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翅愛づる姫君・九
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「後生でございます。どうか、命だけは」
「黙れ……」
月明かりが差し込む庭。ハクがあやかしを足蹴にし、その頭に刀の切先を突きつけている。
リツはその様子を眺めながら、軽く辺りを探った。感じるあやかしの気配は、蜉蝣と新たに生じた気配だけだ。庭の外に控えていた蟲はすでに塵に帰されたのだろう。
「リツ、気分はどうかな?」
不意にセツが背中をなでた。気がつけば、ひどい吐き気も頭を掻き回される感覚も治っている。
「はい。なんとか落ち着きました」
「それはよかった。あの類のあやかしは、翅音で人の気分を色々と揺さぶる術を使うからね」
「そうなのですか?」
「うん。ずっと昔に似たようなやつを退治したときは、それはもう酷い目にあったよ」
「それはご愁傷様です」
「あはは、本当にね」
化粧を施した顔に疲れた表情が浮かび深いため息がこぼれた。昼に聞いた話といい、蟲関係では散々な目に遭ってきたのだろう。
しかし、ほぼ同じ経験をしてきたはずのハクはあまり動じていない。多少気になりはしたが、疑問はすぐに解消された。
「私が命を落とせば、地虫の姫君は悲しみの淵に」
「黙れと……、言っているだろう……?」
「ぃ゜っ!?」
切先が無機質な肌に軽くめり込み、踏みつけられた身体が軽く跳ねる。
嫌な記憶をかき消すほどの怒りを抱いていることは、容易に見てとれた。
「……ともかく、翅を封じてもらったから大丈夫だと思うけど、なにかあったらすぐに教えてね」
「かしこまりました。お気遣いありがとうございます」
「いえいえ。じゃあ、本題に戻ろうか……ハク」
セツが声をかけると、ひどく冷たい目がもがくあやかしから離された。
「なんだ……?」
「そのまま退治させてあげたいのは山々なんだけどさ、ちょっとだけ待ってもらえない? お産は無事に済んだみたいだから、咬神の姫君にかけた呪いを解いてもらわないと」
「そんなの……、こいつを塵に帰せば……、済む話だろう……」
「あのな、呪いってのはそんな簡単な話じゃないんだよ。むしろ、ここで退治しちゃったら解けるやつがいなくなって、余計にややこしいことになる」
「そう……、なのか……?」
どこか不安げな表情がリツへ向けられる。気は思いが、ここで気休めを口にしても意味はないだろう。
「……はい。古来より死に際にあやかしが放った呪いによって永く苦しむ者の話は、腐るほど残っていますね」
「そうか……」
落胆した声とともに、ハクの手にこもっていた力が緩められていく。その途端、表情などないはずの蟲の顔に下卑た笑みが浮かんだように見えた。
「ええ、鋭き姫君のおっしゃる通りです! しかしながら、私としたことが呪いの解き方を忘れてしまったようです。一度住処に戻れば、思い出すための手がかりを見つけられるはずです」
「貴様……、ふざけたことを……」
「き゜っ!?」
再び額に切先が食い込み、耳障りな悲鳴が上がる。
この様子だと、呪いを解かせるにはそこそこの労力がかかりそうだ。そう考えていると、静かな足音が近づいてきた。
「巣に帰す必要はない」
廊下の影から現れたのは、漆黒の退治人装束に身を包んだ咬神だった。その顔にはなんの表情も浮かんでいないように見える。しかし。
「……ここは、私たちが口を挟まないほうがよさそうだね」
「……そうですね、セツ班長」
纏う空気は一瞬で血の気が引くほど怒気に満ちていた。
「ハク殿。それの処理は、私たち烏羽玉に任せていただけないだろうか?」
「まだ……、姫への呪いが……」
