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第3章 秋
2. (Ray side)
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心なんて本来、
自由なもののはずなのに。
どうしてこうも制限されてしまうのだろう。
それは、
社会的なルールだったり
自分の価値観からの解釈だったり。
秩序が枷になって
先入観や僻見が重石になる。
渇望してやまない『自由』は、
結局いつも檻の中。
分かっているのに、
いつまでも夢見てしまう自分がいる。
「ママも伶とふたりでお出掛けしたい!」
俺と玲奈の向いに座る母さんが、頬を膨らませてそう言った。
金曜日の夜、俺と玲奈と母さんの3人で、夕食を摂っていた。
昨日まで仕事で地方に行って不在にしていた母さんと入れ違いで、父さんは仕事でいない。
それで、ここ数日の近況報告をしていて。
玲奈と父さんが、先日2人で出掛けたことを聞いて、羨ましくなったらしい。
「いいよ、俺は」
「私、明日、紗弥と遊ぶ約束してるから、ママと伶で出掛けたら?」
俺と玲奈の答えを聞いて、母さんはパッと明るい笑顔になる。
「本当!?うれしーい!」
こんな小さな事で、飛び上がらんばかりに喜ぶ母さんに、俺と玲奈は顔を見合わせて笑った。
母さんは、たまに俺と2人で出掛けたがる。
日本でできた友達に言わせると、母親と2人で遊びに行くなんて"あり得ない"らしいんだけど。
俺はそうは思っていなくて、昔から、なんだかその日は『特別』ぽくて好きだった。
いつも、父さんか玲奈を向いている母さんが、その日は俺だけを見てくれるからかな。
それともう一つ。
あれしたい!どこ行きたい!と主張がハッキリしていて、家族で出掛ける時は他に有無を言わせないのに、俺と出掛ける時は、行き先も何もかも俺に選ばせてくれるからだ。
思えば、日本で母さんと2人で出かけるなんて、母さんの実家の用事に付き合わされた時以外にない。
どこに行こうかな…。
「…い、れーい!」
玲奈が俺を呼ぶ声とともに、体を揺さぶられる。
「ん……?」
目を開けると、部屋の中が明るい。
いつの間にか寝てたのか。
ぼやけた視界がハッキリすると、目の前には玲奈の顔があった。
床に座って、ベッドの淵に頬杖をついている。
「玲奈、今日は早起きだね」
「昨日ママと寝たから、朝早く起こされた」
「そっか。じゃ、こっちきて」
「きゃ…!」
手を伸ばして玲奈を引っ張って、ベッドの中に引きずり込んだ。
「伶っ、待って」
「アラーム鳴るまで、このままでいて」
慌てて起きあがろうとする玲奈を抱きかかえるようにして、もう一度目を閉じた。
この時間なら、母さんは朝練してて俺たちの部屋には来ないし。
少しの間でいいから、こうしていたくて。
「…伶が甘えるの、めずらしいね」
玲奈がそう言って俺の頭を撫でる。
本当は、玲奈がいつも甘えてくるから、俺がそうする必要ないだけなんだけどね。
触れられるなら、ずっとそうしていたい。
「どうして昨日は母さんと一緒に寝たの?」
「歌のこと、自分でママに話すようにパパに言われてたから、話しに行ったの」
先日、俺が透の買い物に付き合った日。
父さんの弾くピアノで玲奈が歌ってくれたと、父さんがメールをくれた。
それを聴いていた人が、途中からだけど動画を撮ってくれていたらしくて、それが添付してあった。
それは、俺に歌ってくれた時よりも、もっと音が研ぎ澄まされていて。
…歌を、歌えなかった期間が本当にあったの?ってくらい、キレイな声だった。
玲奈の声は、父さんの出す澄みきった音と、母さんの出す華やかな音、その両方をとったような美しさ。
どこまでも澄んだ音が高らかに響いて、その場を華やがせる。
春の日差しのように、煌めいていて温かい。
そんな音。
「パパがくれた私が歌ってる動画を見せたら、ママが号泣しちゃって…」
「なんか、想像つく」
思わず笑ってしまう。
「ママにも何か歌ってって言われて、ブラームスの子守唄うたったら、ママってば私のこと抱きしめたまま寝ちゃったの。だから、私もそのままそこで一緒に寝た」
「子どもの頃、よく寝る時に歌ってもらったやつだね。昨日は逆に母さんを寝かしつけたの?」
その時の事を思い出したのか、玲奈もふふっと声に出して笑う。
「…玲奈のこと心配してたから、父さんも母さんも喜んだでしょ」
「うん」
俺の胸に顔を埋めている玲奈の髪を撫でると、玲奈は心地よさそうに頬をすり寄せてくる。
それと同時に、少しだけ離れていた身体も密着した。
無意識でもこんなことされると…。
「玲奈」
「なあに?……っ」
名前を呼んで、顔を上げた玲奈の唇を塞いだ。
玲奈を側に感じたまま、いつもの起床時間までごろごろしていたかったんだけど。
収まりつかなくなりそう。
唇を離すと、すぐに上半身を起こした。
「れい…」
顔を真っ赤にした玲奈が困り顔で俺を見る。
そんな玲奈の頭をくしゃくしゃっと撫でた。
多分、俺も顔真っ赤だ。
「あんま可愛いことしないでよ」
「え!?だって伶が…」
玲奈に背中を向けて、ベッドから足を下ろした。
すると、玲奈が後ろから抱きついてくる。
「顔、赤い。どうして照れてるの?」
「玲奈がそうやってくっついてくるからだよっ」
離れようとすると、玲奈は回した腕にぎゅっと力を入れて離してくれない。
「私のことベッドに入れたのは伶なのに」
「そうだけど。そうやって胸とか押しつけられたら、反応しちゃうでしょ」
「どういうこと?」
