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53 終章 宝のたからもの。
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終章
◇宝のたからもの。
宝は平日は毎朝六時に起床する。起きたらまずはキッチンでおにぎりをふたつ握り、熱い味噌汁を入れたスープジャーといっしょにランチバッグに入れておく。それから学校に行く準備をはじめる。
七時半になるとそのランチバックを父に持たせて、「いってらっしゃい」と彼を見送ってから自分も家を出る。学校が終われば父が帰ってくるまえにさっさと帰宅だ。
これが宝の母を亡くした十二歳からの習慣だった。
母がいつも父にしてやっていたことを真似して、妻を失った父が少しでもさみしくないようにと、宝なりに心をつくしてきたつもりだった。
高校にはいってからはバイトをはじめたが、それでも仕事から帰ってくる父に「おかえりなさい」と云ってやりたくて、シフトをいれるのは決まって父の仕事がない日と決めていた。
ところが大学に進学すると、そうもいかなくなった。六限目の授業のある日は、どうしても父よりも帰宅が遅くなってしまうのだ。
宝は講義が終わるなり腕時計の針を気にしながらバス停に走り、一本でもはやいバスで、そして一分でもはやくにと家を目指して走っていた。
宝はおそらく他のひとよりも情が深い。父がさみしい思いをしないようにと気にかけるのは、裏を返せば宝自身がとてもさみしがり屋で、ひとに甘えたい気持ちが大きいからだろう。
大学に進学してから変わった生活のサイクルは、二年に進級して暫くするとまた少し変化した。宝は父の勧めもあって日中にもアルバイトをするようになったのだ。
それは家計が苦しいからという理由からではない。経済学部に進んだ宝に、学んだことをこのさきの人生で活かせるように、社会人になるまえに少しでも多くいろんな仕事を見ておいたほうがいいと父に勧められたからだ。
また彼は無理に自分を見送ったり出迎える必要はないともつけくわえた。
――お父さんは俺のやっていることなんて、求めてはいなかった? 俺のやってきたことは独りよがりだったのだろか。
自分を否定されたような気持ちになった宝がすっかり動揺してしまうと、父は宝の手をとって「自分自身のことをもっと考えて欲しい」と真摯な顔をして云ったのだ。宝は首をたてに振るしかなかった。
それがちょうどジョウアン国から帰ってきた翌日の出来事だった。
顔をあげ未来を歩んでいこうと決意したばかりの宝の、人生の指針が若干角度を変えはじめたようだ。
自信をもって輝く人生を歩んでいきたい。自分のために、そして自分の大切なひとたちのために。
目下のところ、卒業後になにがしたいかだなんてまだ決まってはいないが、それでも将来のことを思って、宝は暗中模索している。
目的はまだ決まっていないとしても、宝にはイアンと肩を並べて歩いていくという、素敵な目標はあるのだから。
変わったのは生活のサイクルだけではなかった。
六限目がある日は帰宅したら二十一時だ。父はもう時間を気にするなと云ってくれたけども、その時間にちょうど仕事を終えたイアンが食事や入浴を終えて、あとは寝るだけになっている。だから彼に会うべくして、結局宝はいまも腕時計の針を気にしてバスに飛び乗っていた。しかし家を目指す宝のその内面はとても晴れやかなものだった。
これまであれほど時間が遅くなるにつれ、暗鬱と家路を急いでいた宝だが、いまでは授業中にやける顔を隠しながら時間を過ごして、胸を弾ませて家路についている。
それで宝は気づいてしまった。父を想って帰路を急いでいたときには、すでに自分は母の想いや父への愛情を委縮させて、心の奥底に縛りつけていたんだと。
お弁当を作って父に持たせてあげることも、彼を見送り出迎えることも、直子への配慮もすべて、罪責感に浸食されたまやかしの愛情だったのだ。それに気づいたとき、宝は負い目を感じて胸がちくりと痛んだ。それでも――。
それでも宝は、ただ罪悪感と義務感だけでこの七年やってきたとだけは思わないようにした。
