if…

yuki

文字の大きさ
34 / 36
第2章 夏

23. (Ray side)

しおりを挟む
嵐から始まった、夏が終わる。

目まぐるしい毎日に
日々カタチを変えていく気持ち。

俺が玲奈にしてあげられること。
玲奈が俺に与えてくれるもの。

いつもどんな時でも
玲奈に
何をしてあげればいいかを考えていた。

玲奈の笑顔が見たくて
その太陽のように輝く笑顔を
俺だけに向けてほしくて。

嵐のあとの凪いだ心に
それ以上のものを与えてくれた玲奈に
俺は何をしてあげればいい?




夏休みもあっという間に最終日を迎えていて。
いつもの長期休暇だと、ドイツでのんびりからの慌ただしく日本へ、バタバタしたまま学校へっていうパターンなわけだけど。
今回はそれもなく、ただただのんびりと過ごせていた。

いつものようにピアノの練習をしていると、父さんが部屋に入ってきて隣に立つ。
「…バラードか。いい曲弾けるようになってるね」
「でも難しい」
弾いていた手を止めて答える。
玲奈と久しぶりに寝たあの日。
この曲を今度弾いてと言われたけれど、パッと弾いてあげるには難しめの曲で。
それで今、玲奈が出掛けて居ない隙に練習をしていた。
「何でこの曲の練習してるの?ブラームスってあんまり弾いてあげたことないと思うんだけど」
隣にイスを持ってきてそれに座った父さんに、不思議そうに聞かれる。
「こないだ玲奈と聴いて、カッコいいなと思って」
「どこで聴いたの?」
「家で。スマホで」
「え?自分で検索して聴いたってこと?」
「あー…。玲奈と出掛けた時に、間奏曲を弾いてるところに出くわしたんだよね。それで家に帰ってそれを聴いてたら、続きで出てきたの。曲聴いたのも子どもの頃以来だなって、弾いてみたいなって思ってさ」
「そっか。…最近、ふたりとも昔みたいに仲良しに戻ったよね。ずっと距離ができたままだったから心配してたんだよ」
やっぱりそうだよね、親としては心配だよね。
父さんも母さんも、これまで俺たちのことに関しては何も言ってこなかったけど。
小さな頃からずっと仲良しだったのに、3年前のあの日からしばらくは、俺と玲奈は会話もろくにしなかった。
なんとか取り繕って、普通に接することができるようになっても、一定の距離はあったし。
こないだ、ソファでくっついて寝てるところを見て、父さん驚いたんじゃないかなって思ってた。
「何か仲直りできるようなことがあったの?」
「誤解が解けたというか…」
「そう、それはよかった。家族だからっていっても、口にしないと分からないことってあるからね」
父さんはそう言って微笑む。
…そうだよな。
あの時、俺がもっとしっかりしていて、玲奈に本心でぶつかっていければ、何年もこじらせなかったわけで。
今後はきちんと、思ってることを言い合えるようにしていかなくちゃな…って思う。
「まあ、父さんたちは、2人に対してどこまで介入していいのか分からなかったんだけど。2人とも何も言ってこないし。見守るって中々辛かったから、仲良しに戻ってくれてよかったよ」
いつも父さんが玲奈にするのと同じように、ポンポンと頭を撫でられた。
「さーて、練習再開する?」
楽譜を最初のページに戻しながら、父さんは俺を見る。
「父さん、お手本で弾いてよ」
「いいよ」
快諾してくれた父さんにイスを譲った。
…あのコンサートの時の父さんを考えたら、こんなのすごく贅沢なんだよな。
みんながお金を払ってでも聴きたいと思うような人に、いくらでも弾いてもらえて練習つけてもらえるんだもんな…。
「ものすごく久しぶりに弾くから、あんまり自信ないけど。指覚えてるかな」
父さんは楽譜をパラパラと捲りながら、音を確認する。
「そう言って、いつもなんでも楽々弾くじゃん」
「それは難易度低いやつだよ。伶こそ、ワルトシュタイン弾けるなら、これだってそんなに難しくないでしょ」
「ベートーベンのソナタは好きだから。弾いてる量の問題」
口答えする俺を父さんは笑う。
楽譜を譜面台に戻すと、『お父さん』から『先生』の顔になっていた。
「2回弾くから、よく聴くのとよく見るのと、両方やってね」
「分かった」
返事をすると、父さんはピアノの方を向いて、鍵盤を鳴らした。

