鯨井イルカ

文字の大きさ
上 下
2 / 7

蛍光灯の下で

しおりを挟む
 その部屋の天井には、木製の四角い傘がついた蛍光灯がぶら下がっていた。
 畳は酷く日に焼け、深緑色の縁はボサボサにほつれている。
 広さは四畳半か六畳ほどで、家具の類は見当たらない。
 それどころか、出入り口すら見当たらない。
 周囲はただ、薄汚れた白い壁に囲まれている。
 当然、窓があるはずもない。
 そんな部屋の中央に、私は立っていた。
 この部屋は、閉所恐怖症の人間にとっては、恐ろしいものなのかもしれない。
 しかし、幸いにも私は閉鎖した空間が苦手ではない。
 むしろ、この部屋に居心地の良さすら感じるほどだ。

 そんな部屋の中に、私以外の人間は見当たらない。 
 いや、むしろ、私以外の人間は見当たらないと思いたいのだ。
 先述の通り、この部屋には居心地の良さを感じている。
 ならば、気疲れすることなく、一人で気ままに過ごしていたい。


 しかし、部屋の壁際にいるソレのおかげで、一人きりだと断言することができない。


 ソレは、畳の長辺より少し短いくらいの長さをしていた。

 ソレは、目のないナメクジのような形をしていた。
 
 ソレは、ウジのような色をして、ウジのような脚を持っていた。

 ソレは、ヒキガエルのようなぬめりを持っていた。

 ソレは、ヘビのように全身を鱗に覆われていた。

 ここまでならば、ソレは人ではない何かだと断言しただろう。

 しかし、ソレの体には薄らと血管が浮き出ていた。
 私には何故か、その血管が人の静脈のように思えた。
 だから、この部屋にいる人間は私だけだ、と断言できずにいる。

 まあ、人と同じ静脈を持っているのだとしても、ソレを人だと断言することには違和感を覚えるが。
 
 それにしても、ソレのせいで居心地の良さが台無しになってしまっている。
 私は思わずため息を吐き、苛立った目をソレに向けた。
 しかし、ソレに私の憤慨は伝わっていないようだ。
 ソレは、先ほどから一定の速度で、ズルズルと壁に沿って前進している。
 いや、ひょっとしたら、前進ではなく後退しているのかもしれない。
 何しろ、ソレの体には前後を判断できるだけの特徴が全くないのだから。

 ソレには顔もなければ、尾も生えていない。
 
 かろうじて短い脚が生えているのは分かる。

 しかし、つま先と踵の区別まではつかない。

 だから、横歩きをしている可能性もないわけではない。
 いずれにせよ、ソレはウジ色の体に静脈を浮き出して、ただズルズルと進んでいるのだ。
 
 壁に沿って、ただズルズルと。
 
 気味が悪いとは思ったが、不思議と恐怖は感じなかった。

 ソレには、尖った牙もなければ、鋭い爪もない。

 ソレは、こちらを攻撃する手段を一切持ち合わせていないのだ。

 ソレは、ただズルズルと、壁に沿って進んでいるだけだ。

 だから、恐れることもない。

 しかし、嫌悪感を抱かないというわけではない。
 ソレの見た目は、好ましいものとは言いがたいのだから。
 できることならば、早くこの部屋を出て行きたいものだ。
 しかし、この部屋には出入り口のような物は見つからない。
 
 それでも、私は諦めきれずに壁中をくまなく見つめた。
 すると、あることに気がついた。

 
 ソレと壁の間に、僅かに隙間ができていた。

 
 あまり気がつきたくなかった発見に、深いため息が自然と口から漏れた。
 ソレは、ズルズルと進みながら、徐々に壁から離れていったのだろう。
 つまり、徐々に私に近づいているということでもある。

 逃げ出してしまいたいが、出入り口はまだ見つかっていない。
 それに、腰をひねる程度にしか、体を動かすことができない。
 それでも何とかしようと身じろぐ間にも、ソレはこちらに近づいてくる。


 少しずつだが、着実に。

 ズルズルと音をたてながら。


 ただ、この速度ならば、私の元に辿り着くには相当時間がかかるだろう。
 それまでには、出入り口が見つかり、体も動くようになるかもしれない。
 しかし、もしも間に合わなかったら……


 生ぬるくブヨブヨとした感触が、脚にまとわりつく。

 そんな想像をし、全身に鳥肌が立った。



 そこで、目が覚めた。
 ぼやけた視界の中に、寝室の様子が映る。
 木製の傘がついた蛍光灯も、日に焼けた畳もこの部屋にはない。
 部屋の南側にある窓からは朝陽が差し込み、北側にあるドアを照らしている。
 恐る恐る掛け布団を剥いでみたが、足下に何かがいるということもない。
 私は安堵のため息を吐いて、ベッドから起き上がった。

 それから、身支度をし、家を出て、満員電車に揺られ、勤め先に到着した。
 執務室に入り、軽く頭を下げながら挨拶をする。
 すると、一人の女性と目が合った。
 彼女は、すぐに眉間にしわを寄せると、あからさまに顔を反らした。
 私は苦笑を浮かべて、彼女に軽く会釈をした。
 彼女は一昨日、書類の渡し方が悪い、と突然怒りだし、それからずっとこんな様子だ。
 こちらとしては、いつも通りに手渡したつもりだった。
 それでも、彼女にとっては、何か耐えがたい違和感があったのだろう。
 もしくは、単に気分が優れなかっただけなのかもしれない。
 何にせよ、挨拶時に顔を背けられる以外、業務に支障はない。
 それに、上司や他の同僚達も、気にするな、と言っている。
 ならば、彼女の気が済むまで、放っておくより他はない。
 
 ただ、彼女に対して抱いてしまった若干の嫌悪感を、私はまだ拭えずにいる。
しおりを挟む

処理中です...