6 / 123
序章 ガビと少年
少年とガビ
しおりを挟む
完全に不意を突かれ、呼吸も忘れながら声のした方を向くと、背の高い男がこちらを見据えていた。
薄暮れの空から辛うじて届く明るさで見えた男の貌は、彫りが深くエキゾチックな顔立ちに差した濃い影と、無造作に生やした髭の印象で、小学生を恐怖に震え上がらせるには充分で、羽龍は泣きそうな顔で俺を見ていた。俺もきっと、泣きそうな顔で羽龍を見ていたのだろう。
だけど、男の瞳が妙に輝いているように見え、いつの間にか羽龍ではなく男の瞳に見入っていたことに気づく。
恐怖心は消えてはいなかったが、世間で言われている顔の良さの基準とは別の領域で、生き物として「美しい」と思ってしまっていた。
「すみません! 僕たちは二丁目の小学校の六年生です。僕は北村羽龍、こっちは高天暁と言います」
先に立ち直ったのは羽龍だった。
羽龍はいつも柔らかく笑みを浮かべているような表情で、性格も優しく一部の女子には王子様なんて呼ばれて人気があった。
しかし実は芯が強く、ここぞという時に頼りになることを俺は知っている。
クラブチームではふたりともフォワードだが、ポジション争いの相手というよりはコンビとして起用されるケースが多かった。
ツートップのフォーメーションではここ数年は必ずふたり揃ってスターティングメンバーになっていた。
俺も羽龍も点取り屋を自任していたが、羽龍はアシストにも長け、俺をうまく使ってくれていると思うことも多い。
しかし、ここぞという時の得点力はチームトップの俺(と言っても羽龍のアシストのお陰もあるのだが)に迫っていて、特に絶対外せないような場面のフリーキックにおいて、チーム内で最も得点率が高いのは羽龍だった。
羽龍は、柔らかな見た目とは反した、胆力を秘めた男なのだ。
「勝手に入ってすみませんでした!」
羽龍のお陰で我に返れた俺も、元気な声で礼儀正しい子どもとして見てもらえるように努める。
「ウリウ? アキラ?」
言い難そうだ。
日本人ではないように思えた。
「はい! 友達はウリって呼んでます!」
「俺はアキとか、アキラとか」
交互に言う俺たちを、男は優しい目で見ていた。
「OK、futebol好き?」
少し聞き取りにくかったが、サッカーが好きかを尋ねられたのはわかった。
男は自分が異国の地で子どもに威圧感を与えると思っているのだろうか。ゆっくりと、穏やかな声で語りかけてくれた。
「YES!」
男の言葉は英語ではないような気がしたが、とにかく日本語よりは歩み寄りの姿勢を見せられると考えて英語で答えた。
男の表情や話し方、声のトーンなどから、好意的であることは俺たちにもよく理解できた。
「ボール、貸して」
男はにこにことした顔でパスを寄越すよう手招きをした。俺は5号ボールを足でパスする。
「ナイスパス」
男はパスを止めず上にふわっと蹴り上げ、ヘディングでもう一度リフトし、落ちてきたボールを首で止め、そのまま肩へと転がし、肩でもう一度リフト、落ちてきたボールをバイシクルぎみのボレーで壁に打ちつけた。
跳躍して斜め上から袈裟斬りのように弧を描いた脚は、着地地点でちょうどコンクリートの地面付近に来ていて、腕や手を含めた全身ので地面に着地し、エネルギーを逃がす。
斜め上から壁面の下方に打ち付けられたボールはすぐ下の地面に向かって跳ね返り、地面から更に天井に向かって大きく跳ね返ったボールは高い放物線を描き落下してきていた。
着地した男は一瞬の膠着が解けると、ボールの落下地点に身体を入れ、クッションのように胸でトラップし、すとんと足元に落とした。
感嘆の声も出ない。
短時間にあらゆる感情を揺さ振られて脳が追い付かなかった。
男からパスが返ってくる。鋭いが受け取りやすいパスだった。
「私はガビ。
ウリ、アキ、よろしく。ここは使われていないから、スペースでフットボールはOK。
だけど、子どもたちだけで遊ぶのは良くない。
もう動く機械はないけど、それでも危ないよ」
日本語と、日本語化したカタカナ英語で話してくれて、先ほどよりもよく聞き取れた。
想像よりも日本語を習得しているのかもしれない。
ガビはここをたまたま通りがかった通行人というわけではなさそうだ。
工場の元従業員だろうか。いずれにしても使われていない工場に用がありここに来ている。
つまり、「俺たちのもの」にするのは無理がありそうだった。
「空いているところでやるのはOKってことですよね?」
羽龍が言う。
そう、練習することを拒否されてはいない。出て行けとも、二度と来てはいけないとも言われてはいない。
食い下がる余地はありそうだ。子どもたちだけではだめというのならば、大人が居れば良いのだろうか。親、コーチ、担任の先生……身近な大人の姿が浮かんだが、平日の日中に俺たちの個人的な練習に付き合うのは現実的ではなく、心情的にも身近な大人たちに頼むのはなんだか嫌だった。
秘密基地は大人に内緒だから楽しいのだ。ならば、どうする?