…やっぱり。
自信ないと言ってたけど、間違えもしないし、ものすごくカッコいい。
この『音』に夢中になる気持ちが分かる。
1回目は普通にただ弾いてくれて、2回目は弾き方を解説しながら弾いてくれた。
「この曲はこの出だしの部分を繰り返すから、ここでキチンと音がとれたら大丈夫。左手の下の音が重たくて、それから上に抜けるように、上がりきった時の音はしっかりとる。それから…」
解説だけで、頭がいっぱいいっぱいになってしまいそうだ。
聴いて、音の強弱やメリハリ、流れる部分を確認して。
見て、指の運び方やタッチの深さを確認する。
父さんのお陰で、1人で練習するよりもはるかに早く上達しそうな気がした。
「…ハイ。弾き方分かった?」
「うん。ありがとう」
お礼を言うと、父さんはにっこり笑って、イスを空けてくれた。
「父さんすごいね。よくあんなに喋りながら間違えずに弾けるよね」
「そりゃあ、一応これで生活してるからねえ。まあ、伶も玲奈も、俺の事は少しピアノが弾けるオジサンくらいにしか思ってないだろうけど」
「何で知ってるの」
「あはは。これでも2人のお父さんだから」
内心ドキッとした俺を、父さんは笑い飛ばす。
ステージに立つ父さんはものすごくカッコイイけど、俺は普段の方が好きだ。
「少しピアノが弾けるオジサンなのが俺たちの父さんだから、そのままでいてよ。ステージの上ではめちゃくちゃカッコイイけど、知らない人みたいで嫌だ」
「…なんだ。伶もかわいいこと言うなあ」
「カワイイってなに!」
からかわれたような気分になる俺の隣で、嬉しそうな顔の父さん。
このまま会話を続けてると、何だか墓穴を掘りそうで、口を閉じて鍵盤を押した。

指導してもらいながら練習をして、しばらく経った頃。
「うん、いいね」
通しで最初から最後まで弾いたところで、父さんが頷いた。
「それだけ弾ければ、玲奈も満足するんじゃないかな」
そう言って俺を見て笑う父さんに、少しだけ焦ってしまう。
「…何でここで玲奈が出てくるの」
「むかしから伶がピアノを弾くのは、玲奈のためでしょ。ここ数年、距離ができてた時だって、いつも弾いてあげてたし。この曲だって、玲奈に弾いてって言われたんじゃないかなーと思って」
「エスパーなんじゃないの…」
「あはは。伶は玲奈の事になると分かりやすいからねえ」
本当、何でもお見通しだよ。
普段顔合わせないのに。
いや、普段からあんまり会わないから、よく気がつくのか?
玲奈とのこと、気をつけないと危ないかな…。
「さ、練習はこの辺にして、お茶でも飲む?」
「ん…」
父さんに続いてイスから立ち上がった。

2人でリビングに戻って、コーヒーを飲む。
玲奈と母さんは、女子だけでお買い物へ行くから!と昼過ぎから出掛けて行っていて、家の中は静かだ。
「夏休みも今日で最後だね。楽しめた?」
「うん。色々出掛けられたし、楽しかったよ」
父さんの質問に頷きながら、最近のことを思い浮かべる。
いつものドイツの夏と比べて、盛りだくさんな夏だったな。
プールに花火にかき氷に、父さんのコンサート見に行って、玲奈とデートして、りっちゃんと遊び回って。
「…あのさあ」
言おうか言うまいか迷ったけど、父さんに話しかけた。
「どうした?」
「3年前…、玲奈が学校に行かなくなった時があったでしょ。玲奈、あの時から数日前まで、目に映るものがキレイに見えなかったって言ってたんだ」
「ええ!?」
さすがに驚いたのか、父さんは持っていたコーヒーカップをテーブルへ置く。
「キレイに見えなかったってどういうことなの」
「俺もよく分かんないんだけど、世界がグレーっぽく、どんよりした感じに映ってたって言ってた」
そう伝えると、父さんは何も答えずに黙り込む。
少ししてから俺の顔を見た。
「父さんたちが帰ってきた日の朝。伶と透くんが庭でびしょ濡れになってた時に、玲奈に庭の花はこんなにキレイだったか聞かれたんだ。それって、元に戻ったってことなのかな」
「うん、そうだと思う。あの日、色が鮮やかに見えるようになったって言ってた」
「そうか…」
父さんはそれだけ言うと、残っていたコーヒーをまた飲みだした。
もしかして、父さんを困らせるだけだったかな。
言わない方がよかったのかも?とか色々考えていると、頭をわしゃわしゃっと撫でられる。
「よし!伶、花火買いに行こう」
「え?」
おもむろに立ち上がる父さんに、驚く俺。
花火を買うって…?
「日本では、夏に手持ち花火をするんだよ。せっかくだから、玲奈に色鮮やかな夏の思い出を作ってあげよう」
「どこでするの?」
「庭だよ。ドイツみたいに外で爆竹投げたりしないの」
「そーなんだ。全然、想像つかないんだけど…」
「夏はいつもドイツだったもんね。じゃあ伶も楽しみにしてて。ホラ行くよ!」
急かされて立ち上がる。
そのまま車に乗って、出発した。

