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恋に落ちる一秒前
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はあ、ともふう、ともつかない息を漏らして、隆一は空を見上げた。
夜空があるはずのそこは、ぎらつくネオンと街灯と季節感を無視して年中ついているイルミネーションに霞んでよく見えない。
匂いを気にして電子タバコに変えたけれど、紙巻きの味がたまに無性に恋しくなる。今夜のような晩は、特に。
苛立ちをやり過ごす術も身につけてしまった。苛立ったところで仕方のないことだったからだ。
「戻るか、帰るか……どうすっかな」
仕立ての良い明るめの地のスーツ。洒落たシャツとネクタイ、時計は派手な有名どころではなく老舗ブランドのものを。格が表れる革靴には一番金をかける。髪は明るすぎない程度に色を入れ、清潔感と遊び心を両立させるように少し崩して。
そうやって、隆一は「余裕がある遊び上手な大人」に自分を仕立て上げる。酒は日本酒や焼酎の方が性に合っているが、口説くには行きつけのワインバーが一つ二つある方が格段にうまくいく。
女性を口説くなら、もう少し方向性は違っていただろう、と思う。けれど隆一が口説きたいのはもっぱら男性だった。全てはそのために、戦略的に作り上げた虚像だ。
実際、若い頃より精神的にも金銭的にも余裕がある今、物欲しそうなぎらぎらした若い子を口説くのはある程度思い通りにできるし、思い通りの結果を得られる確率も上がった。
今夜も、そうしてうまく口説き落とした子としけ込んだホテルから出てきたばかりだ。
けれど、思い描いた憧れだった大人になれたはずなのに、何だか虚しさを感じることも増えた。
一夜の享楽を共にする相手には事欠かない。若い頃よりモテるくらいだし、相手が求める男を演じて満足させられる自信もある。一人目と励んだ後、同じバーへ戻って二人目を物色することもザラだ。
なのに一体、この虚しさは何なんだろう。
歩道の柵にもたれかかってぼんやりと通りを行き交う人を眺めながら、隆一は何度目かのため息と一緒に煙に似た水蒸気を吐き出す。
もう深夜と言っていい時間帯だが、週末の繁華街の人通りは多い。会社の飲み会の帰りと思しき集団や、隆一と同じようなナンパ目的と目線の動きでわかる男たちに混ざって、馬鹿笑いしながらもつれるように歩く若い集団が目に入った。
——大学生か? いいねえ、若いって。
年寄りくさいことを頭の中で思いながら、感慨に耽る。
何もしなくても弾けるようなエネルギーが宿っているのが、その顔から、肌から見て取れる。最近隆一が少し気にし始めたフェイスラインも、嘘のように整っていて、思わず触れてみたくなってしまう。服も靴もカバンもさして高級なものでないのに、あの年代の持つ魔法のような力で身に纏うものなど色褪せるほどの魅力がある。
あの中に混ざりたくても、もう混ざれない。
ああいう時代が隆一にもあった。まだ何も知らなくて、だからこそ無敵みたいに楽しかった。恋をして、恋に敗れて、持つべきものは友だと言いながら酔い潰れて。今より何もかもが鮮やかで、馬鹿みたいに、楽しかった。
——今日はもう、帰るか。
何だか身体の空気が抜けたような心地で、隆一は腰掛けていた柵から身体を起こす。
「大人になんか、なるもんじゃねえな」
ふうっと鼻から水蒸気を吐き出し、電子タバコを胸ポケットにしまいながら、首を回した。
その時、唐突に背後から声がした。
「お兄さん、大人になりたくなかったの?」
振り向いたら、さっき通り過ぎたはずの大学生集団にいたはずの一人が、隆一の後ろから柵に手をついて乗り出すように隆一を見上げている。
かなり酔っているのだろう、目元がほんのりと赤みを帯びて、少し気だるげな様子はさっきと打って変わった色気を漂わせていた。大きめのブルゾンからのぞく首筋がいやに艶かしい。
普段なら、こんな酔っ払いに絡まれてもさっさと振り切って歩き去るのが隆一だ。遊びは綺麗に後腐れなく、がモットーの隆一は、遊ぶ相手も来るもの拒まないように見えてかなり慎重に選んでいる。
けれど今夜はなぜか、らしくもなくこの稚拙な誘いに乗ってみよう、と思った。何だか胸の奥がわくわくした。