「ああ、もう。お願いだから、ちょっと離れて」
「やだ」
俺の言葉の意味が分かっていない玲奈に、状況を説明する余裕もなくて。
顔も見ないまま立ち上がるけど、玲奈はずっとくっついてきて離してくれない。
「なんでいつも、離れてっていうとくっつくの!」
「嫌だから!」
部屋から出て廊下でもその押し問答をしていると、いつの間にか母さんが2階へ上がってきていて、驚いた表情で俺たちを見ていた。
「兄妹喧嘩?珍しいわね」
「玲奈が!」
「伶が!」
母さんの言葉に答える俺と玲奈の声が被る。
それを聞いて、母さんはクスクスと笑い出した。
「さすが双子ね、息ぴったり。さ、ケンカはやめにして、朝ごはんにしましょ」
にっこり微笑む母さんの顔を見て、俺も玲奈も何も言えなくなってしまった。
「伶、どこ行きたい?」
玲奈を紗弥との待ち合わせ場所へ送って行った後。
母さんと2人になった途端、そう聞かれた。
「…母さんは、どこか行きたいところないの?」
「今日は、伶が決める日よ」
昨日の夜、どこに行くか考えてる途中で寝落ちしてしまったから、何もプランがなくて。
それで聞き返してみたんだけど、見事に断られてしまう。
「んー…。じゃ、こっち。電車乗ろう」
少し考えて、行き先を決めた。
玲奈とのことを考えるのに、よく使っていた場所。
「どこへ行くの?」
「まだ秘密」
「えー!なにそれ、楽しみ」
満面の笑みを見せる母さんに、俺もつられて笑った。
玲奈だったら、『どうして教えてくれないの!?』ってしつこくされるんだけど、母さんはこういうところ素直だ。
ワクワクする!と嬉しそうにしている。
俺に言われるがまま電車に乗って、降りる駅も何も聞かずにいてくれた。
「そういえばさ、こうやって2人で出掛ける時、いつも俺に行き先選ばせるのはなんで?いつもは何処へ行くにも母さんが選ぶでしょ」
目的地がある駅までは少しあるし、何か目新しい話題も思いつかなくて、気になっていたそれを尋ねてみる。
「えっ?たまには涼ちゃんが行きたいところへも行ってるわよ」
「たまには、ね」
父さんが少し可哀想に思えて笑ってしまう。
「ふふふ。いいの、涼ちゃんは1人でどこでも好きなところに行ける人だし。1人の時間も多いしね」
「そうだね」
同意して頷くと、母さんは微笑んで、少しだけ間を置いてから話を続けた。
「…伶は、小さい頃から甘えるのがヘタだったわよね。何でも玲奈に譲って我慢しちゃって」
「うーん…」
「行きたい場所とか、やりたい遊びだけじゃなくって。抱っこしてもらいたい時も、泣きたい時も、玲奈がいると我慢してた。だから、伶だけを甘やかす日を作ってたのよ」
「…そんな風に言われると、恥ずかしいんだけど」
でも、そっか。
色々と思い当たる節があるというか…。
ほわほわしているように見えて、やっぱり『お母さん』なんだよね。
「それにね、伶に行きたい場所を選んでもらうのは、伶が何に興味があって何をするのが好きなのかが分かるからよ。だから、今日も楽しみ!」
「あー…、ヤバイ。完全に行き先間違えた」
「なになに~?変更ナシよ」
これまで深く考えずに行き先を選んでたけど、母さんからしたら、俺のことを知るための手段だったのか。
ただ、楽しいね!っていう思い出づくりのようなモノだと思ってた。
今日だって、今から行こうとしてる場所は、『俺のことを知る』って意味でいうなら、完全にマッチしてる。
別に母さんに知られたくないわけじゃないんだけど、そこまで母親目線で見られてると思ってなかったから、どことなく恥ずかしい。
電車を降りて少しだけ歩いて。
ある建物の前で、それを指差した。
「着いた。ココだよ」
「美術館!?」
「そ。あ、そこ段差あるから気をつけて」
建物を見て驚いている母さんが、足元をちゃんと見てないかもと思って、手を差し出した。
それを握る母さんの手。
…細くて小さい。
そんな事に気がついて、少しびっくりした。
「伶。こんなことスマートにできるなんて。女のコたらしこんでるわね~?」
段差を過ぎて、手を離したかと思ったら、そのまま母さんに腕を掴まれる。
「は!?ちょっ、なんで腕組むんだよ」
「いいじゃなーい!涼ちゃん以外の男の人とデートしてるみたいな気分になっちゃった」
「やだよ。こんなこと父さんに知られたら、俺が怒られるだろー!」
「内緒だから平気よ」
あーもう、このやり取り、朝の玲奈と一緒じゃん。
何を言ってもムダだなと思って、母さんの好きにさせた。
「…伶、大人になったわね。背も高くなって、手も大きくなった」
「まあね。もう18歳だし、オトナだよ」
「ふたりきりになると、ママ!って抱きついてきて可愛かったのになあ」
「いつの話だよ…」
「またママって呼んでよ」
「日本語じゃもうそう呼べなくなった」
ドイツ語ではパパママ呼びが通常で、家で日本語の時もずっとそうだったんだけど。
日本に引っ越すって決まった時に、男の子がパパママじゃよくないかもって言われて、直したんだよね。
お父さんお母さんって呼び方に慣れなくて、音的に、トーサンカーサンの方がしっくりきて、それで落ち着いた。
「最近は、女の子と遊んでいないの?」
「切り落とすなんて恐ろしいこと言われたからね」
ふふふ、と母さんが声に出して笑う。
「誰か特定の女の子は?好きな子いないの?」
その質問には、言葉を詰まらせてしまう。
何て答えればいいか分からず、俺を見つめる母さんを見て微笑んだ。
「…チケット買ってくるから、ここで待ってて」
ちょうどエントランスまで来ていたこともあって、そう言って誤魔化す。
