ワンライまとめ

雫川サラ

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部下と傷心上司(古谷×安江)

この想いは地獄まで

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 久しぶりに、飲み過ぎた、と思う。
「課長~、そろそろお席お時間ですって~」
 あー、分かった、分かった。そんな返事をしたような気がするが、ちゃんと言葉になっていたか怪しい。
 ふらつく足元をなんとか踏ん張りながら、店員に差し出された伝票の金額を確認して、カードを渡してサインする。
「課長、ごちそうさまです!」
「ですー!」
 営業部第三課、七人の部下を抱え、小さな会社の課長を務める安江は、先週末恋人に振られたばかりだった。
 三十代も半ばにさしかかり、もうすぐに他を探せるような年でもなく、二十代後半からずっといい関係にあったと思っていた相手に別れを切り出された衝撃と喪失感は言葉にならない。
 巷でひっそり人気らしいゲイカップルのほのぼのした日常を描いた連続ドラマシリーズのような、ずっと穏やかな日々を自分たちも送っていけると思っていたのだ。
 愛していた。愛していたからこそ、縋ることも引き留めることもできなかった。相手の幸せが他にあるのなら、自分がそこにいてその妨げになるという選択肢は取れなかった。
 もう、このまま一人で老いていくのかもしれない。独居老人、という言葉が妙にリアルな重みを持って浮かんでくる。
 このまま仕事をまっとうして、それから自分は何をするんだろう。
 久しぶりに週末が怖いと思った。空っぽの部屋のそこここに、恋人だった男の気配を感じてしまいそうになる。
 その恐怖が、安江を無意識に深酒に追い込んだ。
「課長、さっきみんなでこのあとカラオケ行こうって話してたんですけど、課長もどうですか~?」
 いつもだったら、断ってさっさと家に帰っている。でもそれは、待っている男がいた頃の話だ。
 カラオケなんて、大袈裟ではなくここ十年は行っていない。恋人(元、だ)がそういうタイプではなかったのもあるし、元々そんなに大勢で騒音の中にいるのが安江自身そう好きではなかった。
 けれど。
「うん、そうだな、じゃあ俺も行こうかな」
「えっ!? ほんとですか!?」
「課長がカラオケ行くって言ってくれるの、もしかして初めてじゃないです?」
「そうかな、そうかも」
 思いがけない盛り上がりを見せた一行は、早速近所の店舗の予約をしたらしく、ぐいぐいと引きずられるようにして繁華街の大通りを連れて行かれる。
 まだ日中は汗ばむ陽気だが、夜はもう秋風が肌寒い。酔って熱った肌にひんやりと心地よく感じられるそれに、無性に感傷的になりそうになるのを、安江は頭を振って忘れようとして、その拍子にぐらりと足元が傾いた。
「っ、大丈夫すか」
「あ……」
 思いがけなく力強い腕に支えられて、無防備に狼狽えた。
 ——断じて錯覚したわけじゃない、あいつはもっと背が低かったし……。
 でも、自分の身体に誰かの、男の腕の感触を覚えるのは久しぶりで。
 そう、もう最後の数ヶ月は触れられることもほとんどなかった。それを落ち着いていた、と思おうとしていた自分の努力が涙ぐましい。
 顔が赤くなったのが酔っていて分からなかっただろうことが救いだった。
「ごめん、ありがとう」
「課長、いつもカラオケとかこないのに、珍しいっすね」
 男性の平均身長である安江より頭ひとつ上から話しかけてきたのは、入社五年目の古谷新。冗談みたいな名前だが本名だという。課は違うが同じ営業部にもう一人古谷がいるので、「新しい方の古谷」と名前をもじって呼ばれていて、営業先でもそれを持ちネタにしているので覚えられやすくて得なやつだと思っていた。
 顔立ちは華やかだが、比較的口数が少なくて根の真面目なタイプ。学生時代はバスケ部だったらしいが頭を使ってプレーするタイプだな、というのが第一印象だった。
 要は、好感度は最初から高い。古谷が入社してきて安江のチームに配属になった当時、安江には恋人がいたからそもそもそんな目で見たこともなかったが、自分が若かったら夢中になっただろうな、くらいは思ったことがある。
 そんな古谷が安江の足取りを危ないと判断したのか支えた腕をおろさないので、なんとなく気恥ずかしいが役得だとそのまま歩きながら安江はなんと答えたものかな、と悩んだ。
 そりゃ洗いざらいぶちまけられたら楽だろうが、酔いが回り切った頭でもそれがとんでもないことになるのはわかる。
「はは、まあね。たまにはいいかなって」
「そっすか」
 案の定、それ以上追求してこない古谷の距離感は心地よかった。
 ——年甲斐もなくハマらないようにしないとダメだぞ、安江博。お前はもういい年で立場もあり、この若者は男なんてとんでもない、バイである可能性すら薄い。おそらく普通に彼女がいて、きっと数年以内に結婚式で挨拶してくれって言ってくる。その時は笑顔で引き受けてやらなきゃならない。
 ぼわついた頭でそんなことを考えているうちに、店舗に着いたらしい。騒々しい店内を案内され、大きめの個室に入って皆がああでもないこうでもないと盛り上がっているのを眺めながら、安江はさすがに事態の深刻さに気づき始めていた。
 ——俺、歌えんの?
 十年前ならもう少し何かしらごまかしのきくレパートリーもあった気がするが、もうすっかりそういう世界から遠ざかり過ぎていて、パッと出てくる曲がない。
 ——ま、みんなが歌うのを聞いてればいいよな。古谷は何を歌うんだろ。
 すっかり傍観者を決め込んだ安江に、非情な声がかかる。
「はい! 課長も何か歌ってくださいよ!」
「えええ……」
 弱った。皆が期待の目で見ている中、場を白けさせるのは本意ではない。
 仕方なく、ええいままよと時代遅れなのを承知で昔はやったラブソングを一曲探して、入力する。
「これで予約できてる?」
「ちょっと待ってくださいね……あ、ちゃんと入ってます。これ、課長の好きな曲なんですか?」
「ああ、まあね……君らにはちょっと古いだろうけど、それくらいしか思いつかなくて、ははは」
「え~楽しみ~!」
 部下はみな明るくていい子たちなのだが、やはりこれはかなり恥ずかしい。
 ——素面では無理だな。やっぱりアルコールをもらおう……。
「~~~♪」
 猛烈に恥ずかしくて、歌い終わると同時にさっき届いたばかりのビールを流し込んだ。
 やはりみんな知らなかったと見えて、盛り上がりも今ひとつだったし、もうこれで勘弁してもらえるだろう。
「どうぞ」
 その時、トイレに立った隣の女子社員の空いたスペースにスッと寄ってきた影があった。
「古谷」
 水の入ったグラスだ。いつの間に頼んでいたのだろう。
「ありがとう。営業の鑑だね」
「さっきの、俺の姉が好きな歌手の歌で、俺も結構好きでした。いいですよね」
 もう次の曲が始まっているので、耳を寄せないと聞き取れない。耳元で囁くような距離に心臓がドキドキしてしまう。
「そ、そうなんだ。よかった」
 それだけをなんとか言って、安江はハンカチで汗を拭った。