宝がそう心強くいられるようになったのは、時折薬指できらりと光る薄桃色のキアルの石の影響だろう。それ以外にも宝自身の心の成長だってあるし、いつも寄り添ってくれているイアンの存在もある。
今日も宝はバスを降りると、笑顔で走りだした。
「ただいま!」
玄関の扉をあけて家にはいると、宝はまっさきにリビングでテレビを見ている父に声をかける。
「おぉ。お帰り」
近ごろ父がうれしそうにしている。今までも子どもたちにはよく笑顔で接してくれる父だったが、このところはよりいっそう表情が明るいのだ。
不思議に思って訊いてみると、彼は「最近宝が楽しそうにしているからだよ」と答えて笑った。
「お友だち、もう来ているみたいだよ」
「うん! 会ってくる」
階段を駆けあがった宝が部屋の扉を開けようとドアノブに手をかけると、さきに扉が内側から開いてびっくりする。
そこにはプラチナブロンドの短髪をした、凛々しい男が立っていた。彼のきれいな緑の瞳と視線を交わすだけで、宝の体温はあがる。
「宝、おかえり」
「イアンッ!」
出迎えてくれた恋人にしっかり抱きつくと、彼も宝の好みに加減した力でぎゅっと抱きしめかえしてくれた。
つきあいはじめて二カ月にも満たないふたりは、まだまだ蜜月中だ。後ろ手で扉を閉めるとそのままキスを交わしながらベッドになだれこむ。
「あ、待ってイアン。俺、今帰ってきたところなんだ。だからまだお風呂はいってない。急いではいってくるよ」
宝はイアンを押しやると、ベッドから下りた。羽織っていた春コートとカーディガンを脱ぐと、「イアンは? もうはいってきた?」と訊ねる。まだならば、いっしょにはいればいい。
「俺ははいって来たけど、宝はどうせまた終わったあとにもはいるつもりなんだろ?」
ハンガーラックにコートを掛けていると、イアンの腕が腰にまわってきた。
「だったらこのままでいいじゃないか」
「うわっ」
ひょいと引っぱり寄せられて、あっという間にベッドに腰かける彼の膝のうえに座らされてしまった。「そんなわけにはいかないよ」と云おうとしたが、言葉はすぐに彼の唇に呑みこまれてしまう。
◇宝のたからもの。
宝は平日は毎朝六時に起床する。起きたらまずはキッチンでおにぎりをふたつ握り、熱い味噌汁を入れたスープジャーといっしょにランチバッグに入れておく。それから学校に行く準備をはじめる。
七時半になるとそのランチバックを父に持たせて、「いってらっしゃい」と彼を見送ってから自分も家を出る。学校が終われば父が帰ってくるまえにさっさと帰宅だ。
これが宝の母を亡くした十二歳からの習慣だった。
母がいつも父にしてやっていたことを真似して、妻を失った父が少しでもさみしくないようにと、宝なりに心をつくしてきたつもりだった。
高校にはいってからはバイトをはじめたが、それでも仕事から帰ってくる父に「おかえりなさい」と云ってやりたくて、シフトをいれるのは決まって父の仕事がない日と決めていた。
ところが大学に進学すると、そうもいかなくなった。六限目の授業のある日は、どうしても父よりも帰宅が遅くなってしまうのだ。
宝は講義が終わるなり腕時計の針を気にしながらバス停に走り、一本でもはやいバスで、そして一分でもはやくにと家を目指して走っていた。
宝はおそらく他のひとよりも情が深い。父がさみしい思いをしないようにと気にかけるのは、裏を返せば宝自身がとてもさみしがり屋で、ひとに甘えたい気持ちが大きいからだろう。
大学に進学してから変わった生活のサイクルは、二年に進級して暫くするとまた少し変化した。宝は父の勧めもあって日中にもアルバイトをするようになったのだ。
それは家計が苦しいからという理由からではない。経済学部に進んだ宝に、学んだことをこのさきの人生で活かせるように、社会人になるまえに少しでも多くいろんな仕事を見ておいたほうがいいと父に勧められたからだ。
また彼は無理に自分を見送ったり出迎える必要はないともつけくわえた。
――お父さんは俺のやっていることなんて、求めてはいなかった? 俺のやってきたことは独りよがりだったのだろか。