「えっ、ママが買うわよ?」
「デート気分なんでしょ。俺が出すよ」
このまま母さんの側にいると、色々と深掘りされそうで怖くて、少し離れたかった。
チケットを買って母さんの方を見ると、吹き抜けになっているエントランスの上部をぐるりと見渡して、嬉しそうにしている。
昔から母さんと2人で出掛ける時は、博物館とか美術館ばかりだった。
その時々で興味があるものが違って、同じところへ出掛けても俺はいつも新鮮で。
何も言わずにそれに付き合ってくれる母さんも、博物館や美術館が好きなのかなと思ってたんだけど、電車での話を聞いて、もしかして俺の為に無理してたんじゃ?と少し気になったんだよね。
離れたところから見て、母さんがつまらなそうな顔をしていなくてよかった…。
「母さん、行こう。こっち」
「伶、ココ慣れてるわよね。よく来るの?」
「うん。最近来てなかったから、今日ここにした」
「誰の絵に興味があるの?」
「んー…。絵というか、空間が好きなんだよね」
俺の答えに、よく分からないというような顔で、母さんは、ふーん…と呟いた。
玲奈との関係がうまくいかなくなってから、この美術館にはしょっちゅう来ていた。
家に帰りたくなくて、フラフラしていた時にたまたま来てみた場所だけど、すごく気に入って。
それから毎日のように来るようになった。
ある展示室の中に、広めのソファが置いてある場所があって。
そこに座って、目の前にある絵をひたすら眺めていた。
期間によって展示される絵はかわるんだけど、ソファに座ってそれを眺めていると、頭の中で音楽が流れるんだ。
自分だけの、オリジナルの曲。
ひたすら絵を眺めながら、頭の中で音楽を作っていた。
「伶くん、久しぶりね」
いつものその好きな展示室に入ると、スーツ姿の女性に声をかけられる。
「あ、栞さん。久しぶり」
彼女はこの美術館のキュレーター。
しょっちゅう入り浸っている俺に話しかけてきてくれて、ここに来れば話をする仲になった。
「今日はカノジョ連れ?」
俺の隣にいる母さんを見て、そう聞かれる。
「えっ!違うよ」
チラリと母さんの顔を見ると、嬉しそうに微笑んでいる。
…まあ、見た目も年齢より若く見えるしね……。
俺から紹介するか迷っていると、母さんが先に口を開いた。
「伶の母です」
「えぇっ!お母様!?…失礼しました。私、この美術館の学芸員をしております、高崎と申します」
慌てて名刺を出して挨拶してくれる栞さん。
「息子がいつもお世話になっています。…あ、私、名刺もってたかなあ~?」
母さんはバッグの中をゴソゴソさせて、カードホルダーを見つけると、そこから名刺を一枚とりだして栞さんに渡した。
その様子を見て、母さんも名刺なんか持ってるんだ?と、この大人のやりとりに不思議な気持ちになってしまう俺。
「…あのさ、俺ここにいるから、2人とも向こうで話してきなよ。他のお客さんもいるし…」
母さんも栞さんも、おしゃべり好きだし。
他のお客さんの迷惑になると思ったのも本当だけど、俺の話題を目の前で色々とされそうなのが嫌で、展示室から出て行ってもらった。
絶対、母さんは余計なことを聞くんだよな。
それが想像できて、やっぱり行き先を間違えてしまったと若干後悔する。
あとで何言われるか、覚悟してないとな…。
しんとなった部屋で、いつものようにソファに座って目の前の絵画を眺める。
一度深呼吸をして、頭の中を空っぽにさせた。
久しぶりに来たこの空間。
懐かしい、この感覚。
以前来た時とは違う絵に、吸い込まれるように。
俺のまわりの世界が変わる。
イメージが、湧いてくる。
夢中で音を追っていった。
どれくらい時間が経ったんだろう。
気づいたら、母さんが隣に座っていて、驚いてしまう。
「…あ、ごめん。いつからいた?」
「30分くらい前かな?」
母さんはいつもの笑顔をくれる。
没頭しすぎて、一緒に来たことなんかスッカリ忘れてしまってた。
「声かけてくれたらよかったのに。つまらなかったでしょ」
「ううん。館内一周してきちゃったし、栞さんから、伶が空間が好きって言っていた理由を教えてもらったから。ママも絵を見ながら色々考え事してた」
俺がここに通うようになって、数回目かな。
『いつもそこに座って絵を眺めてるよね?その絵が好きなの?』
確か、そんな風に声を掛けられた。
絵ももちろん好きだけど、それを眺めているのは音楽をイメージしながら作っていくことができるから…と答えた俺に、栞さんは驚いていた。
実際に頭の中で音楽を作っている時は、目の前に見えているものも見えなくなる。
というか…、見えていてもそこに意識がいっていない。
それで今も、母さんが隣にいた事にも気づいていなかった。
頭の中で作っていた音楽がある程度まとまったから、外の世界に意識を戻して、そこでようやく気づいたんだよね。
「館内見てきたなら、外に出よう。遊歩道があってキレイなんだ」
立ち上がって、座っている母さんに手を差し出した。
「伶、まだここに居たかったら、ママのことは気にしなくていいのよ?」
「いや、もう大丈夫」
俺の言葉を聞いてから、母さんは手を掴んで立ち上がった。
外に出ると陽はまだ高いところにあって、ホッとする。
音楽のことを考えてると、いつも平気で何時間も過ぎちゃってるから。
母さんを待たせすぎてなくてよかった。
この美術館が好きなのは、あの空間の他に、広い敷地内を散策できる遊歩道があるから。
都心にこんな場所があるんだと驚くほど、緑が綺麗で。
その木々のさざめきを聞いて、自然を感じながら歩いているだけで、気持ちが落ち着く。
