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月のない空を見上げて
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そろそろ帰ってくるかな、と思っていたちょうどそのタイミングで、表戸がギイ、と音を立てた。
「たっだいま~。お、何? また見てんの? それ」
朱に近いオレンジの頭がひょい、とライハの手元を覗き込む。
「お前、よく飽きないねえ」
「……おかえり」
オレンジ頭の美人はリッカ、ライハの幼馴染で、相棒で、恋人だ。
美人と言ってもいざとなれば頭ひとつ大きいライハと背中合わせで肉弾戦にもつれ込んでも遜色なく戦える立派な武闘派の男である。ひとつ変わっているところがあるとすれば、大抵そうした男というのは美人だとか言われようものなら血相を変えて殴りかかってくるものだが、リッカの場合は「そうだろ?」と上機嫌になるところだった。
ライハとリッカは郊外のスラムで一緒に育った。物心ついた時にはもう親の顔も知らず、ライハはリッカの背に隠れるようにしていつでも一緒だった。背丈が逆転した今でも、組んで仕事をする時まず前に飛び出していくのはリッカで、そこはずっと変わっていない。
「なんだっけ、その古代美術のやつ。何回聞いても名前覚えらんね」
「ゴッホの『星月夜』だ」
「そうそれそれ。お前それほんと好きだよなあ」
それよかメシにしよーぜー、とダイニングの方へ消えていったリッカに、ライハもタブレットを置いて立ち上がった。
灼熱の五日間、と呼ばれる高エネルギー兵器を使用した世界戦争の前、世界が今よりはるかに広かった時代の芸術作品はもう余程の物好きしか興味を示さない。そもそも芸術、という言葉の意味するところもその頃と今では大きく異なっている。
立体映像や没入型ホログラム媒体の娯楽作品が当たり前の現代で、ただ紙や布に顔料を載せただけの平面的な絵や土や石で人や動物の形を模したものに楽しみを見出せる人種はごく少ない。大抵は大金持ちが暇を持て余して手を出す類のものだ。
だから、スラム育ちで大した教育も受けていないライハがそんな高尚かつ奇特なものに触れたのは、ただ盗品の中に混ざっていたジャンク品のタブレットが、たまたまそうした金持ち専門のセールスマンの備品だった、そういう偶然の賜物にすぎなかった。
「本物をいつか見たいなって思うよ」
「本物ぉ!? それこそ史料省の金庫にでも忍び込まなきゃ無理だろ」
「まあな。けどさ、生きてりゃもしかしたらいつかチャンスがあるかもだろ」
「金庫に忍び込む?」
「違うよ、たとえばそういう古代美術の流行が来るとかさ」
「あーね。なくはねーかもな」
支給品の合成肉を頬張りながら、リッカが穏やかな笑みを浮かべる。
政府の方針で出身に関係なく能力値に応じて就業斡旋を受けられるようになっても、自分たちのような下級労働者上がりがシティの中心街を歩いていれば白い目で見られることも多い。
だから、ライハはどれだけ仕事を通じて仲間と親しくなっても、リッカ以外に自分の隠れた趣味を打ち明けようとは思っていなかった。
リッカだけが、何の役にも立たない、現代においては誰も価値を見出さないような古代美術の絵画や彫刻といったものに惹かれるライハを馬鹿にすることなく、それなんだ? おもしれーの? と聞いてくれた。
「だってさ、その時代は空に月があったって、ものすごく幻想的だと思う。今よりずっと夜が暗くて、月の光でいろんなものが見えたんだろ。月の形も一定じゃなくて毎日少しずつ変わるとか、そりゃ何かに残したいって思うだろ」
ゴッホの『星月夜』はライハのいっとうお気に入りの作品で、かつて空に月があった頃、別の恒星である太陽とこの地球との位置関係によって細く弧を描いたように見える晩の夜空を描いたものだ。
大気汚染や宇宙からのエネルギー線の影響によって街の上空にシールドが張られ、夜も調節された人工の光が降り注ぐ今とは大きく違っていただろう世界を想像して興奮気味に話すライハに、リッカがくすりと笑いを漏らした。
「じゃあさ」
ライハの一番好きな笑顔で、リッカが言う。
「今夜は、散歩にでも行こうか」
「え? でも」
「気分だよ気分。そりゃ俺たちの街に月はないし、下手すりゃごろつきに襲われるけどさ。偽物のホログラムの夜景を貼っ付けた小洒落たシティのレストランなんかに行くよか、俺たちらしく郊外の廃墟から上を見上げてみようぜ」
昔の人とさ、気分だけでも一緒のことしてみりゃなんか味わえるかもじゃん?