「時間はかかるやもしれないが、呪術解析班に任せれば解くことはできるはずだ」
「しかし……、呪術解析班は……、本部にあるのでは……?」
「ああ、都へ向かう必要があるな。どの道、娘が術を使えると把握できていなかったことも含め、今回の件で私も本部の処分を受けなくてはならない。その手土産くらいにはなるだろう」
下卑た笑みが深まったように見えた。時間が稼げたとでもかんがえているのだろう。その浅はかさに、憐れみさえ覚えた。
「ただ。頭さえあれば十分だがな」
「──ぇ゜?」
「千切れ」
「い゛!? ぃぃ゜い゛ぃい゜」
甲高く濁った悲鳴に混じり、乾いた音が押し寄せる。思わず顔を背けたが、あやかしの首周りに無数の蟲が群がる様が一瞬だけ見えた。
「たすけ」
「黙れ」
「──」
冷ややかな声に、命乞いが掻き消える。
「あやかしだからあのくらいじゃ死ねないだろうけど、生きたまま頭が身体から離れるのもけっこうつらいよね」
「それは、そうでしょうね」
どこか呑気なセツに相槌を打っているうちに、乾いた音は鳴り止んだ。庭に目を戻すと、首をもがれた蟲の身体が横たわるばかりになっていた。その傍に刀を握りしめたハクが、やるせない表情で立ちすくんでいる。
「ハク殿。そちらはもう必要ないので、塵に帰していただけるか?」
「ああ……、分かった……」
「かたじけない。ああ、それと……、孫は私と伴に本部へ連れていくが、娘は正気に戻るまで休ませてやりたい。勝手なことを言って申し訳ないが、面倒をみてくれないだろうか?」
「……ああ」
「重ね重ねかたじけない。そばにいるのが君であれば、娘も安らぐだろうから。それでは」
静かになった蜉蝣の頭を抱えながら、咬神はまた廊下の影へ消えていった。
「……」
庭に残されたハクは横たわる身体に深く刃を突き立てる。
「……姫君の長患いを期待するのは、私だけかな」
「……そうでもないと、思いますよ」
セツに相槌を打つリツの視線の先で、白い塵に変わった死骸が崩れていった。
「黙れ……」
月明かりが差し込む庭。ハクがあやかしを足蹴にし、その頭に刀の切先を突きつけている。
リツはその様子を眺めながら、軽く辺りを探った。感じるあやかしの気配は、蜉蝣と新たに生じた気配だけだ。庭の外に控えていた蟲はすでに塵に帰されたのだろう。
「リツ、気分はどうかな?」
不意にセツが背中をなでた。気がつけば、ひどい吐き気も頭を掻き回される感覚も治っている。
「はい。なんとか落ち着きました」
「それはよかった。あの類のあやかしは、翅音で人の気分を色々と揺さぶる術を使うからね」
「そうなのですか?」
「うん。ずっと昔に似たようなやつを退治したときは、それはもう酷い目にあったよ」
「それはご愁傷様です」
「あはは、本当にね」
化粧を施した顔に疲れた表情が浮かび深いため息がこぼれた。昼に聞いた話といい、蟲関係では散々な目に遭ってきたのだろう。
しかし、ほぼ同じ経験をしてきたはずのハクはあまり動じていない。多少気になりはしたが、疑問はすぐに解消された。
「私が命を落とせば、地虫の姫君は悲しみの淵に」
「黙れと……、言っているだろう……?」
「ぃ゜っ!?」
切先が無機質な肌に軽くめり込み、踏みつけられた身体が軽く跳ねる。
嫌な記憶をかき消すほどの怒りを抱いていることは、容易に見てとれた。
「……ともかく、翅を封じてもらったから大丈夫だと思うけど、なにかあったらすぐに教えてね」
「かしこまりました。お気遣いありがとうございます」
「いえいえ。じゃあ、本題に戻ろうか……ハク」
セツが声をかけると、ひどく冷たい目がもがくあやかしから離された。
「なんだ……?」