よくここを歩いては、玲奈とどう接すればいいのかとか、どうしてあげるのがいいんだろうとか、考えていた。
「それで、栞さんから俺の何を聞いてきたの?」
母さんと並んで歩きながら、俺から話を振った。
「普通の世間話をしてきただけだって、どうして思わないの?」
「好奇心の塊の母さんが、それだけで話を終わらせるとは到底思えないから」
「あら、よく分かってるわね。中学生の頃からよく来てたんですって?ざっと3年分の伶の話を聞いてきたわよ」
「年数ほど話題はなかったでしょ」
「女と遊ばない日はココに来るって言ってたとかー、彼女は要らないヤレればいいって言ってたとかー」
「やめてよ、その話題!」
また母さんとそっち系の話をするのかと、恥ずかしくなってしまう。
「あ、赤くなってる。かわいい」
クスクス笑う母さんに、何も言い返せない。
どっちも栞さんに話した通りだし。
それをまさか母さんに伝えられるとは…。
「…伶は、ここに来て音楽を作ってるんでしょう?それはカタチとして残っているの?」
さっきの俺をからかった時とは違う、落ち着いた声でそう聞かれた。
「俺のパソコンにあるよ。ここでは、イメージだけして、家に帰って音を打ち込んで仕上げるから」
「どうして、ずっと秘密にしていたの?」
「そんなすごいもの作ってないし…。暇潰しみたいなもんだから」
「でも伶は、作曲するの好きなのよね?写真を編集した動画につけてた音楽も、伶が作ったんだって涼ちゃんから聞いたわよ」
「あー…、まあ、作るのは楽しいし好きかな」
「ママはあれを聴いて、伶には才能あると思ったけどな。伶がここで作った曲も、聴きたいなあ」
絵画のイメージから、ここで作るのはクラシックっぽい曲。
交響曲だったり、管弦楽だったり。
でも所詮、素人が作った曲。
それを、しっかりと音楽の勉強をして、生業にしている人に聴かせるってところに、躊躇う。
多分、今日ここに母さんを連れて来なかったら、ずっと黙ったままだっただろう。
「あ、無理にとは言わないわよ。音楽って心を表現するものだから、伶の心に触れてみたいなって思っただけ。他人に知られるのが嫌な時もあるわよね」
答えに迷っていると、言葉を付け足してくれる。
俺の"心"か……。
「…いいけど。玲奈にも言ってないから、先に玲奈に言ってからでもいい?」
「もちろんよ」
母さんが微笑む。
昔から、たまに曲のフレーズが思いつくことはあったけど、キチンと作ってみようかなと思ったのは、玲奈との関係が拗れてから。
それまで玲奈と過ごしていた時間が、急になくなってしまって。
その空白になった時間を埋めるのに都合がよかった。
だって、音楽のことを考えている間は、それ以外の事を何も考えなくて済むから。
半ば現実逃避で始めたそれは、空っぽになってしまった心を保つのに必要なものになっていった。
玲奈には、言えなかった。
俺の弱い心を晒すようで。
だけど今なら、言える気がする。
それに誰よりも先に、俺のことを知っていてもらいたいのは玲奈だから。
あの日から、お互いに触れる事のなかった3年間。
その玲奈が欠けていた部分を、埋めてくれていた音楽。
…玲奈は、そんな音楽を聴いて、どう思うんだろう。
しばらく黙ったまま歩いて、遊歩道の一番奥の、小さな庭園のような場所に着く。
「わあ!伶、ここ素敵ね」
西洋風の造りで、時折、池から噴水があがった。
花壇もキレイに手入れされていて、白いガゼボがこの雰囲気に合っていて映える。
ヨーロッパに長く住んでいたから、この手の庭園は見慣れていて。
向こうに戻ったような錯覚に、穏やかな気持ちになれる。
母さんはこの庭園を自由に見回って、ガゼボのベンチに座ると、手招きをして俺を呼んだ。
9月とはいえ、日本はまだまだ夏のように暑くて。
ジリジリと焼かれるような陽射しにのぼせそうになっていたんだけど、ガゼボの中は風が通って涼しくて心地いい。
「ねえ、伶」
母さんの隣に座って庭園を眺めていたら、不意に呼ばれた。
視線を移すと、両手を広げて笑顔で俺を見ている。
「は!?なに、突然…」
久しぶりのハグの要求に驚いた。
欧米じゃ当たり前だし、別に嫌じゃないんだけどさ。
「いいからー!早く」
「あー…もう。どうしたんだよ…」
母さんを抱きしめると、子どもの時にしてもらったように、背中を優しくトントンとされた。
それが何だか懐かしくて、力が抜ける。
何年振りかのハグは、むかしと変わらず温かくて心地いい。
「玲奈と仲直りできて、本当によかったわね」
その言葉とともに、ぎゅっと強く抱きしめられた。
「今朝、2人が昔みたいに戯れあってるのを見て、すごく嬉しかった」
庭園を後にして、また遊歩道を辿って入り口へ向かう途中、母さんがポツリと話し始めた。
「あの日なにがあったのか、今になってどうやって解決できたのか、聞いても玲奈は話してくれなかったけど…」
そこで一旦、言葉を切ると、それまで前を向いていた母さんが俺の方を向く。
「あの時、玲奈と同じくらい、伶も傷ついたでしょう?」
じっと見つめられて、答えに困った。
固まっていると、母さんにふふっと笑われる。
「やっと2人とも、前に進めるわね」
……そう。
『触らないで!!』
玲奈のあの言葉に囚われて、ずっと身動きできないでいた。
3年間、ずっと。
今やっと、自由になって前へ進める。
———もし、
もし、
願いが叶うなら。
この自由になった心で、
玲奈とふたり、
空白の3年間を埋めて未来へと進んでいきたい。
俺に未来を思い描く資格なんかないと
分かっているけれど。
それでも、
"双子"や"兄妹"としてじゃなくて