日本に来て3年以上経っても、知らないことだらけでびっくりだ。
ドイツは、花火は年末にしか売ってないし、その時しかできない。
そもそも年末は父さんも母さんも仕事でいないから、手持ち花火なんてもの自体をやったことがないんだよね…。
日本の花火って、どんなのだろ。
「てか、どこで売ってるの?」
「え?コンビニやスーパーとかにも置いてあるけど。見たことない?」
「気にしたことすらなかったから…」
「そっか。まあ、父さんも家で花火するなんて子どもの頃以来だけどね。今はいろんな花火が置いてそうだなあ」
車を運転する父さんの横顔は楽しそうで、ワクワクした気持ちが滲み出ている。
そんなに楽しいのかな?
イマイチよく分からないままお店に連れて行かれて、花火のコーナーへ行った。
ズラリと並ぶ花火にびっくりする。
「おおー!たくさん種類があるね。どうせ瑠華も喜んでやるだろうから、多めに買っていこう」
2人でアレコレ言いながら選んだ。
帰りに、やっぱりスイカも必要かな~と言う父さんとスーパーに寄って。
荷物が重いから迎えに来てと連絡をしてきた、母さんと玲奈を迎えに行った。

2人を迎えに行くと、こないだりっちゃんとたくさん買い物したのに、また大量のショップバッグ…。
女の子は買い物好きだな、って父さんも苦笑い。
「涼ちゃんと伶は何してたの?」
荷物を積んで車が走り出したところで、母さんが俺たちにそう尋ねる。
「伶と花火買ってきたよ。あとで庭でやろう」
「え!ほんと?お庭で花火って、小学生の頃、お兄ちゃんとして以来かも」
「…瑠華、それって、手に持ってやる線香花火とかの話だよね?」
「うん、2人でしたからそういうやつ」
「同じものでヨカッタ」
…母さんはお嬢様だからな。
たまに父さんが、母さんと話が噛み合わないって嘆いていることがある。
「ネズミ花火してて、ばあやに怒られた!懐かしい」
喜んでいる母さんの顔を見て、父さんも嬉しそう。
そんな中、玲奈は不思議そうな顔。
「花火っておうちでできるものなの?ネズミ花火ってなあに?」
俺と同じ疑問。
庭で花火をするっていう感覚がよく分からないし、センコウ花火とかネズミ花火っていう単語もよく分からない。
「おうちでできる花火だから、楽しみにしてていいわよ」
母さんはにっこり笑顔で玲奈にそう言うと、すぐに父さんの方を向いて、昔の懐かしい花火の思い出を2人で話し出す。
仲良いよな~って、言葉には出さなかったけど、玲奈と2人で顔を見合わせて笑った。