自分を否定されたような気持ちになった宝がすっかり動揺してしまうと、父は宝の手をとって「自分自身のことをもっと考えて欲しい」と真摯な顔をして云ったのだ。宝は首をたてに振るしかなかった。
それがちょうどジョウアン国から帰ってきた翌日の出来事だった。
顔をあげ未来を歩んでいこうと決意したばかりの宝の、人生の指針が若干角度を変えはじめたようだ。
自信をもって輝く人生を歩んでいきたい。自分のために、そして自分の大切なひとたちのために。
目下のところ、卒業後になにがしたいかだなんてまだ決まってはいないが、それでも将来のことを思って、宝は暗中模索している。
目的はまだ決まっていないとしても、宝にはイアンと肩を並べて歩いていくという、素敵な目標はあるのだから。
変わったのは生活のサイクルだけではなかった。
六限目がある日は帰宅したら二十一時だ。父はもう時間を気にするなと云ってくれたけども、その時間にちょうど仕事を終えたイアンが食事や入浴を終えて、あとは寝るだけになっている。だから彼に会うべくして、結局宝はいまも腕時計の針を気にしてバスに飛び乗っていた。しかし家を目指す宝のその内面はとても晴れやかなものだった。
これまであれほど時間が遅くなるにつれ、暗鬱と家路を急いでいた宝だが、いまでは授業中にやける顔を隠しながら時間を過ごして、胸を弾ませて家路についている。
それで宝は気づいてしまった。父を想って帰路を急いでいたときには、すでに自分は母の想いや父への愛情を委縮させて、心の奥底に縛りつけていたんだと。
お弁当を作って父に持たせてあげることも、彼を見送り出迎えることも、直子への配慮もすべて、罪責感に浸食されたまやかしの愛情だったのだ。それに気づいたとき、宝は負い目を感じて胸がちくりと痛んだ。それでも――。
それでも宝は、ただ罪悪感と義務感だけでこの七年やってきたとだけは思わないようにした。
宝がそう心強くいられるようになったのは、時折薬指できらりと光る薄桃色のキアルの石の影響だろう。それ以外にも宝自身の心の成長だってあるし、いつも寄り添ってくれているイアンの存在もある。
今日も宝はバスを降りると、笑顔で走りだした。
「ただいま!」
玄関の扉をあけて家にはいると、宝はまっさきにリビングでテレビを見ている父に声をかける。
「おぉ。お帰り」
近ごろ父がうれしそうにしている。今までも子どもたちにはよく笑顔で接してくれる父だったが、このところはよりいっそう表情が明るいのだ。
不思議に思って訊いてみると、彼は「最近宝が楽しそうにしているからだよ」と答えて笑った。
「お友だち、もう来ているみたいだよ」
「うん! 会ってくる」
階段を駆けあがった宝が部屋の扉を開けようとドアノブに手をかけると、さきに扉が内側から開いてびっくりする。
そこにはプラチナブロンドの短髪をした、凛々しい男が立っていた。彼のきれいな緑の瞳と視線を交わすだけで、宝の体温はあがる。
「宝、おかえり」
「イアンッ!」
出迎えてくれた恋人にしっかり抱きつくと、彼も宝の好みに加減した力でぎゅっと抱きしめかえしてくれた。
つきあいはじめて二カ月にも満たないふたりは、まだまだ蜜月中だ。後ろ手で扉を閉めるとそのままキスを交わしながらベッドになだれこむ。
「あ、待ってイアン。俺、今帰ってきたところなんだ。だからまだお風呂はいってない。急いではいってくるよ」
宝はイアンを押しやると、ベッドから下りた。羽織っていた春コートとカーディガンを脱ぐと、「イアンは? もうはいってきた?」と訊ねる。まだならば、いっしょにはいればいい。
「俺ははいって来たけど、宝はどうせまた終わったあとにもはいるつもりなんだろ?」
ハンガーラックにコートを掛けていると、イアンの腕が腰にまわってきた。
「だったらこのままでいいじゃないか」
「うわっ」
ひょいと引っぱり寄せられて、あっという間にベッドに腰かける彼の膝のうえに座らされてしまった。「そんなわけにはいかないよ」と云おうとしたが、言葉はすぐに彼の唇に呑みこまれてしまう。
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