ただの男と女として
玲奈とふたりで前に進んでいきたいんだ……。
自由なもののはずなのに。
どうしてこうも制限されてしまうのだろう。
それは、
社会的なルールだったり
自分の価値観からの解釈だったり。
秩序が枷になって
先入観や僻見が重石になる。
渇望してやまない『自由』は、
結局いつも檻の中。
分かっているのに、
いつまでも夢見てしまう自分がいる。
「ママも伶とふたりでお出掛けしたい!」
俺と玲奈の向いに座る母さんが、頬を膨らませてそう言った。
金曜日の夜、俺と玲奈と母さんの3人で、夕食を摂っていた。
昨日まで仕事で地方に行って不在にしていた母さんと入れ違いで、父さんは仕事でいない。
それで、ここ数日の近況報告をしていて。
玲奈と父さんが、先日2人で出掛けたことを聞いて、羨ましくなったらしい。
「いいよ、俺は」
「私、明日、紗弥と遊ぶ約束してるから、ママと伶で出掛けたら?」
俺と玲奈の答えを聞いて、母さんはパッと明るい笑顔になる。
「本当!?うれしーい!」
こんな小さな事で、飛び上がらんばかりに喜ぶ母さんに、俺と玲奈は顔を見合わせて笑った。
母さんは、たまに俺と2人で出掛けたがる。
日本でできた友達に言わせると、母親と2人で遊びに行くなんて"あり得ない"らしいんだけど。
俺はそうは思っていなくて、昔から、なんだかその日は『特別』ぽくて好きだった。
いつも、父さんか玲奈を向いている母さんが、その日は俺だけを見てくれるからかな。
それともう一つ。
あれしたい!どこ行きたい!と主張がハッキリしていて、家族で出掛ける時は他に有無を言わせないのに、俺と出掛ける時は、行き先も何もかも俺に選ばせてくれるからだ。
思えば、日本で母さんと2人で出かけるなんて、母さんの実家の用事に付き合わされた時以外にない。
どこに行こうかな…。
「…い、れーい!」
玲奈が俺を呼ぶ声とともに、体を揺さぶられる。
「ん……?」
目を開けると、部屋の中が明るい。
いつの間にか寝てたのか。
ぼやけた視界がハッキリすると、目の前には玲奈の顔があった。
床に座って、ベッドの淵に頬杖をついている。
「玲奈、今日は早起きだね」
「昨日ママと寝たから、朝早く起こされた」
「そっか。じゃ、こっちきて」
「きゃ…!」
手を伸ばして玲奈を引っ張って、ベッドの中に引きずり込んだ。
「伶っ、待って」
「アラーム鳴るまで、このままでいて」
慌てて起きあがろうとする玲奈を抱きかかえるようにして、もう一度目を閉じた。
この時間なら、母さんは朝練してて俺たちの部屋には来ないし。
少しの間でいいから、こうしていたくて。
「…伶が甘えるの、めずらしいね」
玲奈がそう言って俺の頭を撫でる。
本当は、玲奈がいつも甘えてくるから、俺がそうする必要ないだけなんだけどね。
触れられるなら、ずっとそうしていたい。
「どうして昨日は母さんと一緒に寝たの?」
「歌のこと、自分でママに話すようにパパに言われてたから、話しに行ったの」
先日、俺が透の買い物に付き合った日。
父さんの弾くピアノで玲奈が歌ってくれたと、父さんがメールをくれた。
それを聴いていた人が、途中からだけど動画を撮ってくれていたらしくて、それが添付してあった。
それは、俺に歌ってくれた時よりも、もっと音が研ぎ澄まされていて。
…歌を、歌えなかった期間が本当にあったの?ってくらい、キレイな声だった。
玲奈の声は、父さんの出す澄みきった音と、母さんの出す華やかな音、その両方をとったような美しさ。
どこまでも澄んだ音が高らかに響いて、その場を華やがせる。
春の日差しのように、煌めいていて温かい。
そんな音。
「パパがくれた私が歌ってる動画を見せたら、ママが号泣しちゃって…」
「なんか、想像つく」
思わず笑ってしまう。
「ママにも何か歌ってって言われて、ブラームスの子守唄うたったら、ママってば私のこと抱きしめたまま寝ちゃったの。だから、私もそのままそこで一緒に寝た」
「子どもの頃、よく寝る時に歌ってもらったやつだね。昨日は逆に母さんを寝かしつけたの?」
その時の事を思い出したのか、玲奈もふふっと声に出して笑う。
「…玲奈のこと心配してたから、父さんも母さんも喜んだでしょ」
「うん」
俺の胸に顔を埋めている玲奈の髪を撫でると、玲奈は心地よさそうに頬をすり寄せてくる。
それと同時に、少しだけ離れていた身体も密着した。
無意識でもこんなことされると…。
「玲奈」
「なあに?……っ」
名前を呼んで、顔を上げた玲奈の唇を塞いだ。
玲奈を側に感じたまま、いつもの起床時間までごろごろしていたかったんだけど。
収まりつかなくなりそう。
唇を離すと、すぐに上半身を起こした。
「れい…」
顔を真っ赤にした玲奈が困り顔で俺を見る。
そんな玲奈の頭をくしゃくしゃっと撫でた。
多分、俺も顔真っ赤だ。
「あんま可愛いことしないでよ」
「え!?だって伶が…」
玲奈に背中を向けて、ベッドから足を下ろした。
すると、玲奈が後ろから抱きついてくる。
「顔、赤い。どうして照れてるの?」
「玲奈がそうやってくっついてくるからだよっ」
離れようとすると、玲奈は回した腕にぎゅっと力を入れて離してくれない。
「私のことベッドに入れたのは伶なのに」
「そうだけど。そうやって胸とか押しつけられたら、反応しちゃうでしょ」
「どういうこと?」
「ああ、もう。お願いだから、ちょっと離れて」
「やだ」
俺の言葉の意味が分かっていない玲奈に、状況を説明する余裕もなくて。
顔も見ないまま立ち上がるけど、玲奈はずっとくっついてきて離してくれない。