家に帰に着くと、やっぱり玲奈は疲れているのか、すぐにソファで横になる。
父さんと母さんは一緒に晩ごはんを作っていて、何もすることがない俺は、テレビをつけて玲奈のすぐそばに座る。
すると、玲奈がもぞもぞと動いて、俺の膝に頭を乗せてきた。
「…今日、父さんに、俺と玲奈が昔みたいに仲良しに戻ったのはどうしてかって聞かれたよ」
「私もママに、伶とソファでくっついて寝てたって、パパから聞いたけどって言われた」
「2人とも勘がいいから、気をつけないとね」
「膝枕はダメってこと?でも昔からよくしてたよ」
拗ねた顔をする玲奈が可愛い。
玲奈は甘えたがりだから、確かにこういうのは日常茶飯事で、それについては何も言われないと思うけどね。
「…そうじゃなくて、こーゆーコトしたくなる気持ちを、抑えなきゃな~っていうハナシ」
玲奈の手をとって、その甲にキスをした。
「伶!」
「大丈夫。2人はキッチンでいちゃついてるから、こっちなんて見てない」
「…もうっ」
プイと俺から顔を背けてテレビの方を向いた玲奈は、俺の手をぎゅっと握ったままだ。
可愛くて思わず笑ってしまう。
玲奈は甘えん坊だけど、俺もこんなにくっついていたいと思うなんて、相当だよな。
もう、2度とこの手を離したくない。
前までは当たり前だと思っていたことが、そうではなくて。
玲奈とこうしてくっついていられる事は、ものすごく特別で幸せな事なんだな…と思う。
しばらくそのまま、幸せを噛みしめた。
「今日、買い物たのしかった?」
「うん。色んなものがすごくキラキラしてるように見えた!」
さっきまでとは打って変わって、笑顔で俺を見上げる玲奈。
「ママとカフェでケーキ食べたんだけど、それが宝石みたいに見えて。あ、あとで写真見せるね。それでね…」
今日一日あったことを楽しそうに話す。
これまでは、同じものを見ていても、玲奈にはキレイに見えていなくて。
だけど今、同じものを見たとしたら、俺の目に映る世界よりも、玲奈の目に映る世界の方が輝いて見えるんだろうな…。
そう思えるくらい、玲奈は生き生きとした表情をしていた。


「いい?ふたりとも、人の方に向けたりしないようにね」
小さな子に注意するように、父さんにそう言われた。

晩ごはんを食べ終わって、みんなで庭に出て。
初めて花火を手に持つ。
俺と玲奈の花火に、父さんがそれぞれ火をつけてくれた。
どんなものか想像すらついてない俺たちは、無言でその花火の先を見つめる。
「…わあ!すごい!キレイ!!」
少しだけ待つと、鮮やかな光が飛び出してきて、玲奈が声をあげた。
花火を見つめる玲奈の瞳に映る、きらめく光が美しい。
「キレイだね、伶」
玲奈に笑顔を向けられて、それに頷く。
「日本の夏も楽しいでしょ~」
母さんが俺の花火に、火がついていない花火をかざす。
何してるんだろ?と思っていると、俺の花火とは違う色の火花が飛び出した。
…そうやって火をつけるのか。
「消えちゃった」
隣にいる玲奈が少し寂しそうに、火が消えた花火を見つめる。
「終わった花火はこっち。たくさんあるから、好きなだけやりなさい」
終わった花火はバケツの水につけて。
新しいものを玲奈と選ぶ。
「涼ちゃん買いすぎじゃない?」
「伶も玲奈も初めてだし、瑠華もたくさんするかなって思って。それに俺もやりたい」
「父さんは俺よりもノリノリで選んでたの」
「じゃ、涼ちゃんのオススメのものはどれ?」
「コレ!」
父さんと母さんも、童心に返ったように楽しんでいた。
玲奈に思い出をって言ってたくせに。
父さんも楽しい思い出が欲しかったってことだよな。
家族揃って何かするって、ものすごく久し振り。
もともと4人揃うことが少ないし、2人が日本へ帰ってきても、仕事で地方に行ったりして、家族の時間を過ごせることが稀。
「…ねえ、伶」
花火を持ってない方の手で、玲奈が俺のTシャツを引っ張る。
「ん?」
「コレでこんなにキレイだったら、この前みんなで見た花火は、もっともっとキレイだったってことだよね」
少しだけ残念そうな表情の玲奈。
どう言ってあげればいいか分からず、頭を撫でた。
「…来年、また行こうよ」
そう誘ってみると、玲奈は驚いた顔をして俺を見上げる。
「いいの!?」
「いいよ。来年だけじゃなくて、その次も、何度だって行けるよ」
「うれしい!」
「あっ!!ちょっ!待った!!」
花火を持ったまま抱きついてこようとする玲奈を止める。
「こら、玲奈!初めに人の方に向けちゃいけないって言ったでしょ」
「そっか。コレ持ってること忘れてた」
「危なっかしいな…」
玲奈を注意する父さんの後ろで、母さんは母さんで花火をブンブン振り回しながら楽しんでいて。
「ねー、パパ、ママのはやっていいの?」
「あっ!もー、大人が子どもの見本にならなくてどうするの!」
父さんの注意が逸れて、これ以上怒られなくて良かったと言わんばかりに、玲奈は俺を見て笑う。
もう怒られないようにと、大人しく玲奈と花火を楽しんでいると、突然、回転しながら地面を這う花火が近づいてきた。
驚いて逃げまどう俺たちを見て、笑っている母さん。
「それがネズミ花火よ。もういっこつけちゃおー!!」
「ママ!それ怖い」
「これが1番やりたかったの!」
子供みたいにワガママを言う母さんに、本当、自由だなと笑ってしまう。
俺も玲奈に振り回されるけど、父さんも母さんに振り回されて大変そうだ。
そのあとも、家族みんなで笑って楽しんで、あっという間に時間が過ぎて行った。


