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森のざわめき、羽音
しおりを挟む畑仕事を終えて家に戻ると、アリエルの姿がなかった。
鍬を立てかけ、水桶を置く。
家の中を見渡しても、気配はない。
埃の舞う薄暗い部屋に、ただ静けさが広がっているだけだ。
自然と焦りは湧かなかった。
彼女は時折、ひとりで村の外れまで歩くことがある。
湖のほうか、森の縁か、そのどちらかだろう。
そんな習慣を、俺はもう知っていた。
いつものように、自然な流れで家を出た。
森に入ると、木々の間を抜ける風の音に混じって、かすかな声が聞こえた。
二人分の話し声。
片方は低く抑揚のない男の声。
もう片方は、アリエルの声だった。
俺は無意識に木々の影に身を隠し、音のほうへ近づいた。
姿は見えない。
枝葉が視界を遮る中、声だけが断片的に耳に届く。
「……だから、繰り返してはならない」
男の声は低く、厳しかった。
まるで、長い間溜め込んだ言葉を吐き出すように。
「分かっています……」
アリエルの返事は小さく、けれどはっきりしていた。
胸の奥が、ひくりと鳴った。
「……あの時と同じことを繰り返すのか……!」
男の声が張り詰める。
怒りとも、悲しみともつかない感情が、言葉の端々に滲んでいる。
途切れ途切れの単語に、俺の頭に幼い頃に聞いた童話が浮かんだ。
——人ならざる者が、ひとりの男を愛した話。
——禁忌を犯した二人が逃げ惑い、神の怒りに触れた。
——そして、怒った神が、人間も世界をも滅ぼした。
馬鹿げている、と俺は思う。
ただの童話だ。
アリエルは、ただ少し不思議なところのある少女なだけ。
それ以上のものではないはずだ。
「……お兄様、それでも私は……」
最後まで聞き取れなかった。
だが、アリエルが声の主を「お兄様」と呼んだことだけは、はっきり耳に残った。
なぜか、その一言が胸をざわつかせた。
次の瞬間、
バサバサッ
空気を切り裂くような大きな音が響いた。
風が巻き起こり、木々が激しく揺れる。
羽音のようにも聞こえたが……鳥だ。
大きな鳥が飛び立っただけだろう。
その時の俺は、そう思うことにした。
森は、何事もなかったかのように静まり返った。
家に戻ると、アリエルはもうそこにいた。
夕餉の準備をしている。
囲炉裏の火が揺れ、彼女の横顔を優しく照らす。
いつもと変わらない、穏やかな表情で鍋をかき混ぜている。
「遅かったな」
声をかけると、彼女は振り返って微笑んだ。
「少し、散歩をしていました」
それ以上は、何も言わなかった。
俺も、何も聞かなかった。
それからの日々は、穏やかに続いた。
朝、畑に出て。
昼、並んで食事をし。
夜、同じ部屋で眠る。
変わらない日常が、そこにあった。
だが、言葉と沈黙の配分が、少しずつ変わっていった。
ある日、洗濯物を干しているアリエルの背に、
夕陽が差し込んだ瞬間——
アリエルの背中に、淡く、白い羽のような形が見えた気がした。
光の加減か、影か。
俺は瞬きをすると、もう何もなかった。
……疲れているだけだ。
光の加減だ。
溜息をついて、そう思うことにした。
そう思いたかった。
聞かなければ、壊れない。
見なかったことにすれば、この生活が変わることはない。
俺は今日も、何も言わず、
アリエルの隣に立ち続けた。
彼女の細い指が、俺の手をそっと握る。
その温もりが、静かに胸に染み込む。
この穏やかな時間が、まだ続くものだと、
俺は信じていた。
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