「じゃあ、俺はここで。みんなもあまりはめを外さないんだよ」
 二次会もお開きとなり、あとは若いものたちだけで、と安江も帰路に着く。
 ところが、駅へ向かう安江の後ろから、パタパタと追いかけてくる足音がした。
「課長」
「古谷。あっちに行ったのかと」
 それには答えず、古谷が安江に並んで歩き始めるから、なんとなくそわそわとした気持ちを抱えながら仕方なく安江も歩調を合わせた。
「古谷、なんか知らない洋楽歌ってたけど、かっこよかったぞ」
「いや、あれも姉貴の影響で……って、なんか恥ずかしいっすね。そういう課長も歌うまかったっす。なんか、上手いってか、声がいい」
 まっすぐ褒められて、また無防備に狼狽えた。今度はもう酔いのせいにできない。
 声なんて、コンプレックスの最たるものだったのに。最中の声が集中できない、と言われて、いつも枕に押し付けていたのを思い出してしまう。
 黙ってしまった安江を訝しく思ったのか、古谷が顔を覗き込んできて、目を見開いた。
「かちょ……顔、真っ赤……」
 ああ、もう誤魔化せない。
 安江は眉を下げて、地獄に落ちる覚悟をした。

   ーーー

第83回 お題「カラオケ」「ラブソング」
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