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想いの形
しおりを挟む夏の午後、蝉の声が遠くで一瞬響いては、しばらく静寂が続く。
結は、いつものように灯影書房の扉を押した。
鈴の音が鳴り、店内の空気が結を迎え入れる。
「暑いね」と草壁がさほど暑さによる苦しさなど感じさせない様子で言った。
「……はい。でも、ここは涼しいです」
「本が空気を吸ってるからね。紙って、湿気をよく吸うんだ」
結は、詩集の棚の前で立ち止まりながら、ふと尋ねた。
「草壁さんは、どうしてこの店を始めたんですか?」
草壁は、少しだけ驚いたように目を細めた。
「……昔、教えてたんだ。高校で。国語」
「知ってます。前に、手紙を見せてくれたから」
草壁はうなずいた。
「教えるのは好きだった。でも、いろいろあって、やめた。それでも、本だけは手放せなかった」
「……本って、誰かに教えるためのものじゃなくても、誰かを支えるものですよね」
草壁は、結の言葉に少しだけ笑った。
「そうだね。誰かの心に、静かに残るものだ」
その日、結は店の奥にある読書スペースで、詩集ではなく随筆を読んでいた。
草壁は、カウンターの奥でコーヒーを淹れながら、ふと口を開いた。
「君は、言葉を大事にするね」
「……言葉に助けられたことがあるから」
「誰かに?」
「……たぶん、自分に」
草壁は、しばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「お父さんが出て行った時、私は許せませんでした」
その結論に至った父と、母を。
そして、何も言えなかった自分を。
「嫌だと泣き喚けば。言葉にすれば、もしかしたら変えられたかもしれない。でもしなかった」
草壁は黙っていた。
草壁の淹れたコーヒーの香りが結の記憶と結びついた。
結の父親はコーヒーが好きだった。だから結はコーヒーが嫌いだった。
でも、この場所では。
静かな言葉に包まれた灯影書房では、現実を少し忘れさせてくれる芳醇な香りも、心の中のモヤを晴らしてくれる優しい苦味も、結は自然と受け入れていた。
「言葉にしなかった私は、もしかしたら本の世界に逃げていただけなのかもしれないけど」
本の中のいろんな言葉が、自分に形を与えてくれたように感じたのだと結は言った。
「でもそれって、その言葉を私が受け入れたからなんだと、ここに来るようになって思えた」
結はコーヒーを少し啜った。
「だから、言葉は人を傷つけることも救うこともあるのかもしれないけど、言葉は言葉だけじゃたぶんまだ力は持っていなくて。どんなに想いや思想や気持ちがこもった言葉でも、受け手側の準備というか、体勢が必要なんだなって」
草壁は穏やかな表情で頷いた。
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