「なんでいつも、離れてっていうとくっつくの!」
「嫌だから!」
部屋から出て廊下でもその押し問答をしていると、いつの間にか母さんが2階へ上がってきていて、驚いた表情で俺たちを見ていた。
「兄妹喧嘩?珍しいわね」
「玲奈が!」
「伶が!」
母さんの言葉に答える俺と玲奈の声が被る。
それを聞いて、母さんはクスクスと笑い出した。
「さすが双子ね、息ぴったり。さ、ケンカはやめにして、朝ごはんにしましょ」
にっこり微笑む母さんの顔を見て、俺も玲奈も何も言えなくなってしまった。
「伶、どこ行きたい?」
玲奈を紗弥との待ち合わせ場所へ送って行った後。
母さんと2人になった途端、そう聞かれた。
「…母さんは、どこか行きたいところないの?」
「今日は、伶が決める日よ」
昨日の夜、どこに行くか考えてる途中で寝落ちしてしまったから、何もプランがなくて。
それで聞き返してみたんだけど、見事に断られてしまう。
「んー…。じゃ、こっち。電車乗ろう」
少し考えて、行き先を決めた。
玲奈とのことを考えるのに、よく使っていた場所。
「どこへ行くの?」
「まだ秘密」
「えー!なにそれ、楽しみ」
満面の笑みを見せる母さんに、俺もつられて笑った。
玲奈だったら、『どうして教えてくれないの!?』ってしつこくされるんだけど、母さんはこういうところ素直だ。
ワクワクする!と嬉しそうにしている。
俺に言われるがまま電車に乗って、降りる駅も何も聞かずにいてくれた。
「そういえばさ、こうやって2人で出掛ける時、いつも俺に行き先選ばせるのはなんで?いつもは何処へ行くにも母さんが選ぶでしょ」
目的地がある駅までは少しあるし、何か目新しい話題も思いつかなくて、気になっていたそれを尋ねてみる。
「えっ?たまには涼ちゃんが行きたいところへも行ってるわよ」
「たまには、ね」
父さんが少し可哀想に思えて笑ってしまう。
「ふふふ。いいの、涼ちゃんは1人でどこでも好きなところに行ける人だし。1人の時間も多いしね」
「そうだね」
同意して頷くと、母さんは微笑んで、少しだけ間を置いてから話を続けた。
「…伶は、小さい頃から甘えるのがヘタだったわよね。何でも玲奈に譲って我慢しちゃって」
「うーん…」
「行きたい場所とか、やりたい遊びだけじゃなくって。抱っこしてもらいたい時も、泣きたい時も、玲奈がいると我慢してた。だから、伶だけを甘やかす日を作ってたのよ」
「…そんな風に言われると、恥ずかしいんだけど」
でも、そっか。
色々と思い当たる節があるというか…。
ほわほわしているように見えて、やっぱり『お母さん』なんだよね。
「それにね、伶に行きたい場所を選んでもらうのは、伶が何に興味があって何をするのが好きなのかが分かるからよ。だから、今日も楽しみ!」
「あー…、ヤバイ。完全に行き先間違えた」
「なになに~?変更ナシよ」
これまで深く考えずに行き先を選んでたけど、母さんからしたら、俺のことを知るための手段だったのか。
ただ、楽しいね!っていう思い出づくりのようなモノだと思ってた。
今日だって、今から行こうとしてる場所は、『俺のことを知る』って意味でいうなら、完全にマッチしてる。
別に母さんに知られたくないわけじゃないんだけど、そこまで母親目線で見られてると思ってなかったから、どことなく恥ずかしい。
電車を降りて少しだけ歩いて。
ある建物の前で、それを指差した。
「着いた。ココだよ」
「美術館!?」
「そ。あ、そこ段差あるから気をつけて」
建物を見て驚いている母さんが、足元をちゃんと見てないかもと思って、手を差し出した。
それを握る母さんの手。
…細くて小さい。
そんな事に気がついて、少しびっくりした。
「伶。こんなことスマートにできるなんて。女のコたらしこんでるわね~?」
段差を過ぎて、手を離したかと思ったら、そのまま母さんに腕を掴まれる。
「は!?ちょっ、なんで腕組むんだよ」
「いいじゃなーい!涼ちゃん以外の男の人とデートしてるみたいな気分になっちゃった」
「やだよ。こんなこと父さんに知られたら、俺が怒られるだろー!」
「内緒だから平気よ」
あーもう、このやり取り、朝の玲奈と一緒じゃん。
何を言ってもムダだなと思って、母さんの好きにさせた。
「…伶、大人になったわね。背も高くなって、手も大きくなった」
「まあね。もう18歳だし、オトナだよ」
「ふたりきりになると、ママ!って抱きついてきて可愛かったのになあ」
「いつの話だよ…」
「またママって呼んでよ」
「日本語じゃもうそう呼べなくなった」
ドイツ語ではパパママ呼びが通常で、家で日本語の時もずっとそうだったんだけど。
日本に引っ越すって決まった時に、男の子がパパママじゃよくないかもって言われて、直したんだよね。
お父さんお母さんって呼び方に慣れなくて、音的に、トーサンカーサンの方がしっくりきて、それで落ち着いた。
「最近は、女の子と遊んでいないの?」
「切り落とすなんて恐ろしいこと言われたからね」
ふふふ、と母さんが声に出して笑う。
「誰か特定の女の子は?好きな子いないの?」
その質問には、言葉を詰まらせてしまう。
何て答えればいいか分からず、俺を見つめる母さんを見て微笑んだ。
「…チケット買ってくるから、ここで待ってて」
ちょうどエントランスまで来ていたこともあって、そう言って誤魔化す。
「えっ、ママが買うわよ?」
「デート気分なんでしょ。俺が出すよ」
このまま母さんの側にいると、色々と深掘りされそうで怖くて、少し離れたかった。
