャルロッテは慌てて口元をぬぐった。
エリザは渡されたグラスを握りしめたまま、小さく震えていた。俯いた顔は気の毒なほど蒼白で、肩から滑り落ちたミルクティー色の髪がゆっくりとその表情を隠していく。
このまま、聞かなかったことにしてしまえれば楽だろう。しかし、いずれは解消されるとはいえ、シャルロッテはまだクリストフェル王の婚約者だ。王族の婚約者に対して、“エリザ”の名を持ち出したことを、見過ごすわけにはいかなかった。
「……なぜ、私が“エリザ”なら良かったのでしょうか? 私が“エリザ”なら、何が変わっていたのでしょうか?」
ことさら柔らかく言葉を発する。動揺を押し殺し、騒がしく脈打っていた鼓動を落ち着かせる。シャルロッテは全ての感情を一度自身の中から捨て去ると、慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
息をのむほど美しい笑顔に、エリザの震えが止まる。血の気が失せていた頬に赤みが戻り、虚ろだった瞳に光が宿っていく。エリザは暫し呆然とシャルロッテを見上げた後で、ふと我に返ると勢いよく水を飲み干した。
全身の空気を吐き出すように長い溜息を吐き、泣き笑いのような表情を浮かべると掠れた声で話し始めた。
「母は願いを込めて、わたくしに“エリザ”と名前を付けました。わたくしは、そんな母の願いを痛いほどよく分かっています。……ですがわたくしは、母の望む“エリザ”にはなれなかったのです」
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