手をぐいぐい引かれて歩くのが何だか少し気恥ずかしい。自分が肩でも抱いて歩くなら様になるのだろうが、これでは格好がつかない。
「ちょっと、待ってくれ、もう少し歩く速度を、」
「いいからこっち!」
真也と名乗った男子大学生が指差した先には、繁華街の外れにある小さめの観覧車があった。
観光客しか乗らないそれは隆一にとってはネオン看板と同程度の役割しかなかったが、真也はそれに乗る気のようだ。
「おい、あれ乗るのか?」
「そうだよ! お兄さん乗ったことない?」
「そりゃあんなの、観光客くらいしか乗らねえだろ」
いつの間に、口調まで素が出て砕けてしまっているが、もう今更気を遣っても遅い。そもそも誘われたと思ったのは隆一だけで、真也はそういう対象として自分を見ていない可能性だってあった。
入り口で金を払って乗り込むと、観覧車はモーター音を上げながら上がっていく。
「あー、さっきいたとこ、もうあんな小さくなってる!」
隆一に身を寄せるようにして窓ガラスに額を押し付ける真也にしつこく促されて、隆一も仕方なく窓の下を見る。
「……本当だな」
意外にも、何だか隆一は腹の底がくすぐられるような、性的なものとはまた違った純粋で静かな興奮が芽生えてくるのを感じていた。
今までしたことのないことをしている。計算も何もなく、ただ楽しむためだけに今ここにいて、駆け引きのない会話をしている。
それだけのことが、ずっと忘れていたような、わくわくするような気持ちを隆一の中に呼び起こしている。
「お兄さん、そうやって笑ってた方がかっこいいよ」
言われて、ん? と真也を振り返った。
「さっきまでずっと、つまんなそうな顔してた」
ここ。
とんとん、と眉間をつつかれて、面食らう。
全く年の差に構えず、気にもしていない真也の様子に、隆一まで不思議と何も気にならなくなっていく。
「隆一」
「え?」
「俺の名前。隆一」
りゅう、いち、と口の中で転がすように繰り返した真也に、隆一はこの不思議で静かな興奮の正体を理解した。
恋に落ちる、一秒前。
ーーー
第84回 お題「ワイン」「大人になんてなりたくなかった」
夜空があるはずのそこは、ぎらつくネオンと街灯と季節感を無視して年中ついているイルミネーションに霞んでよく見えない。
匂いを気にして電子タバコに変えたけれど、紙巻きの味がたまに無性に恋しくなる。今夜のような晩は、特に。
苛立ちをやり過ごす術も身につけてしまった。苛立ったところで仕方のないことだったからだ。
「戻るか、帰るか……どうすっかな」
仕立ての良い明るめの地のスーツ。洒落たシャツとネクタイ、時計は派手な有名どころではなく老舗ブランドのものを。格が表れる革靴には一番金をかける。髪は明るすぎない程度に色を入れ、清潔感と遊び心を両立させるように少し崩して。
そうやって、隆一は「余裕がある遊び上手な大人」に自分を仕立て上げる。酒は日本酒や焼酎の方が性に合っているが、口説くには行きつけのワインバーが一つ二つある方が格段にうまくいく。
女性を口説くなら、もう少し方向性は違っていただろう、と思う。けれど隆一が口説きたいのはもっぱら男性だった。全てはそのために、戦略的に作り上げた虚像だ。
実際、若い頃より精神的にも金銭的にも余裕がある今、物欲しそうなぎらぎらした若い子を口説くのはある程度思い通りにできるし、思い通りの結果を得られる確率も上がった。
今夜も、そうしてうまく口説き落とした子としけ込んだホテルから出てきたばかりだ。
けれど、思い描いた憧れだった大人になれたはずなのに、何だか虚しさを感じることも増えた。
一夜の享楽を共にする相手には事欠かない。若い頃よりモテるくらいだし、相手が求める男を演じて満足させられる自信もある。一人目と励んだ後、同じバーへ戻って二人目を物色することもザラだ。
なのに一体、この虚しさは何なんだろう。
歩道の柵にもたれかかってぼんやりと通りを行き交う人を眺めながら、隆一は何度目かのため息と一緒に煙に似た水蒸気を吐き出す。
もう深夜と言っていい時間帯だが、週末の繁華街の人通りは多い。会社の飲み会の帰りと思しき集団や、隆一と同じようなナンパ目的と目線の動きでわかる男たちに混ざって、馬鹿笑いしながらもつれるように歩く若い集団が目に入った。