ひと騒ぎした後、気持ちを落ち着かせたくて、練習部屋でひとりピアノに向かう。
部屋の電気はつけずに、ピアノだけを照らすライトをつけて、ゆったりと流れるような曲を弾いていた。
玲奈は今日のことを、いい思い出にしてくれただろうか…。
そんな事を考えていたら、部屋のドアが開く音がする。
「れーいっ」
後ろから抱きしめられて、指を止めた。
「玲奈。…父さんたちは?」
「もう寝るって部屋に戻ったよ」
そう言って、ぎゅっと俺を抱きしめる玲奈の腕をぽんぽんと優しくたたいた。
「パパに、今日の花火はキレイに見えた?って聞かれた」
「あー…、ごめん。俺が話したから」
「謝らなくていいよ。今日すごく楽しかったし」
「父さんが、玲奈に色鮮やかな夏の思い出を作ってあげようって言ってたけど、その通りになった?」
「うん!なったよ」
ふふふっと嬉しそうに笑いながら、玲奈が俺の肩に頭を乗せる。
…よかった、とそう思いながら、玲奈の頭を撫でた。
「…何か弾こうか?」
「伶が弾きたい曲を聴かせて」
珍しく、曲のリクエストをされない。
昼間練習していた、バラードを弾こうかと思ったけど、雰囲気が違うなと思い直す。
少し悩んで、曲を決めた。
「弾くよ」
そう声をかけると、俺にぴったりとくっついていた玲奈は離れて、隣に立つ。

静かに、優しく鍵盤を押した。

夏の静かな夜、玲奈と2人きり。
ピアノだけがライトアップされたこの部屋に、優しく甘く響く。
リストの『愛の夢 第3番』。
ノクターンだから、こんな夜にはピッタリだ。
甘く柔らかい雰囲気で、だけど美しくて儚い。
タイトル通りの曲。

弾き始めると、隣で玲奈がすうっと息を吸うのがわかった。
…え…?
心臓がドクンと音を立てる。
もしかして、の期待で耳をそばだてると、次の瞬間、玲奈の透き通った声が部屋中に響き渡った。

この曲は、もともと歌曲だ。
でもまさか歌ってくれるとは思ってなくて。
雰囲気がいいかなと思って選んだだけで、ピアノの独奏のつもりだった。
それなのに…。
この前までと違って、しっかりと声が出ている。
昔と変わらない、3年ぶりに聴く美しい声。
胸が熱くなる。
…涙が出てきそうだ。
だけど伴奏を弾いてる俺が、間違えるわけにはいかない。
必死で堪えて、その美しい声に合わせてピアノを弾く。

"おお、愛しうる限り愛せ!
 その時は来る その時は来る
 あなたが墓の前で嘆き悲しむその時が

 心を尽くしなさい、あなたの心が燃え上がり
 愛を抱き、愛をはぐくむ
 愛によってもう一つの心が
 温かい鼓動を続ける限り

 あなたに心開く者ならば
 愛のために尽くしなさい
 どんな時も彼を喜ばせて
 どんな時も悲しませてはならない

 言葉には気をつけなさい
 悪い言葉はすぐに口をすべる
 「ああ神よ、誤解です!」と嘆いても
 彼は去っていってしまいます"

最後の音を押して、静かに鍵盤から指を離した。
弾いている間はどうしても見れなかった、玲奈の顔を見る。
俺を見て微笑む玲奈に、手を伸ばして抱き寄せた。
ぎゅっと抱きしめると、玲奈も俺の背中に手を回す。
「玲奈…」
「えへへ、ひとりの時に発声練習してたんだ。声、だいぶ戻ってきたでしょ?」
「…そうだね」
「伶、泣いてる?」
「うん。嬉しくて。それに相変わらず綺麗な声で感動したし。だから、今、見ないで」
素直に答えると、玲奈が俺の頭を撫でてくれる。
…本当、よかった。
玲奈の歌声がまたちゃんと聴けて…。
俺のせいで、玲奈はもう二度と大好きな歌が歌えないんじゃないかと、ずっと自分を責めていた。