「sim、私がいる時なら良いよ」
考えを巡らせるまでもなく、ガビから最高の答えを聞くことができた。最初はとても恐ろしく見えたガビの顔は、微笑むと天使のように優しそうに見えた。
「やった! ガビはいつ居るの?」
「サッカーも教えてよ!」
ガビの人懐こい笑顔の影響か、俺たちはいつの間にか敬語は使わなくなっていた。
「毎週二回か三回、来るよ。平日にね」
土日以外で特に決まった曜日は無く、時間は大体夕方頃ということだった。
ガビがいる時間しかできないのに、いる時間がわからないのは困る。詳しい事情はよく分からなかったが、やはりここは廃工場で今は動いていないものの、片付けなどの作業があるらしい。
また、シャッターが壊れていて工場内に自由に出入りできてしまうので、今の俺たちのように勝手に入り込む者がいないか定期的に様子を見に来ているのだと言う。
ガビは比較的時間を自由に使えるようで、俺たちの都合に合わせてくれることになった。それどころか、ガビが作業をしていない時間は練習を見てくれると言ってくれた。
土日はクラブチームの練習があるので、平日なのもありがたかった。
俺と羽龍は月曜と木曜に同じ学習塾に通っている。火曜、水曜、金曜の午後四時から午後六時までの時間をこの場所で過ごすことにした。
薄暮れの空から辛うじて届く明るさで見えた男の貌は、彫りが深くエキゾチックな顔立ちに差した濃い影と、無造作に生やした髭の印象で、小学生を恐怖に震え上がらせるには充分で、羽龍は泣きそうな顔で俺を見ていた。俺もきっと、泣きそうな顔で羽龍を見ていたのだろう。
だけど、男の瞳が妙に輝いているように見え、いつの間にか羽龍ではなく男の瞳に見入っていたことに気づく。
恐怖心は消えてはいなかったが、世間で言われている顔の良さの基準とは別の領域で、生き物として「美しい」と思ってしまっていた。
「すみません! 僕たちは二丁目の小学校の六年生です。僕は北村羽龍、こっちは高天暁と言います」
先に立ち直ったのは羽龍だった。
羽龍はいつも柔らかく笑みを浮かべているような表情で、性格も優しく一部の女子には王子様なんて呼ばれて人気があった。
しかし実は芯が強く、ここぞという時に頼りになることを俺は知っている。
クラブチームではふたりともフォワードだが、ポジション争いの相手というよりはコンビとして起用されるケースが多かった。
ツートップのフォーメーションではここ数年は必ずふたり揃ってスターティングメンバーになっていた。
俺も羽龍も点取り屋を自任していたが、羽龍はアシストにも長け、俺をうまく使ってくれていると思うことも多い。
しかし、ここぞという時の得点力はチームトップの俺(と言っても羽龍のアシストのお陰もあるのだが)に迫っていて、特に絶対外せないような場面のフリーキックにおいて、チーム内で最も得点率が高いのは羽龍だった。
羽龍は、柔らかな見た目とは反した、胆力を秘めた男なのだ。
「勝手に入ってすみませんでした!」
羽龍のお陰で我に返れた俺も、元気な声で礼儀正しい子どもとして見てもらえるように努める。
「ウリウ? アキラ?」
言い難そうだ。
日本人ではないように思えた。
「はい! 友達はウリって呼んでます!」
「俺はアキとか、アキラとか」
交互に言う俺たちを、男は優しい目で見ていた。
「OK、futebol好き?」
少し聞き取りにくかったが、サッカーが好きかを尋ねられたのはわかった。
男は自分が異国の地で子どもに威圧感を与えると思っているのだろうか。ゆっくりと、穏やかな声で語りかけてくれた。
「YES!」
男の言葉は英語ではないような気がしたが、とにかく日本語よりは歩み寄りの姿勢を見せられると考えて英語で答えた。
男の表情や話し方、声のトーンなどから、好意的であることは俺たちにもよく理解できた。
「ボール、貸して」