「そのまま退治させてあげたいのは山々なんだけどさ、ちょっとだけ待ってもらえない? お産は無事に済んだみたいだから、咬神の姫君にかけた呪いを解いてもらわないと」
「そんなの……、こいつを塵に帰せば……、済む話だろう……」
「あのな、呪いってのはそんな簡単な話じゃないんだよ。むしろ、ここで退治しちゃったら解けるやつがいなくなって、余計にややこしいことになる」
「そう……、なのか……?」
どこか不安げな表情がリツへ向けられる。気は思いが、ここで気休めを口にしても意味はないだろう。
「……はい。古来より死に際にあやかしが放った呪いによって永く苦しむ者の話は、腐るほど残っていますね」
「そうか……」
落胆した声とともに、ハクの手にこもっていた力が緩められていく。その途端、表情などないはずの蟲の顔に下卑た笑みが浮かんだように見えた。
「ええ、鋭き姫君のおっしゃる通りです! しかしながら、私としたことが呪いの解き方を忘れてしまったようです。一度住処に戻れば、思い出すための手がかりを見つけられるはずです」
「貴様……、ふざけたことを……」
「き゜っ!?」
再び額に切先が食い込み、耳障りな悲鳴が上がる。
この様子だと、呪いを解かせるにはそこそこの労力がかかりそうだ。そう考えていると、静かな足音が近づいてきた。
「巣に帰す必要はない」
廊下の影から現れたのは、漆黒の退治人装束に身を包んだ咬神だった。その顔にはなんの表情も浮かんでいないように見える。しかし。
「……ここは、私たちが口を挟まないほうがよさそうだね」
「……そうですね、セツ班長」
纏う空気は一瞬で血の気が引くほど怒気に満ちていた。
「ハク殿。それの処理は、私たち烏羽玉に任せていただけないだろうか?」
「まだ……、姫への呪いが……」
「時間はかかるやもしれないが、呪術解析班に任せれば解くことはできるはずだ」
「しかし……、呪術解析班は……、本部にあるのでは……?」
「ああ、都へ向かう必要があるな。どの道、娘が術を使えると把握できていなかったことも含め、今回の件で私も本部の処分を受けなくてはならない。その手土産くらいにはなるだろう」
下卑た笑みが深まったように見えた。時間が稼げたとでもかんがえているのだろう。その浅はかさに、憐れみさえ覚えた。
「ただ。頭さえあれば十分だがな」
「──ぇ゜?」
「千切れ」
「い゛!? ぃぃ゜い゛ぃい゜」
甲高く濁った悲鳴に混じり、乾いた音が押し寄せる。思わず顔を背けたが、あやかしの首周りに無数の蟲が群がる様が一瞬だけ見えた。
「たすけ」
「黙れ」
「──」
冷ややかな声に、命乞いが掻き消える。
「あやかしだからあのくらいじゃ死ねないだろうけど、生きたまま頭が身体から離れるのもけっこうつらいよね」
「それは、そうでしょうね」
どこか呑気なセツに相槌を打っているうちに、乾いた音は鳴り止んだ。庭に目を戻すと、首をもがれた蟲の身体が横たわるばかりになっていた。その傍に刀を握りしめたハクが、やるせない表情で立ちすくんでいる。
「ハク殿。そちらはもう必要ないので、塵に帰していただけるか?」
「ああ……、分かった……」
「かたじけない。ああ、それと……、孫は私と伴に本部へ連れていくが、娘は正気に戻るまで休ませてやりたい。勝手なことを言って申し訳ないが、面倒をみてくれないだろうか?」
「……ああ」
「重ね重ねかたじけない。そばにいるのが君であれば、娘も安らぐだろうから。それでは」
静かになった蜉蝣の頭を抱えながら、咬神はまた廊下の影へ消えていった。
「……」
庭に残されたハクは横たわる身体に深く刃を突き立てる。
「……姫君の長患いを期待するのは、私だけかな」
「……そうでもないと、思いますよ」
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