俺があの日、玲奈を守れなかったから。
俺があの日、振り払われた手の意味を、知ろうとしなかったから。

ポツポツと歌っているのを聴いた時、きっとそのうち声を取り戻せるって思ったけど。
それでも不安で。
絶対大丈夫という確信よりも、きっと大丈夫と自分に言い聞かせていた。
だから今、歌声が聴けて心の底から安堵した。
玲奈に頭を撫でられて、抱きしめていた腕が緩んだところ。
不意を突かれて、玲奈に顔を両手でがっしり掴まれる。
「見ないでって言ったでしょ」
「やだ。泣いてるところ見たかったのに!もう泣き止んじゃったの?」
そんなワンワン泣くものでもないしな…。
頬を膨らませている玲奈の顔がまた可愛い。
「何で俺が泣いてるところ見たいの」
「いつもは見れないから!あ、でも、まつ毛は濡れてる」
嬉しそうにそう言って、俺のまつ毛にそっと唇をつける。 
「…キスするならこっち」
玲奈の手を掴んで、顔を上に向ける。
少しだけ困ったような表情を見せた玲奈は、一瞬の間を置いて、そっと目を閉じると俺の唇にキスをくれた。
短いキスのあとは、すぐさま俺に抱きついてくる。
「もう、伶のこと、悲しませたりしないよ」
「…さっきの歌詞?」
「そう。もう声も色も失わない。伶のこと、遠ざけたりしない」
「うん」
しっかりと、玲奈を抱きしめた。

"愛しうる限り愛せ"

こんな俺にでも、玲奈は愛をくれるのか…。
それなら俺も、あの歌詞の通り、一生そうすると誓おう。

「私はずっと、伶だけのものだよ」
ふたりで抱き合ったまま、とても穏やかな時が流れていった。



———もし、

もし
願いが叶うなら。

『愛の夢』なんて、
そんな美しいものを見ることができたとしたら
俺たちをその中へ閉じ込めてほしい。

夢の中なら、
いくら愛しあっても構わないだろう。

俺が玲奈にあげられるものは
それしかない。

二度と覚めることのない夢の中で、
玲奈のことを愛し続けられればいいのに……
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

皇帝は虐げられた身代わり妃の瞳に溺れる

えくれあ
恋愛
丞相の娘として生まれながら、蔡 重華は生まれ持った髪の色によりそれを認められず使用人のような扱いを受けて育った。 一方、母違いの妹である蔡 鈴麗は父親の愛情を一身に受け、何不自由なく育った。そんな鈴麗は、破格の待遇での皇帝への輿入れが決まる。 しかし、わがまま放題で育った鈴麗は輿入れ当日、後先を考えることなく逃げ出してしまった。困った父は、こんな時だけ重華を娘扱いし、鈴麗が見つかるまで身代わりを務めるように命じる。 皇帝である李 晧月は、後宮の妃嬪たちに全く興味を示さないことで有名だ。きっと重華にも興味は示さず、身代わりだと気づかれることなくやり過ごせると思っていたのだが……

極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です

朝陽七彩
恋愛
 私は。 「夕鶴、こっちにおいで」  現役の高校生だけど。 「ずっと夕鶴とこうしていたい」  担任の先生と。 「夕鶴を誰にも渡したくない」  付き合っています。  ♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡  神城夕鶴(かみしろ ゆづる)  軽音楽部の絶対的エース  飛鷹隼理(ひだか しゅんり)  アイドル的存在の超イケメン先生  ♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡  彼の名前は飛鷹隼理くん。  隼理くんは。 「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」  そう言って……。 「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」  そして隼理くんは……。  ……‼  しゅっ……隼理くん……っ。  そんなことをされたら……。  隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。  ……だけど……。  え……。  誰……?  誰なの……?  その人はいったい誰なの、隼理くん。  ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。  その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。  でも。  でも訊けない。  隼理くんに直接訊くことなんて。  私にはできない。  私は。  私は、これから先、一体どうすればいいの……?

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

旧校舎の地下室

守 秀斗
恋愛
高校のクラスでハブられている俺。この高校に友人はいない。そして、俺はクラスの美人女子高生の京野弘美に興味を持っていた。と言うか好きなんだけどな。でも、京野は美人なのに人気が無く、俺と同様ハブられていた。そして、ある日の放課後、京野に俺の恥ずかしい行為を見られてしまった。すると、京野はその事をバラさないかわりに、俺を旧校舎の地下室へ連れて行く。そこで、おかしなことを始めるのだったのだが……。

処理中です...