魔獣の友

猫山知紀

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第83話 黒い森

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 竜の爪の中腹、ニケがケルベの反応を感じた場所を目指して、リディたちは竜の爪を登っていた。竜の爪は凶悪な魔獣の巣であり、人がめったに訪れない場所だ。当然登山道が整備されているわけもなく、二人と二頭は道なき道を切り開きながら進んでいった。

 魔獣の巣とは言いつつも、バジリスクとグリフォンが共にいるからか、あのヘルハウンド以降魔獣に遭遇することがなかったのは幸運だった。

 日はそろそろ天頂に登っているはずだが、いつの間にか空を覆った厚い雲が太陽の光を阻んでいる。どんよりとした空模様のせいか、はたまた別の要因か、リディはなんとも表現し難い嫌な予感を感じていた。

 リディはグリフに、ニケはバジルに乗って山道を進んでいく。時折木々が行く先を完全に塞いでることがあったが、そのときにはリディが剣を振るい、次に同じような状況に遭遇したらニケが魔法で退け、互いに力を温存しながら山を登っていく。

 方向感覚を見失わないよう、時折立ち止まってケルベの気配があった方角を確認する。山をぐるりと回り込むように歩を進め、木々が開けた場所に来ればその場所がもうすぐ視界に入ってくるはずだ。

 そうして竜の爪を登る道の中、森の中で突き出た岩に乗ったとき、ふと振り返ると眼下には竜の爪の裾野が広がり、いつの間にか随分と高いところまで登ってきていた。だが、それでもまだ竜の爪の三分の一程度を登っただけだ。

「晴れていれば、より絶景だったろうな」

 目の前に広がる景色を前にリディはそう呟いた。
 雲に覆われた空の下でさえ、視界に果てしなく広がる大地は世界の広さを感じさせる。それと同時に自分という世界の小ささを眼前に突きつけられるようで、リディは自身を嘲笑するような笑みを浮かべた。

 だが、世界にとって小さかろうがリディにも守りたいものはある。小さいものは小さいものなりに、世界という大きな流れの中に、自分の居場所を作ろうともがくのだ。

 山を登りながら、そんなことを考えていたときだった。
 先に森の終わりが見えてきた。リディとニケは、グリフとバジルから降りて、木々に身を隠しながら森の先の様子を窺う。森の先は隠れようのない山肌の露出した場所だった。木に隠れながら魔獣の気配を探るが、近くにはいそうにもない。リディとニケはそれを確認すると森から歩みでる。

しっとりとした土と落ち葉に覆われていた地面は、土と岩、そして少しの草に覆われた、山肌へと変わる。顔を上げて山頂を見れば、竜の爪は未だ気の遠くなるような高さを誇り、リディたちを見下ろしている。

 しかし、リディたちの目を奪ったのは竜の爪の山頂ではなかった。

「なん、だ……あれは?」

 そこには黒があった。竜の爪の中腹、山肌を覆う森の一部が絵の具で塗りつぶしたように真っ黒に染まっていた。その様子はまるで山にぽっかりと穴が空いているようで、その黒い森に飲み込まれそうな錯覚さえ覚える。

 黒い森に目を見開いていたリディの肌が粟立つ。リディの経験と勘が、あの森に近づいてはいけないと叫んでいる。

 ふと、視界に青い光が入り、そこに目を向けると、首から下げていたペンダントがいつの間にか青く強く光っていた。その光り方はキドナに反応したときの明るさの比ではない。リディに警告するように不規則に明滅しながら青く輝いていた。

(あの森に反応しているのか……?)