チケットを買って母さんの方を見ると、吹き抜けになっているエントランスの上部をぐるりと見渡して、嬉しそうにしている。
昔から母さんと2人で出掛ける時は、博物館とか美術館ばかりだった。
その時々で興味があるものが違って、同じところへ出掛けても俺はいつも新鮮で。
何も言わずにそれに付き合ってくれる母さんも、博物館や美術館が好きなのかなと思ってたんだけど、電車での話を聞いて、もしかして俺の為に無理してたんじゃ?と少し気になったんだよね。
離れたところから見て、母さんがつまらなそうな顔をしていなくてよかった…。
「母さん、行こう。こっち」
「伶、ココ慣れてるわよね。よく来るの?」
「うん。最近来てなかったから、今日ここにした」
「誰の絵に興味があるの?」
「んー…。絵というか、空間が好きなんだよね」
俺の答えに、よく分からないというような顔で、母さんは、ふーん…と呟いた。
玲奈との関係がうまくいかなくなってから、この美術館にはしょっちゅう来ていた。
家に帰りたくなくて、フラフラしていた時にたまたま来てみた場所だけど、すごく気に入って。
それから毎日のように来るようになった。
ある展示室の中に、広めのソファが置いてある場所があって。
そこに座って、目の前にある絵をひたすら眺めていた。
期間によって展示される絵はかわるんだけど、ソファに座ってそれを眺めていると、頭の中で音楽が流れるんだ。
自分だけの、オリジナルの曲。
ひたすら絵を眺めながら、頭の中で音楽を作っていた。
「伶くん、久しぶりね」
いつものその好きな展示室に入ると、スーツ姿の女性に声をかけられる。
「あ、栞さん。久しぶり」
彼女はこの美術館のキュレーター。
しょっちゅう入り浸っている俺に話しかけてきてくれて、ここに来れば話をする仲になった。
「今日はカノジョ連れ?」
俺の隣にいる母さんを見て、そう聞かれる。
「えっ!違うよ」
チラリと母さんの顔を見ると、嬉しそうに微笑んでいる。
…まあ、見た目も年齢より若く見えるしね……。
俺から紹介するか迷っていると、母さんが先に口を開いた。
「伶の母です」
「えぇっ!お母様!?…失礼しました。私、この美術館の学芸員をしております、高崎と申します」
慌てて名刺を出して挨拶してくれる栞さん。
「息子がいつもお世話になっています。…あ、私、名刺もってたかなあ~?」
母さんはバッグの中をゴソゴソさせて、カードホルダーを見つけると、そこから名刺を一枚とりだして栞さんに渡した。
その様子を見て、母さんも名刺なんか持ってるんだ?と、この大人のやりとりに不思議な気持ちになってしまう俺。
「…あのさ、俺ここにいるから、2人とも向こうで話してきなよ。他のお客さんもいるし…」
母さんも栞さんも、おしゃべり好きだし。
他のお客さんの迷惑になると思ったのも本当だけど、俺の話題を目の前で色々とされそうなのが嫌で、展示室から出て行ってもらった。
絶対、母さんは余計なことを聞くんだよな。
それが想像できて、やっぱり行き先を間違えてしまったと若干後悔する。
あとで何言われるか、覚悟してないとな…。
しんとなった部屋で、いつものようにソファに座って目の前の絵画を眺める。
一度深呼吸をして、頭の中を空っぽにさせた。
久しぶりに来たこの空間。
懐かしい、この感覚。
以前来た時とは違う絵に、吸い込まれるように。
俺のまわりの世界が変わる。
イメージが、湧いてくる。
夢中で音を追っていった。
どれくらい時間が経ったんだろう。
気づいたら、母さんが隣に座っていて、驚いてしまう。
「…あ、ごめん。いつからいた?」
「30分くらい前かな?」
母さんはいつもの笑顔をくれる。
没頭しすぎて、一緒に来たことなんかスッカリ忘れてしまってた。
「声かけてくれたらよかったのに。つまらなかったでしょ」
「ううん。館内一周してきちゃったし、栞さんから、伶が空間が好きって言っていた理由を教えてもらったから。ママも絵を見ながら色々考え事してた」
俺がここに通うようになって、数回目かな。
『いつもそこに座って絵を眺めてるよね?その絵が好きなの?』
確か、そんな風に声を掛けられた。
絵ももちろん好きだけど、それを眺めているのは音楽をイメージしながら作っていくことができるから…と答えた俺に、栞さんは驚いていた。
実際に頭の中で音楽を作っている時は、目の前に見えているものも見えなくなる。
というか…、見えていてもそこに意識がいっていない。
それで今も、母さんが隣にいた事にも気づいていなかった。
頭の中で作っていた音楽がある程度まとまったから、外の世界に意識を戻して、そこでようやく気づいたんだよね。
「館内見てきたなら、外に出よう。遊歩道があってキレイなんだ」
立ち上がって、座っている母さんに手を差し出した。
「伶、まだここに居たかったら、ママのことは気にしなくていいのよ?」
「いや、もう大丈夫」
俺の言葉を聞いてから、母さんは手を掴んで立ち上がった。
外に出ると陽はまだ高いところにあって、ホッとする。
音楽のことを考えてると、いつも平気で何時間も過ぎちゃってるから。
母さんを待たせすぎてなくてよかった。
この美術館が好きなのは、あの空間の他に、広い敷地内を散策できる遊歩道があるから。
都心にこんな場所があるんだと驚くほど、緑が綺麗で。
その木々のさざめきを聞いて、自然を感じながら歩いているだけで、気持ちが落ち着く。
よくここを歩いては、玲奈とどう接すればいいのかとか、どうしてあげるのがいいんだろうとか、考えていた。
「それで、栞さんから俺の何を聞いてきたの?」
母さんと並んで歩きながら、俺から話を振った。
「普通の世間話をしてきただけだって、どうして思わないの?」
「好奇心の塊の母さんが、それだけで話を終わらせるとは到底思えないから」
「あら、よく分かってるわね。中学生の頃からよく来てたんですって?ざっと3年分の伶の話を聞いてきたわよ」
「年数ほど話題はなかったでしょ」
「女と遊ばない日はココに来るって言ってたとかー、彼女は要らないヤレればいいって言ってたとかー」
「やめてよ、その話題!」
また母さんとそっち系の話をするのかと、恥ずかしくなってしまう。
「あ、赤くなってる。かわいい」
クスクス笑う母さんに、何も言い返せない。
どっちも栞さんに話した通りだし。
それをまさか母さんに伝えられるとは…。
「…伶は、ここに来て音楽を作ってるんでしょう?それはカタチとして残っているの?」
さっきの俺をからかった時とは違う、落ち着いた声でそう聞かれた。
「俺のパソコンにあるよ。ここでは、イメージだけして、家に帰って音を打ち込んで仕上げるから」
「どうして、ずっと秘密にしていたの?」
「そんなすごいもの作ってないし…。暇潰しみたいなもんだから」
「でも伶は、作曲するの好きなのよね?写真を編集した動画につけてた音楽も、伶が作ったんだって涼ちゃんから聞いたわよ」
「あー…、まあ、作るのは楽しいし好きかな」
「ママはあれを聴いて、伶には才能あると思ったけどな。伶がここで作った曲も、聴きたいなあ」
絵画のイメージから、ここで作るのはクラシックっぽい曲。
交響曲だったり、管弦楽だったり。
でも所詮、素人が作った曲。
それを、しっかりと音楽の勉強をして、生業にしている人に聴かせるってところに、躊躇う。
多分、今日ここに母さんを連れて来なかったら、ずっと黙ったままだっただろう。
「あ、無理にとは言わないわよ。音楽って心を表現するものだから、伶の心に触れてみたいなって思っただけ。他人に知られるのが嫌な時もあるわよね」
答えに迷っていると、言葉を付け足してくれる。
俺の"心"か……。
「…いいけど。玲奈にも言ってないから、先に玲奈に言ってからでもいい?」
「もちろんよ」
母さんが微笑む。
昔から、たまに曲のフレーズが思いつくことはあったけど、キチンと作ってみようかなと思ったのは、玲奈との関係が拗れてから。
それまで玲奈と過ごしていた時間が、急になくなってしまって。
その空白になった時間を埋めるのに都合がよかった。
だって、音楽のことを考えている間は、それ以外の事を何も考えなくて済むから。
半ば現実逃避で始めたそれは、空っぽになってしまった心を保つのに必要なものになっていった。
玲奈には、言えなかった。
俺の弱い心を晒すようで。
だけど今なら、言える気がする。
それに誰よりも先に、俺のことを知っていてもらいたいのは玲奈だから。
あの日から、お互いに触れる事のなかった3年間。
その玲奈が欠けていた部分を、埋めてくれていた音楽。
…玲奈は、そんな音楽を聴いて、どう思うんだろう。
しばらく黙ったまま歩いて、遊歩道の一番奥の、小さな庭園のような場所に着く。
「わあ!伶、ここ素敵ね」
西洋風の造りで、時折、池から噴水があがった。
花壇もキレイに手入れされていて、白いガゼボがこの雰囲気に合っていて映える。
ヨーロッパに長く住んでいたから、この手の庭園は見慣れていて。
向こうに戻ったような錯覚に、穏やかな気持ちになれる。
母さんはこの庭園を自由に見回って、ガゼボのベンチに座ると、手招きをして俺を呼んだ。
9月とはいえ、日本はまだまだ夏のように暑くて。
ジリジリと焼かれるような陽射しにのぼせそうになっていたんだけど、ガゼボの中は風が通って涼しくて心地いい。
「ねえ、伶」
母さんの隣に座って庭園を眺めていたら、不意に呼ばれた。
視線を移すと、両手を広げて笑顔で俺を見ている。
「は!?なに、突然…」
久しぶりのハグの要求に驚いた。
欧米じゃ当たり前だし、別に嫌じゃないんだけどさ。
「いいからー!早く」
「あー…もう。どうしたんだよ…」
母さんを抱きしめると、子どもの時にしてもらったように、背中を優しくトントンとされた。
それが何だか懐かしくて、力が抜ける。
何年振りかのハグは、むかしと変わらず温かくて心地いい。
「玲奈と仲直りできて、本当によかったわね」
その言葉とともに、ぎゅっと強く抱きしめられた。
「今朝、2人が昔みたいに戯れあってるのを見て、すごく嬉しかった」
庭園を後にして、また遊歩道を辿って入り口へ向かう途中、母さんがポツリと話し始めた。
「あの日なにがあったのか、今になってどうやって解決できたのか、聞いても玲奈は話してくれなかったけど…」
そこで一旦、言葉を切ると、それまで前を向いていた母さんが俺の方を向く。
「あの時、玲奈と同じくらい、伶も傷ついたでしょう?」
じっと見つめられて、答えに困った。
固まっていると、母さんにふふっと笑われる。
「やっと2人とも、前に進めるわね」
……そう。
『触らないで!!』
玲奈のあの言葉に囚われて、ずっと身動きできないでいた。
3年間、ずっと。
今やっと、自由になって前へ進める。
———もし、
もし、
願いが叶うなら。
この自由になった心で、
玲奈とふたり、
空白の3年間を埋めて未来へと進んでいきたい。
俺に未来を思い描く資格なんかないと
分かっているけれど。
それでも、
"双子"や"兄妹"としてじゃなくて
ただの男と女として
玲奈とふたりで前に進んでいきたいんだ……。
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