——大学生か? いいねえ、若いって。
年寄りくさいことを頭の中で思いながら、感慨に耽る。
何もしなくても弾けるようなエネルギーが宿っているのが、その顔から、肌から見て取れる。最近隆一が少し気にし始めたフェイスラインも、嘘のように整っていて、思わず触れてみたくなってしまう。服も靴もカバンもさして高級なものでないのに、あの年代の持つ魔法のような力で身に纏うものなど色褪せるほどの魅力がある。
あの中に混ざりたくても、もう混ざれない。
ああいう時代が隆一にもあった。まだ何も知らなくて、だからこそ無敵みたいに楽しかった。恋をして、恋に敗れて、持つべきものは友だと言いながら酔い潰れて。今より何もかもが鮮やかで、馬鹿みたいに、楽しかった。
——今日はもう、帰るか。
何だか身体の空気が抜けたような心地で、隆一は腰掛けていた柵から身体を起こす。
「大人になんか、なるもんじゃねえな」
ふうっと鼻から水蒸気を吐き出し、電子タバコを胸ポケットにしまいながら、首を回した。
その時、唐突に背後から声がした。
「お兄さん、大人になりたくなかったの?」
振り向いたら、さっき通り過ぎたはずの大学生集団にいたはずの一人が、隆一の後ろから柵に手をついて乗り出すように隆一を見上げている。
かなり酔っているのだろう、目元がほんのりと赤みを帯びて、少し気だるげな様子はさっきと打って変わった色気を漂わせていた。大きめのブルゾンからのぞく首筋がいやに艶かしい。
普段なら、こんな酔っ払いに絡まれてもさっさと振り切って歩き去るのが隆一だ。遊びは綺麗に後腐れなく、がモットーの隆一は、遊ぶ相手も来るもの拒まないように見えてかなり慎重に選んでいる。
けれど今夜はなぜか、らしくもなくこの稚拙な誘いに乗ってみよう、と思った。何だか胸の奥がわくわくした。
手をぐいぐい引かれて歩くのが何だか少し気恥ずかしい。自分が肩でも抱いて歩くなら様になるのだろうが、これでは格好がつかない。
「ちょっと、待ってくれ、もう少し歩く速度を、」
「いいからこっち!」
真也と名乗った男子大学生が指差した先には、繁華街の外れにある小さめの観覧車があった。
観光客しか乗らないそれは隆一にとってはネオン看板と同程度の役割しかなかったが、真也はそれに乗る気のようだ。
「おい、あれ乗るのか?」
「そうだよ! お兄さん乗ったことない?」
「そりゃあんなの、観光客くらいしか乗らねえだろ」
いつの間に、口調まで素が出て砕けてしまっているが、もう今更気を遣っても遅い。そもそも誘われたと思ったのは隆一だけで、真也はそういう対象として自分を見ていない可能性だってあった。
入り口で金を払って乗り込むと、観覧車はモーター音を上げながら上がっていく。
「あー、さっきいたとこ、もうあんな小さくなってる!」
隆一に身を寄せるようにして窓ガラスに額を押し付ける真也にしつこく促されて、隆一も仕方なく窓の下を見る。
「……本当だな」
意外にも、何だか隆一は腹の底がくすぐられるような、性的なものとはまた違った純粋で静かな興奮が芽生えてくるのを感じていた。
今までしたことのないことをしている。計算も何もなく、ただ楽しむためだけに今ここにいて、駆け引きのない会話をしている。
それだけのことが、ずっと忘れていたような、わくわくするような気持ちを隆一の中に呼び起こしている。
「お兄さん、そうやって笑ってた方がかっこいいよ」
言われて、ん? と真也を振り返った。
「さっきまでずっと、つまんなそうな顔してた」
ここ。
とんとん、と眉間をつつかれて、面食らう。
全く年の差に構えず、気にもしていない真也の様子に、隆一まで不思議と何も気にならなくなっていく。
「隆一」
「え?」
「俺の名前。隆一」
りゅう、いち、と口の中で転がすように繰り返した真也に、隆一はこの不思議で静かな興奮の正体を理解した。
恋に落ちる、一秒前。
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第84回 お題「ワイン」「大人になんてなりたくなかった」
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