そうやって、ともすれば前時代傾倒として危険思想の持ち主だと思われかねないような自分を丸ごと真正面から受け止めて、軽々と持ち上げてしまうような恋人は、どうしたって世界で一番頼もしかった。
ーーー
第85回 お題「星月夜」「夜の散歩」
「たっだいま~。お、何? また見てんの? それ」
朱に近いオレンジの頭がひょい、とライハの手元を覗き込む。
「お前、よく飽きないねえ」
「……おかえり」
オレンジ頭の美人はリッカ、ライハの幼馴染で、相棒で、恋人だ。
美人と言ってもいざとなれば頭ひとつ大きいライハと背中合わせで肉弾戦にもつれ込んでも遜色なく戦える立派な武闘派の男である。ひとつ変わっているところがあるとすれば、大抵そうした男というのは美人だとか言われようものなら血相を変えて殴りかかってくるものだが、リッカの場合は「そうだろ?」と上機嫌になるところだった。
ライハとリッカは郊外のスラムで一緒に育った。物心ついた時にはもう親の顔も知らず、ライハはリッカの背に隠れるようにしていつでも一緒だった。背丈が逆転した今でも、組んで仕事をする時まず前に飛び出していくのはリッカで、そこはずっと変わっていない。
「なんだっけ、その古代美術のやつ。何回聞いても名前覚えらんね」
「ゴッホの『星月夜』だ」
「そうそれそれ。お前それほんと好きだよなあ」
それよかメシにしよーぜー、とダイニングの方へ消えていったリッカに、ライハもタブレットを置いて立ち上がった。
灼熱の五日間、と呼ばれる高エネルギー兵器を使用した世界戦争の前、世界が今よりはるかに広かった時代の芸術作品はもう余程の物好きしか興味を示さない。そもそも芸術、という言葉の意味するところもその頃と今では大きく異なっている。
立体映像や没入型ホログラム媒体の娯楽作品が当たり前の現代で、ただ紙や布に顔料を載せただけの平面的な絵や土や石で人や動物の形を模したものに楽しみを見出せる人種はごく少ない。大抵は大金持ちが暇を持て余して手を出す類のものだ。
だから、スラム育ちで大した教育も受けていないライハがそんな高尚かつ奇特なものに触れたのは、ただ盗品の中に混ざっていたジャンク品のタブレットが、たまたまそうした金持ち専門のセールスマンの備品だった、そういう偶然の賜物にすぎなかった。
「本物をいつか見たいなって思うよ」
「本物ぉ!? それこそ史料省の金庫にでも忍び込まなきゃ無理だろ」
「まあな。けどさ、生きてりゃもしかしたらいつかチャンスがあるかもだろ」
「金庫に忍び込む?」
「違うよ、たとえばそういう古代美術の流行が来るとかさ」
「あーね。なくはねーかもな」
支給品の合成肉を頬張りながら、リッカが穏やかな笑みを浮かべる。
政府の方針で出身に関係なく能力値に応じて就業斡旋を受けられるようになっても、自分たちのような下級労働者上がりがシティの中心街を歩いていれば白い目で見られることも多い。
だから、ライハはどれだけ仕事を通じて仲間と親しくなっても、リッカ以外に自分の隠れた趣味を打ち明けようとは思っていなかった。
リッカだけが、何の役にも立たない、現代においては誰も価値を見出さないような古代美術の絵画や彫刻といったものに惹かれるライハを馬鹿にすることなく、それなんだ? おもしれーの? と聞いてくれた。
「だってさ、その時代は空に月があったって、ものすごく幻想的だと思う。今よりずっと夜が暗くて、月の光でいろんなものが見えたんだろ。月の形も一定じゃなくて毎日少しずつ変わるとか、そりゃ何かに残したいって思うだろ」
ゴッホの『星月夜』はライハのいっとうお気に入りの作品で、かつて空に月があった頃、別の恒星である太陽とこの地球との位置関係によって細く弧を描いたように見える晩の夜空を描いたものだ。
大気汚染や宇宙からのエネルギー線の影響によって街の上空にシールドが張られ、夜も調節された人工の光が降り注ぐ今とは大きく違っていただろう世界を想像して興奮気味に話すライハに、リッカがくすりと笑いを漏らした。
「じゃあさ」
ライハの一番好きな笑顔で、リッカが言う。
「今夜は、散歩にでも行こうか」
「え? でも」
「気分だよ気分。そりゃ俺たちの街に月はないし、下手すりゃごろつきに襲われるけどさ。偽物のホログラムの夜景を貼っ付けた小洒落たシティのレストランなんかに行くよか、俺たちらしく郊外の廃墟から上を見上げてみようぜ」
昔の人とさ、気分だけでも一緒のことしてみりゃなんか味わえるかもじゃん?
そうやって、ともすれば前時代傾倒として危険思想の持ち主だと思われかねないような自分を丸ごと真正面から受け止めて、軽々と持ち上げてしまうような恋人は、どうしたって世界で一番頼もしかった。
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第85回 お題「星月夜」「夜の散歩」
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