男はにこにことした顔でパスを寄越すよう手招きをした。俺は5号ボールを足でパスする。
「ナイスパス」
男はパスを止めず上にふわっと蹴り上げ、ヘディングでもう一度リフトし、落ちてきたボールを首で止め、そのまま肩へと転がし、肩でもう一度リフト、落ちてきたボールをバイシクルぎみのボレーで壁に打ちつけた。
跳躍して斜め上から袈裟斬りのように弧を描いた脚は、着地地点でちょうどコンクリートの地面付近に来ていて、腕や手を含めた全身ので地面に着地し、エネルギーを逃がす。
斜め上から壁面の下方に打ち付けられたボールはすぐ下の地面に向かって跳ね返り、地面から更に天井に向かって大きく跳ね返ったボールは高い放物線を描き落下してきていた。
着地した男は一瞬の膠着が解けると、ボールの落下地点に身体を入れ、クッションのように胸でトラップし、すとんと足元に落とした。
感嘆の声も出ない。
短時間にあらゆる感情を揺さ振られて脳が追い付かなかった。
男からパスが返ってくる。鋭いが受け取りやすいパスだった。
「私はガビ。
ウリ、アキ、よろしく。ここは使われていないから、スペースでフットボールはOK。
だけど、子どもたちだけで遊ぶのは良くない。
もう動く機械はないけど、それでも危ないよ」
日本語と、日本語化したカタカナ英語で話してくれて、先ほどよりもよく聞き取れた。
想像よりも日本語を習得しているのかもしれない。
ガビはここをたまたま通りがかった通行人というわけではなさそうだ。
工場の元従業員だろうか。いずれにしても使われていない工場に用がありここに来ている。
つまり、「俺たちのもの」にするのは無理がありそうだった。
「空いているところでやるのはOKってことですよね?」
羽龍が言う。
そう、練習することを拒否されてはいない。出て行けとも、二度と来てはいけないとも言われてはいない。
食い下がる余地はありそうだ。子どもたちだけではだめというのならば、大人が居れば良いのだろうか。親、コーチ、担任の先生……身近な大人の姿が浮かんだが、平日の日中に俺たちの個人的な練習に付き合うのは現実的ではなく、心情的にも身近な大人たちに頼むのはなんだか嫌だった。
秘密基地は大人に内緒だから楽しいのだ。ならば、どうする?
「sim、私がいる時なら良いよ」
考えを巡らせるまでもなく、ガビから最高の答えを聞くことができた。最初はとても恐ろしく見えたガビの顔は、微笑むと天使のように優しそうに見えた。
「やった! ガビはいつ居るの?」
「サッカーも教えてよ!」
ガビの人懐こい笑顔の影響か、俺たちはいつの間にか敬語は使わなくなっていた。
「毎週二回か三回、来るよ。平日にね」
土日以外で特に決まった曜日は無く、時間は大体夕方頃ということだった。
ガビがいる時間しかできないのに、いる時間がわからないのは困る。詳しい事情はよく分からなかったが、やはりここは廃工場で今は動いていないものの、片付けなどの作業があるらしい。
また、シャッターが壊れていて工場内に自由に出入りできてしまうので、今の俺たちのように勝手に入り込む者がいないか定期的に様子を見に来ているのだと言う。
ガビは比較的時間を自由に使えるようで、俺たちの都合に合わせてくれることになった。それどころか、ガビが作業をしていない時間は練習を見てくれると言ってくれた。
土日はクラブチームの練習があるので、平日なのもありがたかった。
俺と羽龍は月曜と木曜に同じ学習塾に通っている。火曜、水曜、金曜の午後四時から午後六時までの時間をこの場所で過ごすことにした。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
3
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる