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1. 春

chapter4①

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 その夜は長かった。彼女の吐息が聞こえる薄暗い部屋の中で、私は眠ることが出来なかった。彼女の鉄の味が、あのなんとも言えない赤い色が忘れられなかったのだ。携帯に目を向けることにしたが薄暗い部屋には十分すぎるほどの光となって優香を照らし始めた。彼女の首筋にはキスマークと共に一つの小さな切り傷があった。あんなに小さな傷から見えたあの血がもっと私の心に溢れ出たらどうなるのだろう。そんなことを考えていた私は、彼女の首筋に爪を向けていた。彼女の首元についていた、一本の切り傷に対してバツ印をつけるように斜めの爪痕をつけた。少しの切り傷からは今にも赤い液体が飛び出しそうになっていた。傷跡が大きく広がるかのように思えた途端、彼女の吐息が聞こえなくなった。起きてしまったのかもしれないと思い、私は上体を横にして、普段寝ているような姿になった。どれくらい時間が経ったのだろうか。外はまだ暗いままだが、不安になっていた私にはすごく短いようにも長いようにも感じられた。また小さな吐息が聞こえ始めると、私の胸は大きな鼓動に揺られていた。先ほどまで出ていたはずであろう血は少し乾いて、首に残っていた。私が思っていたより血の色は赤くはなかった。少し黒みがかった憎悪の感じる色に、私は芸術性を感じずにはいられなかった。少しずつ彼女のことをもっと知りたいと思うようになった。彼女の性格も彼女の笑う姿も、嫌いなものも、好きなことも全てを共にしてきており、私に知らないことなどないと思っていたのだが、私は彼女の本当の姿を知らなかった。彼女の中身を引きずり出し、彼女の中身に触れてみたかった。今まで触れていた優香が全て小さなものだと思えるくらい、私の中で彼女の体内への興味は止まらなくなってしまっていた。
 その興味についてずっと考えて目を瞑っていると、ついには外は明るくなってしまった。今もなお隣で眠り続ける彼女の首筋の血は少しずつ固まろうとしていた。それを見て、ついに浪費してしまった時間の長さに気づいてしまった。多くの時間を費やしてしまったが、(その時点ではあくまで私の興味であり、本当に体内の臓器、血液を全て見てみたいとは思ってはいなかった)、無意味なことを考えずに眠りにつくことにした。
 朝目覚めると明るいピンク色の光が目に入った。少し風に揺られたカーテンからは少し桜の匂いがした気がした。彼女は机に座りコーヒーを飲んでおり、私はその横顔を眺めてしまった。昨日たくさん見ていたはずの首元には目もくれず、彼女の綺麗なまつ毛を見てしまっていた。
 そうしていると何故だかは分からないが、涙が目に溜まってきたことがわかった。実際には涙を流すことはないが、少しでも今何かがあれば、私の涙腺は崩壊していたことだろう。少しの落ち着きを取り戻すために何故泣きそうになっていたのかを考えていたが、ついに私には思いつかなかった。だから私は昨日優香に対して少し変な気持ちを持ってしまっていたことに悲しくなっていたのだろうと思うことにした。そうすることで自分の涙の理由を無理やり作り、昨日の気持ちへの反省にしようとしていたのだ。それ以降その日の夜までは気の抜けた女子高生のように過ごしていた。
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