 リディのペンダントが光るのは決まって魔素が関連していたときだった。リトナで巨大ヒジカにあったとき、黒く焼かれたルナークを訪れたとき、そして、キドナと戦ったとき。
 このペンダントは魔素に反応して光っていた。つまり、あの黒い森は魔素の塊と言うことだ。

 近づいてはいけない。騎士団に所属していたリディなら、あの森には近づかず、即この場から離れて報告に戻るだろう。だが、今為すべきことは違う。

 リディは横にいるニケに目を向ける。一見平静に見えるニケだが、今まで旅をしてきたリディにはわかる。ニケの脚は小さく震えていた。

「ニケ、大丈夫か?」

 ニケの村を襲った存在は、全てを黒く焼き尽くしたと言っていた。おそらく、あの黒い森はニケの村と同じ状態になっている。黒い森を見て、村を襲われたときのことを思い出したのか、ニケの脚の震えが止まる様子はなかった。

「大丈夫、行かなきゃ」

 脚の震えを止められないまま、ニケは足を踏み出した。ニケに従うようにバジルとグリフもニケに続く。

「あっ、おい! 待て、先にケルベの居場所を――」
「あそこにいる」
「えっ?」

 リディが呼び止めるのも構わず、ニケは足を動かす。意志の灯ったその目は、あの黒い森を見ていた。

「ケルベは、あそこにいる」

 そう言ってニケは、おぼつかない足取りで黒い森へ向けて歩いていった。

 ニケの言葉を聞いてリディは改めて黒い森に目を向ける。恐ろしい、いや、おぞましいとさえ感じる黒い森の気配に、森へ向かうことに体が拒否感を覚える。

 リディは『ふぅ』と一つ息を吐き、首から下げていたペンダントを手に握りしめると、強く魔力を込めた。ペンダントがリディの魔力に反応して、より強く輝く。キドナを浄化したときと同じ光だ。その光が辺りを照らすと、リディが黒い森に感じていた嫌悪感や恐怖心がやわらいだように感じた。

 リディは大きく深呼吸して、自身の心を落ち着ける。そして、黒い森に目を向け、自身の心の状態を冷静に見つめた。

 (大丈夫だ。怖くない……)

 ペンダントの力のおかげか、先程までの得も知れぬ恐怖心はだいぶ鳴りを潜めていた。全く怖くないかというと嘘になるが、身が竦んだり、脚が震えることはない。思った通りに体を動かせるなら、いざという時の対処もできる。

 それを確認すると、リディはニケを追いかけ、その肩を捕まえた。
 そして、ニケを振り向かせると、ニケが首から下げているペンダントを持ち上げる。ジャッカの家からヘニーノへの帰り道の途中で商人からもらった2つ目のペンダントだ。

 リディはそのペンダントに、自身のと同じように魔力を込めた。リディの手のひらから青い光が溢れて、周囲を照らす。

「これで、多少はマシになるだろ。脚が震えたままじゃ、あの森に辿り着くのも難しいぞ」
「……うん、ありがとう」

 リディに声を掛けられたことでニケは少し冷静さを取り戻した。黒い森はニケにとって恐怖の象徴だ。今もあの時の光景を鮮明に思い出してしまうのを必死に振り払っている。本当なら今すぐにでもここから離れたい。しかし、これに耐えなければケルベに会うことはできない。気ばかり焦ってしまい、冷静になることができていなかった。

 リディが魔力を込めたペンダントをニケ自身も握りしめてみる。このペンダントにそんな効果があるかはわからないが、青い輝きを放つペンダントをぎゅっと握ると、心が少し落ち着く気がした。

「ニケ、目的はケルベを連れ帰る、でいいな?」

 ニケの様子が落ち着いたのを見計らって、リディがニケに問いかけた。

 あの黒い森で何が待っているかはわからない。まだ距離はあるが、ひりひりと刺すような人を寄せ付けぬ瘴気をここからでも感じる。そして、その瘴気の真っ只中にいるであろうケルベを連れて帰るのが、今回の目的だ。

 ただ、そう簡単にケルベを連れて帰ることができるかはわからない。ケルベが魔獣化していたら? 他の魔獣たちが襲ってきたら? そして何より、ケルベを呼んだという声の主もあの森にいる可能性が高い。

 悪いことを考えればキリがなく、いざとなったとき、何を切り捨てて、何を守るのか、その答えを瞬時に出さねばならない。一瞬の迷いが取り返しのつかない失敗になることもあるからだ。

 だから、リディはニケに問いかけた。
 そしてニケは、『うん』とリディの目を真っ直ぐに見据えて答えた。

 リディも、ニケも、バジルも、グリフも二人と二頭の心は決まった。あとは、あのおぞましい森へ出向き、ケルベを取り返すだけだ。
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